ローマ人への手紙の主題・主張・結論
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筆者は昨年4月から主日礼拝で「ローマ人への手紙」の講解説教を続けてきましたが、すでに70回目に至り、残るところわずかとなりました。さすがに、これだけ付き合ってみると、使徒パウロがどのような状況で、何を伝えようとしていたのか、すっきりと見えてきました。
1.ローマ人への手紙の主題
パウロがこの書簡を書いたのは、紀元後57年の初頭、第3回宣教旅行の途中、コリントにおいてであった、と筆者は考えます。パウロはこの後、エルサレムに救援募金を届けに行き、それからローマに行くつもりでした。そしてその後は、ローマの教会を母港として、イスパニア(スペイン)へ宣教旅行に行く計画を持っていました。
パウロが1章14-17節において、この書簡の主題を提示していることに、異論は無いと思います。
わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果たすべき責任がある。それで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることである。わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。(1:14-17)
問題は、この中のどの部分が最も重要なメッセージであったのか、ということです。
この書簡の執筆の目的については、歴史的に、次のようなことが論じられてきました。
①キリスト教の教理の大綱を示すため
②教会内の論争に結着をつけるため
③ユダヤ人信徒と異邦人信徒の融和を図るため
④教会の具体的必要に応えるため
⑤未知の教会に、パウロが宣べ伝えてきた「私の福音」(2:16)と呼ぶ使信の内容を紹介することで、自己紹介に代えるため
出典:橋本龍三著「ローマ人への手紙」『実用聖書注解』いのちのことば社
筆者が注目したのは「ユダヤ人」「ギリシヤ人」「すべて」というキーワードです。
「ユダヤ人」 Ἰουδαῖος (Ioudaios)
「ギリシア人」Ἕλλην (Hellén)
「すべて」πᾶς (pas)
ローマ人への手紙では、この三つの単語がそろって記されているテクストが、5つあります。
それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力である。(1:16)
悪を行うすべての人にははじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられる。(2:9)
善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。(2:10)
ユダヤ人もギリシヤ人も、ことごとく罪の下にあることを、わたしたちはすでに指摘した。(3:9)
ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。(10:12)
さらに、11章25-26節では「ユダヤ人」が「イスラエル人」 Ἰσραήλ (Israél) に、「ギリシヤ人」が「異邦人」ἐθνῶν (ethnōn) に拡大されます。ここでも「すべて」πᾶς (pas) を伴っています。
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。(11:25-26)
すなわち、ーー律法と福音の普遍性、民族宗教から世界宗教へのトランスフォーメイション、ユダヤ人と異邦人の和解、すべてのキリスト者の一致こそ、パウロが最も伝えたかった「奥義」μυστήριον (mystērion) であったーーと筆者は考えます。 まとめますと、「ユダヤ人も異邦人もすべてのキリスト者が一致協力して、全世界に福音を宣教しよう」というのが、この書簡におけるパウロの中心的なメッセージでした。
これが、「異邦人の使徒」として主に召されたパウロの根本的な確信・使命であり、彼の最も重要な使信の一つであったことは、以下のテクストによっても裏付けられるでしょう。
もはや、ユダヤ人(Ἰουδαῖος)もギリシヤ人(Ἕλλην)もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆(πάντες)、キリスト・イエスにあって一つだからである。(ガラテヤ3:28)
なぜなら、わたしたちは皆(πάντες)、ユダヤ人(Ἰουδαῖοι)もギリシヤ人(Ἕλληνες)も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆(πάντες)一つの御霊を飲んだからである。(第一コリント12:13)
そこには、もはやギリシヤ人(Ἕλλην)とユダヤ人(Ἰουδαῖος)、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべて(πάντα)であり、すべてのもの(πᾶσιν)のうちにいますのである。(コロサイ3:11)
すなわち、すでに簡単に書きおくったように、わたしは啓示によって奥義(μυστηρίῳ)を知らされたのである。あなたがたはそれを読めば、キリストの奥義(μυστηρίῳ)をわたしがどう理解しているかがわかる。この奥義は、いまは、御霊によって彼の聖なる使徒たちと預言者たちとに啓示されているが、前の時代には、人の子らに対して、そのように知らされてはいなかったのである。それは、異邦人(ἔθνη)が、福音によりキリスト・イエスにあって、わたしたちと共に神の国をつぐ者となり、共に一つのからだとなり、共に約束にあずかる者となることである。(エペソ3:3-6)
3.ルターによる「福音の再発見」
マルティン・ルターのいわゆる「塔の体験」、「福音の再発見」において決定的な意味を持ったのは、1章17節「信仰による義人は生きる」という一文でした。それ以前は、ーー「神の義」は罪人を断罪するものであって、その「信仰」とは「義」を獲得するために必要とされる人間の努力であるーーとルターは理解していました。しかし、それが全く逆であることを、彼は悟ったのです。
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。(1:17)
しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによって証しされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価いなしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべき贖いの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。(3:21-25)
ーー罪人が神に「義とされる」ために必要な条件は、人間が「律法」の行いによって満たせるものではない。それは、「イエス・キリスト」が十字架の死において為された「贖い」によって、完全に満たされている。それゆえ、イエス・キリストを信じる「信仰」を通して、罪人は贖罪の「恵み」にあずかり、罪が赦されて、神に「義とされ」、受け入れていただくことができる。その「信仰」すら、人間の行いによって得られるものではなくて、神が与えてくださる賜物である。この救いを成し遂げるのは、人間の義ではなくて、「神の義」であるーー。ルターはこの真理に目が開かれたのです。
この「キリストのみ」「恵みのみ」「信仰のみ」という原理が、宗教改革の原動力となりました。その意義の大いなることは、どんなに強調しても、し過ぎることはありません!
4.ローマ人への手紙の執筆事情
しかしながら、パウロがこの書簡を書いた当時、彼がローマの信徒たちに伝えたかった最も重要なメッセージは、論理的にそのもう一つ先にありました。その背景として、ローマの教会に起こっていた問題を考慮する必要があります。
ローマの教会は30年代に、ユダヤ人キリスト者によって創始されたようです。49年にローマ皇帝クラウディウスが出した勅令によって、ユダヤ人はローマから追放されました。54年にクラウディウス帝が死んだため、その勅令は解除されましたが、その間にローマの教会は、異邦人キリスト者が自立して主導するようになりました。
パウロがこの手紙を書いた57年頃には、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に、割礼や律法の遵守に関して論争があり、両者は分裂する危機にありました。ユダヤ人にはキリスト者となってからも、律法の習慣を遵守する人が多くて、異邦人にもそれを要求しました。それに対して、異邦人キリスト者は、ユダヤ人キリスト者を「信仰の弱い人」と言って批判しました(14:1)。
パウロはこの書簡によって、これらの問題について解答を示したのです。
5.ローマ人への手紙の中心的なメッセージ
昨年NIGTCで発行されたR. N. ロングネッカーのロマ書注解のように、前半の1章から8章までを重視して(720頁を費やす)、後半の9章から16章までを軽視する(322頁を費やす)傾向が、一部の教派や神学者にあると思います。ロマ書をキリスト教教理の教科書として見るだけであれば、それでも良いでしょう。
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しかし、ロマ書を、その時その場で特定の目的によって書かれた歴史的文書として見るのであれば、ーー後半の9章から16章までが重要な意味を持っている。いや、むしろ後半においてこそ、この手紙の目的が具体的に完遂されている。前半の1章から8章までは、後半で展開される主張を裏付けるために書かれた基礎的な理論であるーーと言えるのではないでしょうか。
兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは、彼らが救われることである。わたしは、彼らが神に対して熱心であることは証しするが、その熱心は深い知識によるものではない。なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられたのである。(10:2-4)
すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。(10:9-13)
この10章1-4,9-13節こそ、この書簡の始めに提示された主題に関する、最も重要な主張です。すなわち、ーーキリストによって罪の贖いが完全に満たされたのだから、もはや律法の遵守によって「自分の義を立てる」ことが、救いに必要な条件とはならない。ユダヤ人もギリシヤ人も、世界のすべての民が、「イエスは主キリストである」と信じる信仰のみを通してキリストの恩恵にあずかり、神に義とされて、救われるのだ。ユダヤ人と異邦人に差別は無いーーということです。
6.ユダヤ人の離反と信仰復興
パウロは、同胞であるユダヤ人がこの真理を受け入れずに、キリストの「教会」から離れていくことを危惧していました。そして、それは歴史的にこの後、現実となるのです。しかし、パウロは、ユダヤ人の信仰復興を確信して、預言しています。
そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。(11:1)
兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。すなわち、次のように書いてある、
「救う者がシオンからきて、
ヤコブから不信心を追い払うであろう。
そして、これが、彼らの罪を除き去る時に、
彼らに対して立てるわたしの契約である」。
福音について言えば、彼らは、あなたがたのゆえに、神の敵とされているが、選びについて言えば、父祖たちのゆえに、神に愛せられる者である。神の賜物と召しとは、変えられることがない。あなたがたが、かつては神に不従順であったが、今は彼らの不従順によってあわれみを受けたように、彼らも今は不従順になっているが、それは、あなたがたの受けたあわれみによって、彼ら自身も今あわれみを受けるためなのである。(11:25-31)
20世紀から21世紀にかけて生きている私たちは、まさにこの預言の成就を見ているのです。
7.ローマ人への手紙の結論
この書簡の結論は次のとおり、ーーキリスト者が一致して、神の栄光を現すようにーーという勧めです。
これまでに書かれた事がらは、すべてわたしたちの教えのために書かれたのであって、それは聖書の与える忍耐と慰めとによって、望みをいだかせるためである。
どうか、忍耐と慰めとの神が、あなたがたに、キリスト・イエスにならって互いに同じ思いをいだかせ、こうして、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をあがめさせて下さるように。
こういうわけで、キリストもわたしたちを受けいれて下さったように、あなたがたも互いに受けいれて、神の栄光をあらわすべきである。(15:4-6)願わくは、わたしの福音とイエス・キリストの宣教とにより、かつ、長き世々にわたって、隠されていたが、今やあらわされ、預言の書をとおして、永遠の神の命令に従い、信仰の従順に至らせるために、もろもろの国人に告げ知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを力づけることのできるかた、すなわち、唯一の知恵深き神に、イエス・キリストにより、栄光が永遠より永遠にあるように、アァメン(16:25-27)
(完)
<参考文献>
筆者は説教の準備にいろいろなツールを使いますが、何よりも聖書のテクストそのものをよく読んで、理解することが大切だと思います。そのために、まず日本語の聖書を諸々の訳で比較して読みます。
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そして、疑問や不明なところ、特に重要だと思った部分を重点として、ギリシア語テクストを調べます。テクストに関する情報収集にはパソコンやタブレット、ネットで、いろいろなアプリやサイトを多用します。
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ローマ人への手紙の注解書や説教集には、優れたものが、たくさんあります。私が読んだ中では、榊原康夫師の説教集が最高だと思いました。英書では Douglas J. Moo著『Romans』(The NIV Application Commentary)が、説教準備には最適だと思います。
パウロの生涯やローマ帝政下の地中海世界について理解することも必要です。これは各種の参考書が出ていますが、原口貞吉氏の著作はスゴいです!
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福音派と共産党の共闘?(4)
最近、筆者は、①小林多喜二の母・セキの一生を描く三浦綾子著『母』、②プロレタリア文学の金字塔・小林多喜二原作『蟹工船』劇画版、③高橋秀典著『聖書から見るお金と教会、社会』を読みました。
小林多喜二をはじめ、共産党に身を投じた人々の多くが求めたのは、①人間の「尊厳」が社会的に広く認められて、②法律と公権力によって「人権」が守られ、③「貧困」を克服して、④誰もが人間らしい生活ができるようにすることだったのではないでしょうか? しかし、多喜二の「優しい心」は、共産党に入党してから、母親にも理解できないほど変わってしまったように思いました。
ちなみに、三浦綾子さん御自身は、共産主義を支持しておられません。小林多喜二の親族にはクリスチャンが多くいて、お母様もキリスト信仰をお持ちになったようです。
「持っている者はさらに与えられ、持っていない者は持っている物まで取り上げられる」。これは聖書の格言です(マルコ4:25)。
①資本を持つ者が、資本を持たない労働者を「搾取」することによって、さらに富を集積していく。②拝金主義によって、人間の尊厳は侵され、失われる。③社会の秩序を保ち、資源や食糧を確保し、市場を拡大するために、国家は警察と軍隊を必要とする。④領土や利権をめぐる国家間の争いや対立が、戦争に至ることもあるーー。
これらは資本主義の必然であって、現代の世界も①わずかな超富裕層への富の集積、②貧困層の増大、③テロリズムと戦争、④難民問題に苦悩しています。
マルクス主義=共産党とは、「資本主義の根本問題を解決するためには、労働者が団結して社会主義革命を起こすしかない」というイデオロギーであり、運動です。共産党がめざす社会主義革命とは、①武力によって既存の体制を打倒して、②独占資本を解体し、③生産手段を国有化・公有化するものであり、④国際的・全世界的な革命を推進するものです。
しかし、20世紀に展開された共産主義運動は、①共産党員という新たな支配階級=特権階級を生み出しました。②計画経済は非効率的で、環境破壊が著しく、多くの国家が破綻しました。③貧困問題を解決することができず、恐ろしいほど多くの人命が飢餓によって失われました。④政治は共産党の一党独裁となり、首脳部に反対する者が大勢、粛清されました。⑤著しい軍拡を続けて、世界の各地で侵略戦争を起こしました。マルクス主義=共産党の運動が、資本主義の根本問題を解決できないことは、100年に及ぶ壮大な「社会実験」によって実証されているのです。
高橋秀典師は、①社会的弱者も「神のかたち」に創造された者として、その尊厳が保たれなければならない。②キリスト者は、保守と革新という枠組みの対立を超えたヴィジョン・新たな価値観を提示すべきだ。③「互酬」「再分配」「市場交換」という三つの経済原理の調和が重要だ。④神の平和(シャローム)をこの地に広げるという共同体的な信仰の運動、これこそ今、私たちが必要とする新たな宗教改革だーーと説いておられます。そして、それらがみな、聖書から学ぶことができる知恵である、というのです。筆者も高橋先生のご意見に賛成する者です。
カール・ポラニーは経済人類学的なアプローチによって、現代経済の原理的な問題を明らかにしましたが、それに応えてピーター・ドラッカーは現代「社会」の具体的なトランスフォーメーションについて論じていたように思います。このふたりの巨人が同郷で、親友であったというのは、神の配慮かと思います。
日本ではドラッカーを「経営の神様」のごとく崇めていますが(笑)、後期のドラッカーは「ソサエティーやコミュニティーこそ、21世紀の最も重要な問題だ」と主張していたように思います。現代資本主義が最も発達した米国は「貧困大国」でもありますが、その社会を支えているのは、巨大な非営利組織の活動です。アメリカでは、市民が現代資本主義の弱点を補っているのです。
もちろん政府の公的な補助金や企業の献金もあるわけですが、何と言ってもアメリカの富は超富裕層に著しく偏在しています。そこが法人資本主義の日本と大きく異なるところです。ビル・ゲイツの呼びかけに応えて、アメリカの超富裕層が財産の半分を慈善事業に寄付したこともありました(2010年)。アメリカの資産家やエリートは、社会に貢献する活動に熱心に取り組んでいます。その動力となっているのはやはり、アメリカ的なキリスト教精神と愛国心でしょう。
日本では「少子高齢化=人口減少時代において必要とされる社会の変革を担うのは、政府か企業か市民か。コストは誰がどのように負担するのか」という差し迫った問題があります。法人税、所得税、固定資産税、相続税、消費税など税制の調整が必要であり、年金・健康保険・介護保険の保険料と給付の調整も必要です。伝統的な地縁共同体や血縁共同体は瓦解しつつあります。今後、インターネット・AI(人工知能)・ロボットの発達が、生産の領域だけでなく、再生産の領域を含めて、現代社会の全体を大きく変えていくでしょう。
今、日本の政治・経済・社会は、従来の単純化した枠組みを乗り越える、新しい枠組みを必要としています。そこに日本のキリスト教は、どのように絡んでいくのでしょうか。
映画『母 小林多喜二の母の物語』主演・寺島しのぶ 監督・山田火砂子 原作・三浦綾子 製作・現代ぷろだくしょん
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【討論】シリーズ「日本の敵」:日本共産党とは何か?[桜H28/10/15]
kanai.hatenablog.jp
kanai.hatenablog.jp
「50+20 ー日本の教会の戦後70年ー」
http://jeanet.org/wp/wp-content/uploads/2015/09/4b2d5755c465e7c54d2f704c6deeb1aa.pdf
4月16日号紙面:国家や政治の課題を神学的に研究 「教会と政治フォーラム発会式 – クリスチャン新聞オンライン
野党と市民 共闘さらに/衆院選へ本気 提案や決意/都議選 自民現職に競り勝った北多摩3区
日本伝道のブレイクスルー戦略(3)
[注]この論説は、日本イエス・キリスト教団 信徒局 教会教育室 が発行している『聖書教育教案誌 牧羊者』の「教師養成講座」に、筆者が連載している記事を転載したものです。
第3章 日本伝道のブレイクスルー
第1節 伝道の社会的障壁
ウィルクス師をはじめ多くの伝道者が、伝道のモデルケースとして、主イエスのサマリヤの女への伝道(ヨハネ4章)に注目しています(『救霊の動力』第13章参照)。これを参考にしつつ論考を進めます。
サマリヤの女はイエスに言った、「あなたはユダヤ人でありながら、どうしてサマリヤの女のわたしに、飲ませてくれとおっしゃるのですか」。これは、ユダヤ人はサマリヤ人と交際していなかったからである。(9)
サマリヤは北王国イスラエルの首都でしたが、その都市は紀元前722年にアッシリア帝国の軍隊によって滅ぼされました。イスラエルの指導者ら二万人以上がアッシリアに捕囚として連れ去られ、代わりに帝国の各地から移民がこの地に入植しました。その後、イスラエルの残りの民と入植者の雑婚が進んで、サマリヤ人となったのです。
彼らはゲリジム山に神殿を築いてユダヤ人・エルサレム神殿に対抗しました。そしてモーセ五書を何千個所も改竄(かいざん)して、独自の「聖書」(サマリヤ五書)を作りました。ユダヤ教徒から見れば、サマリヤ教徒は異端です。 前2世紀のマカバイ戦争では、サマリヤ人はセレウコス朝に味方してユダヤ人を攻撃し、ユダヤ人は報復としてゲリジム神殿を焼き討ちにしました。
このような関係ですから、ユダヤ人はユダヤとガリラヤの間を行き来する時、サマリヤを避けてヨルダン渓谷を通りました。 ところがこの時、主イエスはあえてサマリヤを通ってユダヤからガリラヤに帰ることとされました。主がサマリヤ人に伝道することに、重要な意味があったのです。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう。 (使徒行伝1:8)
出典 http://scriptures.lds.org/jpn/biblemaps/11
私たちが日本で伝道するにあたっても、民族や国家、共同体の宗教といった社会的な障壁にぶつかります。これを打ち破るためには、それが何であるか正しく理解して、適切に対処する必要があります。
「日本の宗教人口は2億人」と言われますが、一つの家が神社の氏子であり、寺院の檀家でもあります。この場合、宗教とは地縁と血縁による共同体への所属を意味しています。「キリスト教は、日本を侵略した外国の宗教だ。受け入れたら日本人の民族性が失われる」。そんな意識が染み付いていて、抵抗感のある人が未だに少なくありません。子どもが小学生なら教会学校に通うことを許していても、中学生になったり、「洗礼を受けたい」と言い出したりしたら、教会に行くことを禁じる家庭もあります。
第2節 檀家制度の崩壊
わたしたちの先祖は、この山で礼拝をしたのですが、あなたがたは礼拝すべき場所は、エルサレムにあると言っています。(20)
長寿社会、少子化、地方圏から大都市圏への人口の移動、グローバリゼーションなどによって、日本の家族や地域社会は著しく変化しています。過疎化、限界集落化、地方消滅、認知症社会、無縁社会という現実が広がっており、神社や寺院を支えてきた伝統的な血縁共同体と地縁共同体が瓦解しているのです。
現代の日本人は、7割が無信仰・無宗教を自認するほど、世俗化・宗教離れが進行しています。自分の家がどの宗派のどの寺院の檀家であるのか分からない、あるいは寺院との関係を持たない家庭が増加しています。キリシタン絶滅政策であった檀家制度が崩壊しつつあるのです。
家の宗教・宗派が特に問題となるのは葬式です。
①葬祭の情報サービス会社である鎌倉新書が2014年に関東圏で実施した調査の結果は次のとおりです。
一般葬(参列者が31人以上) 34パーセント
家族葬(参列者が30人以下) 32パーセント
一日葬(一日だけの葬儀) 11パーセント
直葬(葬儀を行わず火葬のみ)22パーセント
②エンディングデータバンクの調査によると、2016年の首都圏での葬式の費用は次のとおりです。
50万円未満 21.1パーセント
100万円未満 26.5パーセント
150万円未満 27.5パーセント
200万円未満 10.2パーセント
250万円未満 6.3パーセント
300万円未満 2.5パーセント
350万円以上 5.7パーセント
③日本消費者協会が実施した第10回葬儀についてのアンケート調査(2014年)によると、葬儀費用の合計は全国平均額で188.9万円でした。これは年々下降しています。その内訳の主なものは次のとおりです。
葬儀一式費用(通夜式・告別式) 122.2万円
寺院への費用(お経、戒名、お布施) 44.6万円
最近の葬式には次のようなトレンドがあります。
①従来一般的であった臨終→密葬→通夜式→本葬儀・告別式→火葬→法要→納骨という流儀が崩れています。
②葬式を一日で済ませるケースが増えています。
③少人数で行う家族葬や直葬が増えています。家族葬に特化した小規模でローコストの葬祭場が増えています。
④僧侶を呼ばずに葬式を行うケースが増えています。
⑤葬儀とは別に「お別れの会」をホテルなどで開催するケースも増加しています。
ちなみに筆者は、タイミングによっては教会の主日礼拝を「追悼礼拝」として、それを本葬儀にしています。また、故人が地域社会で活躍していた場合、ご自宅で「お別れの会」と称して、会葬者100名以上が次々と入退場し献花をする前夜式を行うことがあります。長寿化によって喪主や遺族も高齢者が多くなり、葬式に二日も三日もかけることは体力的に困難になっているからです。
第3節 宗教消滅
この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。(13〜14)
最近の葬式の変化には、経済的な事情も関係しています。1991年(平成3年)から20年以上続いた平成不況によって、パート、アルバイト、派遣社員、契約社員等の非正規雇用労働者と貧困層が増加し、日本の相対的貧困率は16パーセントに達しています(厚生労働省「国民生活基礎調査」2012年)。生活保護受給世帯数は1990年には62万世帯でしたが、2014年には161万世帯を越えました。
ところが、戒名料の相場はバブル経済の時期にインフレを起こしたまま下がらず、信士・信女が30~50万円、居士・大姉が50~70万円、院信士・院信女が80万円以上、院居士・院大姉が100万円以上だそうです。これでは寺院離れが起こるのも当然でしょう。
そもそもインドの初期仏教や部派仏教は、葬儀と関係が無いものでした。キリスト教など西方の宗教から影響を受けて生まれた大乗仏教が中国に伝わり、そこで儒教の影響を受けて葬式仏教が生まれたようです。戒名は本来、出家者の証であって、在家の信者が持つものではありません。最近は、こういった真実を明示する書籍が次々と発行されています。
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今や「寺院消滅」の時代と言われています。2015年には約7万7千の寺院がありましたが、そのうち2万以上の寺院が無住(空き寺)であり、約2千の寺院は活動実態がありません。専門家の試算によると、2040年には日本の寺院の3〜4割が消滅しかねない情勢です。ただし宗教学者の島田裕巳氏によると今は、仏教の寺院だけでなく神道の神社も新宗教の施設も含めて「宗教消滅」の時代のようです。
我々キリスト教会の課題は「寺院や神社に代わって、教会が地域の人々の受け皿になれるか」ということです。寺院や神社が日本の地域社会においてソーシャル・キャピタル(社会資本)として果たしてきた公共的な役割は、絶大なものです。「教会は所属する会員=クリスチャンのことしか考えないし、配慮しない」と見られるようでは、教会は地域社会で生き残れないかもしれません。
筆者はこの2年間ほど日本イエス・キリスト教団兵庫教区で婦人部長を務めました。昨年秋の婦人部例会では、水野健牧師を講師にお迎えして「ひと味違う終活セミナー」を開催し、エンディングノートの書き方などを学びました。男性も含めて209名の参加者があり、大変好評でした。この分野は牧会だけでなく伝道においても大きな可能性があります。
クリスチャン企業のライフワークスやブレス・ユア・ホームは、教会に所属していないクリスチャンやノンクリスチャンのための葬儀も行っており、登録した牧師を教会外のキリスト教式葬儀に派遣しています。これは日本宣教において画期的な活動です。
第4節 芋づる式の伝道
あなたは、この井戸を下さったわたしたちの父ヤコブよりも、偉いかたなのですか。ヤコブ自身も飲み、その子らも、その家畜も、この井戸から飲んだのですが。(12)
日本の従来の伝道は「一本釣り」が多かったのですが、終活・葬儀は「芋づる」式の伝道となります。葬儀には故人の子どもや孫、ひ孫まで参列します。
キリスト教式葬儀は自然に伝道となります。葬儀は、誰もが生と死の意味を考えさせられる厳粛な場です。死は、参列する人すべてが、いつかは経験しなければならない現実です。参列者が「私も家族もこうやって葬式をするのだろう」と思えば、その家の宗教はキリスト教に定まります。そこからキリスト信仰に進むのは容易です。
筆者が牧会する神戸大石教会は、宣教開始から86年の歴史があります。筆者は着任してから1年半ほど、ある長老のご自宅に何度も通って教会の歴史を学びました。その長老は教会の歴史と信徒の証しを記録した『群乃足跡』という冊子を何度も発行しました。筆者は長老にお願いして、教会員の家系図を作っていただきました。これらは葬儀だけでなく伝道牧会にも非常に役立ちます。
第5節 文化的障壁のブレイクスルー
あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(21)
①アレクサンドロス大王の東征(前334〜前323年)以来続くヘレニズム(ギリシア文化のオリエント世界への浸透)の影響を強く受けていました。
②地中海世界を統一したローマ帝国によるパクス・ロマーナ(ローマの平和)のもとで世界中の人と文化に接触していました。
③ユダヤ人やサマリヤ人にも、当時の世界の共通語であるギリシア語を使いこなす人が大勢いました。
これは、我々現代の日本人が経験していることに似ています。
①ザビエルの来日以来ヨーロッパ文化の影響を受けるようになり、さらに江戸幕府末期の開国以来、欧米との交流・貿易が盛んとなりました。
②太平洋戦争の敗戦以降、パクス・アメリカーナのもとで世界中の人と文化に接触するようになりました。特にアメリカニゼーションは著しいものです。
③公教育で世界の共通語である英語を学び、ビジネスなどで使うようになりました。
ただし、主イエスが復活後、世界宣教命令を下したのに、聖霊降臨後も弟子たちは「エルサレム、ユダヤ」から外に出ようとしませんでした。ヘブライスト(アラム語を日常的に使うユダヤ・ガリラヤのユダヤ人)には、サマリヤ人や異邦人に対する拒絶感があったのです。
けれど間もなく、ステパノの殉教に続いて起こった迫害によって散らされた弟子たちによって、サマリヤの伝道が行われ、世界宣教が開始されました(使徒行伝8章)。その弟子たちは長年外国で生活してきたディアスポラ(離散民)であり、ヘレニスト(ギリシア語を日常的に使う人)のユダヤ人でした。
最初期キリスト教は、なぜローマ帝国に広まったのか - カナイノゾム研究室
近年、日本人の受洗者は、国内で洗礼を受ける人よりも、外国で洗礼を受ける人の方が多くなっています。国際化=グローバリゼーションによって、日本人伝道のブレイクスルーが海外ですでに始まっているのです。ただし、ディアスポラ日本人クリスチャンで帰国後に日本の教会につながる人は、2割くらいしかいないようです。
JCFN Japanese Christian Fellowship Network http://jcfn.org/jcfnhome/index.php?lang=ja
最初期の教会では、割礼・食物・安息日・祭儀などの律法の規定と慣習が、異邦人伝道の障害となりました(使徒11:1-3, コロサイ2:16)。今日の日本の教会は、伝道の妨げとなるものに固執していないでしょうか。教会の伝統文化は大切ですが、異なる文化も受容して良いのではないでしょうか。CS教師には、現代の子どもや若者の文化を理解する努力が必要です。
第6節 知的障壁のブレイクスルー
あなたがたは自分の知らないものを拝んでいるが、わたしたちは知っているかたを礼拝している。(22)
第2章で述べたように、日本人には多元的な宗教性があります。また戦後70年間、科学万能主義・唯物論・進化論に基づく無神論的な公教育が為されてきました。このような日本の人々に対して、私たちキリスト者は辛抱強く、聖書・キリスト教が宗教的に唯一の絶対的な真理であることを、証ししなければなりません。そのためにCS教師は、聖書の教理と弁証論を学ぶ必要があります。
教理は日本イエス・キリスト教団が発行している『信仰生活の指針』に簡潔に記されています。1956年に教団から発行された小豆正夫著『キリスト教のおしえ』というカテキズムがありましたが、文体や内容を現代的に修正して、これを用いるのも良いでしょう。弁証論はハロルド・ネットランド、内田和彦 著『キリスト教は信じられるか』(いのちのことば社)をお薦めします。
現代の子どもや若者への伝道においては、メディアが重要な鍵となっています。筆者は聖書・キリスト教関係のマンガを収集して、教会で閲覧・貸出をしています。筆者は2010年にクリスチャンセンター 神戸バイブル・ハウスで、2012年には東京の教文館で、仲間と共に「マンガ・アニメ聖書展」を開催しました。
日本人が作るマンガはクオリティーが高くて、世界中で人気があります。ケリー篠沢作『マンガ・メサイア』は700万部以上頒布され、イスラム圏でもキリスト教のリバイバルを起こしています。
「アンダー25」と言われますが、今25歳以下の人たちは、パソコンやインターネットがあって当たり前という環境で育っています。内閣府の調査によると、スマートフォン(スマホ)の所有率は中学生が51.7パーセント、高校生は94.8パーセントにのぼります。スマホによるネットの利用時間は中学生で平均124分、高校生だと平均で170分もあります。
SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)とりわけLINE(ライン)が若者たちの交流の場となっています。紙の本を読まず、スマホの画面ばかり見ている若者たちに伝道するためには、YouTube(ユーチューブ)で福音的な動画を公開して、LINEやTwitter(ツイッター)、Facebook(フェイスブック)等で拡散することが有効でしょう。
第7節 霊的障壁のブレイクスルー
神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。(24)
あなたと話をしているこのわたしが、それである。(26)
聖書において「霊」という語は、天的な存在の次元を表し、あるいは人が持つ神との交流能力を意味しています。信仰とは、キリストにあって啓示された神との出会いから始まり、神との人格的な交わりを深めていく営みに他なりません。その出会いは、イエスをキリストと信じて新生し、神の御霊を宿している人との交わりを通して、与えられるものです。この交わりは電子空間では足りず、フェイス・トゥ・フェイスが大切ではないでしょうか。
最後に一つの提案をさせていただきます。
①信徒が主体的に、
②自分たちが暮らしている地域で、
③土曜日や祝日に、
④所属している教会を超えて集まり、
⑤子ども伝道あるいは教会学校を行う。
二代目、三代目、四代目と信仰継承が続けば良いのですが、ーー教会から離れた地域に転居したりするうちに、子どもや孫らが日曜朝の教会学校から離れてしまったーーというケースが少なくありません。それならば、自分たちの住んでいる地域で、協力して何とかしようよ、ということです。
探してみたら、案外、近所に同じ教団の信徒や同じ信仰を持つ教派の信徒がいたりします。 今、日本イエス・キリスト教団が推進している「協力教会制度」をこのために活用できないでしょうか。
メンバーが2〜3人でも集まったならば、まずはお互いの課題を分かち合い、テキストブックを読んで学び、共に祈ることから始めてみたら、いかがでしょうか。
もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。(マタイ18:19-20)