聖書の死生観と救済論
なぜ人は、生から死へ移行する時に、葬りの儀礼を行うのだろうか。死者を葬る儀礼は、あらゆる時代を通じて、人類社会に普遍的に見られる現象である。〈仲間の遺体を生ごみのように捨てることをルールとしている社会は、存在しない。必ずしかるべき儀礼によって死者を丁重に葬るのである〉(佐々木宏幹・村武誠一編『宗教人類学(宗教文化を解読する)』新曜社、1994年、pp.59-60)。葬りには何らかの霊的・宗教的・社会的な意味が存在しているはずである。人の心は常に意味を求めており、人は生と死の意味を考えずにはいられない。聖書は、葬送儀礼を意味づける死生観を、明確に教えている。聖書の死生観と救済論について考察してみたい。
1.人間とは何ものか
聖書に拠れば、この地球上に人間が存在する根本的な理由は、神の意志にある 。それは最初の人(アダム)だけではない。民族や国籍、宗教の如何にかかわらず、現生人類すべての存在が神の意志に因るものである。
それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。(詩篇139:13-16)
聖書に拠れば、人間の肉体は〈土地のちり〉に過ぎない。神の「息」(命、霊)がそれに宿ることによって、人は生きている 。死とは「息」が取り去られることである。 人の生と死に神が決定的に関わっている 。
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。(創世記2:7)
主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう」と仰せられた。(創世記6:3)
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道者の書12:7)
霊から離れた体は死んだものである。(ヤコブ2:26)
主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、120年にしよう」と仰せられた。(創世記6:3)
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。(伝道者の書12:7)
霊から離れた体は死んだものである。(ヤコブ2:26)
天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。(中略)神のなさることは、すべて時にかなって美しい。(伝道者の書3:1-2,11)
二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。(中略)だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。(マタイ10:29,31)
人間も動物の一種であるが 、人間には、他の動物と決定的に異なる性質と能力がある。すなわち、人間は神に似せて「神の像」に造られている。人間は、神の意志に従って地を治める能力を持っており 、神を礼拝する霊性を持っており 、神の摂理と永遠の世界について思索する性向を持っている。
私は心の中で人の子らについて言った。「神は彼らを試み、彼らが獣にすぎないことを、彼らが気づくようにされたのだ」。人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。両方とも同じ息を持っている。人は何も獣にまさっていない。すべてはむなしいからだ。みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。(伝道者の書3:18-21)
神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ」。(創世記1:28)
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:23-24)
神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。(伝道者の書3:11)
2.罪と死の支配
聖書に拠れば、死は始めからあった自然な現象ではない。現生人類の始祖が神の戒めを破ったために、「罪」が人類に侵入し、それが「死」をもたらしたのである。
善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。(創世記1:17)
あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。(創世記3:19)
ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった。(ロマ5:12)
ひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになった(中略)。罪が死によって支配した。(ロマ5:17,21)
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。(ヤコブ1:14-15)
罪の報酬は死です。(ロマ6:23)
死は人間が犯した違反に対する神の刑罰である。 「罪」はすべての人に宿っている法則・力であり、神の意志・律法に逆らう性質を持っている。 西方神学ではこれを「原罪」と呼ぶ。
罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことです。(第一ヨハネ3:4)
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。(ロマ7:19-20)
聖書が教える「死」には、主に三つの意味がある。
第一は、神に離反する霊的死の状態である。
あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:1-3)
第二は肉体の死である。キリストの贖罪にあずかっていない死者の霊はハデス(シェオール、よみ、黄泉、陰府)に行く。 これは肉体の死から最後の審判までの中間状態である。ハデスは悪魔・悪霊が支配する城塞である。 ハデスには、火炎によって罪人が苦しめられる場もある。
まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。(詩篇16:10)
わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの軍門もそれには打ち勝てません。(マタイ16:18)
金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。「父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。(ルカ16:22-24)
第三はゲヘナ(地獄)における永遠の火の刑罰である。
そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第二テサロニケ1:8-9)
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20:13-15)
おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。(黙示録21:8)
人間は自分を死から救うことはできない。他人を救うこともできない。なぜなら、すべての人が「罪」の支配下にあるからである。
ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にある。(ロマ3:9)
義人はいない。一人もいない。(ロマ3:10)
人はだれも、律法を行うことによっては神の前に義と認められない。(ロマ3:20)
私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ロマ7:22-24)
3.罪と死に打ち勝ったキリスト
人となった神の御子イエス・キリストだけが、完全に罪の力に打ち勝って 、天父の意志に完全に従い抜き 、完全な義を実現した。
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ロマ8:3)
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6-8)
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(ヘブル5:7-10)
すべての人が罪の報いとして受けるべき神の怒り ・裁き ・のろい を、キリストが身代わりに引き受けて、十字架上に死んだ。
神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。(ロマ8:3)
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。(ピリピ2:6-8)
キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。(ヘブル5:7-10)
キリストは、人類の罪すなわち神に対する負債を贖う代価として、御自身を犠牲とした。 それによって人類の罪に対する神の怒りは和らいだ。
こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。(ロマ5:18-19)
不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されている。(ロマ1:18)
それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。(ロマ3:19)
律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。(ガラテヤ3:10)
彼は自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。(第一ペテロ2:24)
キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。(第一ペテロ3:18)
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。(ガラテヤ3:13)
それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。(コロサイ2:13-14)
キリストはご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(ヘブル9:12)
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは私たちが、この方にあって神の義となるためです。(第二コリント5:21)
キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。(第一テモテ2:6)
神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。(ヘブル2:17)
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。(ロマ5:8-10)
神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られる。(第一テサロニケ1:10)
イエス・キリストはハデスに落ちて行かれた。キリストはハデスの勢力を征服して 、蘇った(黄泉帰った)。 キリストは完全に死の力に打ち勝った。
子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2:14-15)
それで後のことを予見して、キリストの復活について、「彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない」と語ったのです。(使徒2:31)
神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(使徒2:24)
わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。(黙示録1:18)
御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。(中略)すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。(マタイ28:5-6,9)
キリストは復活後40日にわたって、大勢の人々に復活の体を現わした。 それからキリストは天に昇った。 それは勝利の凱旋であった。
キリストは、聖書が示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、葬られました。そして、聖書に従って三日目によみがえられて、ケパに現われ、それから十二弟子に現われました。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。(第一コリント15:3-6)
イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。(使徒1:9)
「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた」。――この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。(エペソ4:8-10)それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。(コロサイ2:15)
キリストは父なる神の右の座に就いた。 キリストは、天も地上も地下(ハデス)も、全ての領域を支配する権威を持つ王となった。
神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ロマ8:33-34)
彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。(使徒2:30)
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。(マタイ28:18)
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。(エペソ1:20-22)
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。(ピリピ2:9-11)
キリストは大祭司としていつも、人々のために父なる神にとりなしをしている。
もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、私たちの罪だけでなく全世界のための、なだめの供え物なのです。(第一ヨハネ2:1-2)
キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(ヘブル7:24-25)
4.イエス・キリストを信じる者は救われる
それゆえ、イエスを主キリストと信じて 洗礼を受ける者は 、すべての罪が赦されて 、神に義と認められ 、神と和解し 、神の子として新生し 、永遠のいのちを与えられて 、天国の国民とされる。
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(中略)ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。(ロマ10:9-13)
信じてバプテスマを受ける者は、救われます。(マルコ16:16)
悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。(使徒2:38)
しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。(ロマ3:21-25)
もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。(ロマ5:10-11)
神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。(第二コリント5:18-19)
この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。(ヨハネ1:12-13)
神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(第一ペテロ1:3)
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
私たちの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)
イエス・キリストを信じる者は死後、その霊が天国に行く 。
まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。(ルカ23:43)
私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(ピリピ1:23)
5.終末時代
終末時代には、偽キリストや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議なわざによって多くの人を惑わす。民族間の紛争や国家間の戦争が次々と起こり、方々で飢饉と地震が起こる。キリスト者は迫害を受けて、殺される。裏切る者たちや棄教する者たちが大勢いる。不法がはびこり、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。神の国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国の人々に証しが為される。それから終わりの日が来る(マタイ24:3-24参照)。
6.キリストの再臨とキリスト者の栄化
その時には、太陽も月も星も、天の万象が揺り動かされる。イエス・キリストは栄光を帯びて天の雲に乗って、この世に再び来られる。 その時にまず、キリストに結ばれて死んだ人たちがよみがえる。次に、この世に生き残っているキリスト信者が、その人々と共に雲の中に引き上げられる。 その時に、死者も生者もすべてのキリスト者が、復活のキリストと同じ体に変えられる 。それは天上の体、栄光の体、強い体、御霊の体、朽ちない体、不死の体である 。
第一コリント15:40-53参照
主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4:16-17)
キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。(ピリピ3:21)
7.最後の審判と新天新地
それからイエス・キリストは、あらゆる支配と権威と権力を滅ぼし、最後の敵である死を滅ぼす。 キリストは全宇宙の王となる。キリストは最後の審判を行って、すべての生者と死者を二つに分ける。 一方は、ゲヘナ(地獄)に投げ込まれて、永遠の火の刑罰を受ける。もう一方は〈新しい天と地〉すなわち、完成された永遠の天国に入り、永遠に神と共に生きる。
第一コリント15:40-53参照
人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい」(中略)それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。「のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火に入れ」。(マタイ26:31-34,41)
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである」。すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする」。(黙示録21:1-4)
自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。(22:14)
8.系図・葬式・墓
以上のような死生観は具体的には、どのようなかたちで表現されるのであろうか。
聖書は、最初の書「創世記」の4章17~22節(カインの子孫の系図)から最後の書「ヨハネの黙示録」の7章4~8節(イスラエル12部族のリスト)に至るまで、系図や部族のリストで満ちている。新約聖書が「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(マタイの福音書1:1)から始まっていることは有名である。イスラエル民族の系図は男系である。
信仰の父アブラハムに対して、神はこう仰せになった。
「わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる」(創世記17:7-8)
モーセがホレブ山で神に出会った時に、神はこう仰せになった。
「イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である」(出エジプト記3:15)
聖書の民イスラエルが血縁・民族・部族を重視する共同体であることは、明白である。
アブラハムの妻サラが死んだ時に、アブラハムはカナンの地にあるマムレ(ヘブロン)に面するマクペラの畑地のほら穴を買い取って私有の墓地とし、そこに妻サラを葬った(創世記23章)。これが聖書に記されている最初の葬りと墓である。アブラハム夫婦とイサク夫婦、ヤコブ夫婦はこの墓に葬られた(創世記25:8-10、35:27-29、49:29-33)。
エルサレムにはダビデ王(在位:前1000年~前961年頃)の墓が今でも残っている。
イエス時代のユダヤの伝統的葬儀は、次のように行われていた。まず遺体は水で洗われた。それから香料や香油、没薬等を遺体に塗った。そして、白い布にくるんで墓に運んだ。その葬列には多くの人が付き添った。プロフェッショナルの泣き女が大声で泣いて、人々の涙を誘った。富裕な人は横穴式の大きな墓を使用したが、〈貧しい人たちは、地面に掘った横50cm、深さ180cm程度の竪穴に埋葬された〉 。遺体は墓の中の棚か石棺、木棺に1年間安置される。1年後、家族が来て、枯れた骨を骨箱に移し変えた。
イエス・キリストは墓に葬られたが、復活したので、その墓は空っぽになった。エルサレムの黄金門(東門)前の斜面にはたくさんの墓がある。それは、キリストが再臨した時にこの門を通るので、そこで真っ先に復活したいからだという。
使徒信条で告白するとおり、キリスト者は皆、「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命」を信じて、葬送儀礼を行っている。ローマ・カトリック教会は今日でも土葬を原則としているが、それは復活の信仰ゆえである。欧州で火葬が行われるようになったのは1860年代からである。英国では21世紀初頭には約70パーセントが火葬となっている。
イスラエル民族・ユダヤ人・聖書は、系図を継承し、祖先から受け継いだ宗教的な遺産を大切にしている。ユダヤ人やキリスト者も日本人と同様に墓を大切にしている。このようにユダヤ人やキリスト者と日本人に重なる美点には、肯定して良い部分も多々あるのではないだろうか。日本で宣教する者たちは、日本の風習を「偶像崇拝」の一言で全面否定せず、それが聖書・キリスト教と何が違っていて何が似通っているのか、何を変えるべきで何を残すべきか、明確に伝えていくことが重要である。
ナムアミダブツとキリスト教(2)
今回は、浄土教の思想の歴史的発展について考察してみます。この記事は一つの壮大な仮説としてお読みください。
1.無量寿経
法然を宗祖とする浄土宗や親鸞を宗祖とする浄土真宗は、無量寿経(大経)、観無量寿経(観経)、阿弥陀経(小経)の漢訳経典を浄土三部経と呼んで、根本経典としています。インドでの成立年代については諸説ありますが、漢訳原典の成立年代は無量寿経が252年頃、観無量寿経が430-442年頃、阿弥陀経が402年頃と考えられています。「浄土三部経」の名を付けたのは法然です。
阿弥陀仏は元来、神的存在ではなくて、人であったとされます。 無量寿経によると、修行僧ダルマーカラ(法蔵菩薩)は、衆生救済のために王位を捨てて、ローケーシヴァラ・ラージャ如来(世自在王仏)のもとで 、五劫(ごこう)の間、思惟(しゆい)をこらし、四十八の誓願をして修行を重ね、浄土への往生の手立てを見出したので、如来(仏)になったというのです。
無量寿経で修行僧ダルマーカラ(法蔵菩薩)は次のように述べます。
こよなきみ仏に無限の威光あり、 王の中の王(であるみ仏が)あらゆる方角を照らしたまうように、 そのように、願わくはわたくしは、法の主である目ざめた人(仏)となって、 生ける人々を老いと死から解放しよう。 わたくしは、一切の生けるものどもの救い主である仏になりましょう。
世尊よ、もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量の諸仏国土における無量・無数の世尊・目ざめた人たち(=諸仏)が、わたくしの名を称えたり、ほめ讃えたりせず、賞賛もせず、ほめことばを宣揚したり弘めたりもしないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。(第十七願)
世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の諸々の世界にいる生ける者どもが、〈この上ない正しい覚り〉を得たいという心をおこし、わたくしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信ずる心)を以てわたくしを念いつづけていたとしよう。ところでもしも、かれらの臨終の時節がやって来たときに、その心が散乱しないように、わたくしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に立つということがないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。(第十八願)
世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比の諸世界にいる生ける者どもが、わたくしの光に照らされてはっきりと明らかに見えるようになったとして、かれらすべてが、神々と人間とを超えた幸せをそなえるようにならないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。(第三十三願)
世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比の諸世界にいる生ける者どもが、わたくしの名を聞いて、名を聞いただけで、覚りの本質の究極に至るまでの間、浄らかな行ないを実行するようにならないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。(第三十五願)
世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、かの仏国土に生まれた求道者たちが希望する通りのみごとな特徴や装飾や配置を、さまざまな宝石のあいだから気づき認めることができないようであったら、その間はわたくしは、〈この上ない正しい覚り〉を現に覚ることがありませんように。(第三十九願)
主よ。広大にして無比・無限なる光明は、 四方八方のあらゆる仏国土を満たし、 貪欲を静め、あらゆる憎悪と迷いとを静めて、 地獄界の火を消した。 月と太陽の光も天空に輝かず、 殊宝の群れも、火の光も、神々の光も(輝くことがない)。 清らかな過去の行ないを実行して、 人間の王者(=仏)の光はあらゆる(光に)うち勝つ。 最高の人となり、苦しみ悩む者どもの宝となる。 四方八方にこのような人はいない。 百千の善をことごとく円満に成就して、 会衆の中にいて、目ざめた人(=仏)の獅子吼をなされた。 あたかも、さまたげなき智見を持てる師、人々の王(=仏)が つくられたものを三種に知りたまうように、 わたくしもまた、無比なる者、供養されるべき者、 いともすぐれた智者、人類の導者となるであろう。
これは、ダルマーカラ(法蔵菩薩)が覚りを開いて、阿弥陀仏になった、という神話です。
2.観無量寿経
観無量寿経には次の教えがあります。
この観想を行なう者は、無量億劫のきわめて重い悪業から解放されて、命が終ったのちにかならず、かの仏国土に生まれるであろう。
智慧海のごときもろもろの仏たちは心想から生ずる。それ故に、一心に思念を集中し、心してかの仏・如来・尊敬さるべき人・正しく眼覚めた人を観想するのだ。かの仏を観想しようとする者は、まず、その像を観想しなければならない。 このぼさつを観想する者は、無量無数の劫の間、かれを生と死に結びつける罪から免れるであろう。このような観想を行なう者は、地獄・餓鬼・畜生の世界に居らず、常に仏たちの清らかな美しい仏国土に遊ぶであろう。
諸経典の経題を聞くことによって、千劫の間重なってきたきわめて重い悪しき行為から免れる。(中略)仏の名を称えることによって、五十億劫の間その者を生と死に結びつける罪から免れる。そのときにかの仏は(中略)ほめ讃えて言うのに、「立派な若者よ、お前は仏の名を称えたから、さまざまな罪がみな消滅し、わたしがお前を迎えに来たのだ」と。
(中略)このような罪深い人は、悪しき行為の結果として地獄に堕ちるであろう。命が終ろうとするとき、地獄の猛火が一時に押し寄せる。そのとき、指導者が居て、大慈悲心からこの者のためにアミダ仏の持つ十種の力の徳について説き、広くかの仏の光明の神秘的な力を説き、また戒律・精神の安定・智慧・迷いからの自由・迷いから自由になった知見をほめ讃えるのに遇い、この人は聞き終るや、八十億劫の間かれを生と死に結びつける罪から免れる。
このようにしてこの者は心から声を絶やさぬようにし、十念を具えて、南無アミタ仏と称える。仏の名を称えるのであるから、一念一念と称える中に、八十億劫の間かれを生と死に結びつける罪から免れるのだ。
ここには罪の赦免と来世の幸福が明確に説かれています。キリスト教には輪廻転生は無いものの、罪の赦しと永遠の命・天国での幸福はキリスト教の救いの中心的内容であり、これは浄土教も似ています。
しかし、そもそも仏教は「悟り」によって解脱することをめざす自力の道であり、グノーシス的性格の宗教です(ここでは、普遍的に見られる宗教的性格としての「グノーシス」と後1世紀以降に生まれ発展した歴史的「グノーシス主義」を区別します)。
これに対してキリスト教は、イエス・キリストの十字架の死と肉体の復活を、信者が救われる根拠としています。すなわち、イエス・キリストが我々の身代わりとなって罪の罰を受けて死んでくださったので、彼を信じる者は罪が赦されます。そして、イエスが天父への完全な従順によって成就した「義」が、彼を信じる者に与えられます。イエスが悪魔悪霊の支配する死者の世界=ハデス(黄泉、陰府、よみ)を征服して、三日目に復活し、天に凱旋されたので、彼を信じる者は永遠の命を与えられ、天国の国民とされるのです。これがキリスト教の救いの主たる内容です。
浄土教はキリスト教に似ているようであっても、このキリスト教の中核=キリストの十字架における贖罪の死、黄泉への降下と征服、肉体の復活の如き行為は、浄土教にはありません。
3.景教の影響
岩本裕博士によれば.浄土教はインドでキリスト教の影響を受けて生まれたものと思われます。インドで生まれたサンスクリット語(梵語)の仏教経典と中国における漢訳の経典では、内容が多かれ少なかれ異なっていることが、現代の仏教学で明らかになっています。浄土教は中国でさらに発展しましたが、筆者はそこでもキリスト教の影響があったのではないか、と考えています。それはソグド人やペルシア人などが、東方キリスト教の一派・東シリア教会から生まれた景教を、中国に持ち込んでいたからです。
ソグド人は、シルクロードの交易を1000年にわたって担った民族です。ソグド(ソグディアナ)はザラフシャン川流域を中心とするオアシス地帯です 。その中心地はサマルカンドです。
現在の新疆ウイグル自治区タリム盆地東端の砂漠にある塩湖ロブノールの南方にあるミーランの仏教寺院址で「東方のエンジェル」「童子形有翼飛天」と呼ばれる2~3世紀の絵画が、スタインによって発見されました。ニューデリー博物館にあるこの絵画では、ギリシア・ローマ風の顔立ちをしたキリスト教の天使の図像が仏教に取り入れられています 。シルクロードにおけるキリスト教の伝播は、かなり早い時代から始まっていたのです。
ソグディアナは古代ペルシア帝国(アケメネス朝)の一つの州を成していたことがあり、アケメネス朝によってここに移された西からの民が大勢いました 。それゆえ、ソグド人はイラン系であり、ソグド語(胡語)はイラン系の言語です。ソグド文字は、アラム文字から派生した、ソグド語を表記するための文字であり、右から左に書かれました。これはウイグル文字やモンゴル文字の元となりました。
アレクサンドロス大王の遠征によってギリシア人とソグド人の婚姻が進められ、ソグディアナにもヘレニズムの影響が及びました。
サマルカンドにはキリスト教の教会がありました 。キリスト教徒のソグド人は、シリア語聖書をソグド語に翻訳していました (NHK「文明の道」プロジェクト『海と陸のシルクロード』日本放送出版協会、2003年、p.192)。
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国際貿易商としてソグド人は隊商を編成して、東ヨーロッパ、インド、東南アジアにまで足跡を残しています。ソグド人はシルクロードの絹貿易を独占し、シルクロード沿いのあちこちに植民地を作っていました 。ソグド人集落は中国全土に相当数ありました 。中国人はソグド人を商胡、九姓胡、胡人と呼んでいました。胡弓、胡椒、胡瓜などにその名が残っています。
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日本では法隆寺の香木にソグド文字が焼き入れられています。
blog.goo.ne.jp
http://tripmode.g2.xrea.com/msrj/msrj06.htm
景教は中央アジアで7世紀頃から14世紀頃まで盛んでした 。敦煌や高昌ではソグド語の景教文献が多数発見されています。635年に景教の宣教師阿羅本が唐に来ており、636年頃から景教経典が漢語に翻訳されています。この時代には大勢のペルシア人やシリア人が中国に来ていました。
638年に景教は唐朝に認められ、唐朝の資金援助を受けて、景教の教会「波斯寺」(あるいは波斯経寺、波斯はペルシアのこと。後の大秦寺)が建立されました。 唐の高宗(在位 649年〜683年)の時代になると、阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう詔勅が下されたため、景教は唐王朝に広まったのです。
新・景教のたどった道(55)中国の諸宗教と景教(5)浄土教と景教 川口一彦 : 論説・コラム : クリスチャントゥデイ
景教が中国で盛んであった時期は、善導大師(613~681年)が中国浄土教を大成した時期に重なっています。善導が活動拠点としていた長安の光明寺は、国際的な市場があった西市の南隣りに位置していました ので、景教徒との関わりも少なからずあったと思われます。
https://www.christiantoday.co.jp/articles/29724/20210714/shin-keikyo-55.htm
聖書は〈主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる〉と教えています(ロマ10:13)。浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)を称名念仏といいます。「南無阿弥陀仏」の六字の意味を最初に明らかにしたのは、中国の善導大師でした。「南無」とは「帰命」「発願回向」の意です。
9世紀の始めに渡唐した弘法大師・空海は般若三蔵からサンスクリット語を学びました。般若三蔵は景教僧・景浄(ペルシャ人)と共に大乗理趣六波羅蜜経を翻訳した僧侶です。空海が長安で住んでいた西明寺は、大秦寺の近くにありました。空海は恵果に師事して密教を学び、多くの密教仏典を日本に持ち帰りました。
https://www.recordchina.co.jp/b575783-s146-c30-d1146.html
4.源信
日本の仏教では.浄土宗・浄土真宗・時宗等、浄土系の宗派の信者教がおよそ2200万人と、飛びぬけて多くなっています。それは、浄土教の宗教性が日本人に適合しており、日本人の心に迫る、あるいは納得できるものがこれにあるからでしょう。
浄土教は日本人の死生観を決定的に変えました。古代日本人は死後の世界を現世と連続する世界と思っていました(連続的他界観念)。それに対して、浄土教は断絶的他界観念を持っています。すなわち、極楽や地獄はこの世を超越した別世界だ、と考えているのです。これを明確に示したのは源信(942~1017年)の「往生要集」(984年)です。断絶的他界観念は聖書と共通します。
仏教では、生きとし生けるものが輪廻転生する範囲として、次の六つの領域があると教えます(六道輪廻)。
①天道、②人間道、③修羅道:三善趣(三善道)
ただし、初期仏教では修羅道が無くて、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上を五趣と言いました。
輪廻の世界観は聖書にはありません。聖書の歴史感覚は直線的であり、人が別の人格者あるいは動物に生まれ変わることは無いのです。
さて、源信が説いた地獄の恐ろしさは、人々の心を捕えて、極楽往生への強い願いを引き起こしました。源信は主に正法念経(正法念処経)に基づいて地獄を述べています 。源信が説いた八大地獄(八熱地獄)は次のとおりです。
①等活(とうかつ)地獄、②黒縄(こくじょう)地獄、③衆合(しゅごう)地獄、④叫喚(きょうかん)地獄、⑤大叫喚(だいきょうかん)地獄、⑥焦熱地獄(しょうねつ)地獄、⑦大焦熱(だいしょうねつ)地獄、⑧阿鼻(あび)地獄。
後ろに行くほど刑罰は苛烈を極めていきます。
八熱地獄それぞれの四方に四つの門があり、門外に各々四つの小地獄があります。これを十六小地獄といいます。源信はさらに、八寒地獄を説きました。
聖書のハデス(黄泉、陰府、よみ)には、火炎の中で苦しめられる場所もあります(ルカ16:23-24)。旧約聖書偽典のエチオピア・エノク書22章では、ハデス(黄泉)に階層があります。ゲヘナ(地獄)は「火の池」(黙示録20:14)ですから、イメージは熱地獄に近いのですが、階層的な違いはありません。
人は死後に審判を受けて、生前の悪行に対して地獄で刑罰を受けなければならない――。このような思想は、空海の『三教指帰』(8世紀末)や『日本霊異記』(9世紀)、地獄変屏風等によって貴族に知られていましたが、10世紀末から後には、源信の『往生要集』とそれに基づいた地獄絵によって、民衆に普及しました 。死後に審判と刑罰があるという思想は、聖書=キリスト教と共通します。
法然(1133年~1212年)が浄土宗を開き、さらに親鸞(1173年~1262年)が浄土真宗を開いた背景には、地獄の観念の普及がありました。民衆に極楽往生の願いが起こっていたのです。
法然は、「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」の教えを説きました。善人悪人、老若男女、貧富の別無くすべての人を救うと誓われた、阿弥陀仏の本願(第十八願「念仏往生の誓願」)を信じて「南無阿弥陀仏」と称えれば、臨終には阿弥陀仏をはじめ観音菩薩、勢至菩薩や極楽の聖衆が来迎(らいこう)し、極楽浄土へ迎え入れ、彼の地に往生することができる――というのです。「この阿弥陀仏の選択本願の念仏は、臨終間際の悪人が善知識の勧めによってただの一遍称えただけでも救われる」と説く一方で、「念仏の教えを信じる人は平生より一生涯念仏を称え続けることが、阿弥陀仏の本願に順ずることである」と説き、法然は自らも日に六万遍、七万遍の念仏を称えたと伝えられています。
親鸞は念仏を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ従う心が起こった時に往生が定まる、と説きました。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説くのです。そのことを「信心正因 称名報恩」といいます。念仏を極楽浄土へ往生するための行とはとらえません。
『歎異抄』にある次のテクストは、悪人正機説としてよく知られています。
善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。(中略)そのゆゑは、自力作善の人は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。
修行を重ねて如来となった阿弥陀仏が衆生に功徳を分け与えるので、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけで、どんな悪人でも救われて、極楽に往生できる。いや、むしろ悪人であると自覚している人の方が、仏にすがる他無いので、救われやすい――。
法然や親鸞が説いたこのような他力本願の教えは、ある程度キリスト教の福音の代用を果たしてきたのではないでしょうか。多くの日本人が、これによって生と死の問題について、その人なりの答を見出し、それなりの宗教的満足を得てきたのではないでしょうか。とりわけ罪と死、審判という根本問題について、浄土教には明快な答がある。これが重要です。
6.亀谷凌雲
富山の浄土真宗大谷派の住職から改宗して牧師になった亀谷凌雲(かめがい りょううん)師の注目すべき主張を紹介します。蓮如上人の18代目の子孫にあたる方です。
仏教には肉体ある者は皆教え主の地位に止まっており、肉体をもって完全なる救いそのものを成就した仏はないのである。しかるに基督教においては、初めから肉体をもって救いの業をまっとうしたまえる神なるキリストをぞっこん信じ仰いで、その無限の御恩寵に与っているのだ。
仏教は今や行くべき所までゆき、進むべき所まで進んできた。これ以上といえばただ飛躍のほかないのだ。大死一番目を開いて、ただちに肉体をもってきたまえる神、十字架のキリストを仰いで、全人類挙げてその潮のごとき御恩寵に与ろうではないか 。
弥陀仏は仏教内における自然の発達からここに至ったのだ。仏教内にありながら人心の要求自らここに至らざるを得なかったのである。この弥陀仏はあまりにも基督教に酷似しているのだ。(中略)どうしてだろうか。この背後には神の摂理があるのではなかろうか。天地を造り天地を統治し天地を育成していたもう神は、仏教徒をも統治し育成していたもうに相違ないのだ。仏法といえども、これが真理ならば、神の定めたもう法であるべきだ。それが自ら神信仰へ導かれるは当然である。
仏教徒をことごとくキリストの無限の恩寵に導かなくてはならぬのだ。 今後の日本いかん、この仏教によって徹底的に深く培われた上に、十字架の愛と力とを加えて、神道・仏教をこれによってさらに深く大成するとともに、宇宙の大道、人生以上の道へとひたすら猛進してゆくのだ。
日蓮の徒は題目を称え、浄土信徒は念仏を唱える。われらはこれらのいっさいを完成する十字架を切るのだ。
本来、自力の道であった仏教が、阿弥陀如来の功徳にすがって、御名を唱えるだけで救われるという他力の道を極めるに至ったのはなぜでしょうか。それはこの浄土教に、日本人がイエス・キリストの福音を理解するのを助ける、という歴史的使命があったからではないでしょうか。キリスト教受容の道備えです。
阿弥陀如来はキリストの影であり、イエス・キリストこそその実体です。
今や我々が救われるために唱えるべき六字名号は「南無阿弥陀仏」から「南無耶蘇基督」に変わるのです。
ナムアミダブツとキリスト教(1)
鎌倉の大仏(阿弥陀仏)
『仏説無量寿経』
一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、衆生救済のための五劫思惟し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。
第十七願
原文 - 設我得佛 十方世界 無量諸佛 不悉咨嗟 稱我名者 不取正覺訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ)して、我が名を称せずば、正覚を取らじ。
意訳=私が仏となる以上、 全ての仏たちが私の名をほめ称(とな)えないということがあるならば、私は仏になるわけにいかない。
第十八願
原文 - 設我得佛 十方衆生 至心信樂 欲生我國 乃至十念 若不生者 不取正覺 唯除五逆誹謗正法
訓読 - 設(も)し我れ仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽(しんぎょう)し、我が国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、若し生ぜずば、正覚を取らじ、唯五逆と誹謗正法は除く。
意訳 - 私が仏となる以上、(誰であれ)あらゆる世界に住むすべての人々がまことの心をもって、深く私の誓いを信じ、私の国土に往生しようと願って、少なくとも十遍、私の名を称えたにもかかわらず、(万が一にも)往生しないということがあるならば、(その間、)私は仏になるわけにいかない。ただし五逆罪を犯す者と、仏法を謗る者は除くこととする。
出典:四十八願 - Wikipedia『仏説無量寿経』「四十八願」
称名念仏(しょうみょうねんぶつ)とは、仏の名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)をいう。
法然
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、「南無阿弥陀仏」をひたすら称える「専修念仏」の教えを説いた。後に法然は、浄土宗の開祖と定められる。法然の説く念仏は、阿弥陀仏の本願(第十八願『念仏往生の願』)を信じて「南無阿弥陀仏」と仏の御名を称えれば、善人、悪人、老若男女、貧富の別なく、すべての衆生を救うと誓われた阿弥陀仏によって、臨終には阿弥陀仏をはじめ観音菩薩、勢至菩薩や極楽の聖衆が来迎(らいこう)し、極楽浄土へ迎え入れ、彼の地に往生することが出来ると説いた。また、この阿弥陀仏の選択本願の念仏は、臨終間際の悪人が善知識の勧めによってただの一遍称えただけでも救われると説く一方で、念仏の教えを信じる人は平生(普段から)より一生涯念仏を称え続けることが、阿弥陀仏の本願に順ずる事であると説き、法然は自らも日に六万遍、七万遍の念仏を称えたと伝えられている。
親鸞
親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを「信心正因 称名報恩」という。念仏を、極楽浄土へ往生するための因(修行・善行)としては捉えない。
出典:称名念仏 - Wikipedia
法然(1133年~1212年)
親鸞(1173年~1262年)
修行を積んで仏となった阿弥陀如来が衆生に功徳を分け与えるので「南無阿弥陀仏」(ナムアミダブツ)と唱えるだけで、どんな悪人でも救われて、極楽に往生できるーー。法然や親鸞が説いたこのような他力本願の教え=浄土宗・浄土真宗は、日本で最大の宗派となっています。筆者の父の実家(新潟県上越市)は浄土真宗大谷派の信徒でした。
「南無」はサンスクリット語の「ナーム」(帰依する)の音訳であり、「阿弥陀」はサンスクリット語の「アミターユス」(無量寿、永遠の命)「アミターバ」(無量光、永遠の光)の音訳です。
仏教学者の岩本裕氏は、次のように述べています。
仏像が初めて生まれたのは1世紀後半のガンダーラ地方ですが、それはギリシャの彫像に似ています。これはヘレニズムの産物です。
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インドには使徒トマスの宣教に由来するキリスト教の一派があります。トマスはインドのみならず中国でも宣教した、という伝説もあります。東西の文明の交流は、1世紀には盛んに行われていたのです。
川島耕司 著「インド・ケーララ州のキリスト教」和光大学リポジトリ
杉本良男 著「天竺聖トマス霊験記」
◆岩本裕著『極楽と地獄-日本人の浄土思想』三一新書(1965年)
念仏しようという善意志と信心とは全くアミダ仏の恩寵の賜物。この思想は明らかにキリスト教の恩寵説と全く同じであり、アウグスティヌス(354-430)の言葉を借りれば「恩寵の賜物」 Gratuitum donum「神の恩恵的な恩寵」Gratia Dei gratuitaであ り、したがって「恩寵が功徳を与えるのであって功徳によってそ れが与えられるのではない」Gratia dat merita, non meritis datur ということである。(p.216)
死後の審判という宗教信仰、すなわち宗教学でいう終末論(エシャトロジー)は、キリスト教・ユダヤ教そしてイランのゾロアスター教では有名であるが、仏教にはもともとない思想である。
よく知られているように、仏教には善因善果・悪因悪果という業報思想があり、その結果として、四生あるいは六道に生れ変わり死に変わるという輪廻の思想があった。死後に審判を受けるという終末論的な思想は全然なかったのである。ところが、『霊異記』に見られる地獄の報告に関する諸説話、さらには平安末期以後の「三途の川」の所伝には、明らかに死後における審判という宗教思想がはっきりみとめられるのである。(p.192)極楽の原名がスカーヴァティであって、「幸福のある(土地)」の意味をもつ。(p.111)
スカヴァティーの名の起源は、どこに求められるのであろうか。結論を先にいうと、著者はスカヴァティーとはユダヤ教やキリスト教で知られている「エデンの園」のエデンの訳語ないしその名にヒントを得た構成であると考えている。エデンとはヘブライ語で「快楽」を意味するエーデンのアラム語形である。(p.114)
阿弥陀如来に関して、他力本願の思想は明らかにキリスト教の影響があると考えられる。......佛の本願とはキリスト教の恩寵説に おける「神の恩恵的な恩寵」gratia Dei gratuita と同一思想である。......佛教の本質は自力であり、大乗佛教の成佛思想も自力を基礎としている。それにもかかわらず、阿弥陀佛に関してのみ他力本願の説かれる理由は、佛教の内部では説明がつかない。キリスト教はすでに西暦二世紀にはインドの西北辺に達していたのであり、その後の数世紀にわたって佛教とキリスト教の交流がパルティア王国を中心に行なわれたのであって、キリスト教の外典における佛教の影響は実に大きい。(p.178)
◆岩本裕著『布施と救済 大乗仏教』世界の宗教〈第7〉淡交社 (1969年)
このころ、ヒンドゥー経のバクティ(誠信)思想が仏教に受容されて本願思想が展開し、これが大乗仏教の菩薩思想と結合し、さらに西アジア方面の宗教思想(救済)の理念を受容して、阿弥陀仏と極楽の信仰があらわれた。(P.126)
法然はこのようにいう。「それ速やかに生死をはなれんと思はば、......えらびて浄土門にいれ、浄土門に入らんと思はば......えらびて正行に帰すべし。正行の中を修せんと思はば......えらびて正定をもはらとすべし。正定の行とはすなはちこれ仏の御名を称するなり。名を称すれば必ず生るることを得。仏の本願によるが故に」と。ここに阿弥陀仏の本願は明らかに【ほとけ】の恩寵であることが指摘される。この恩寵をわが国で最初に発見したのは実は法然であった。(p.98)
親鸞の恩寵説では、阿弥陀仏の本願は絶対であり、老少善悪というような一切の相対的なものを否定するのである。阿弥陀仏の本願はわれわれの言語を絶し、われわれの思惟を越えるものであり、ただ「弥陀の誓願不思議にたすけまゐらせ」るよりほかに人間のおよぶものはなに一つないのである。恩寵説という点のみから見れば、親鸞の教えは宗教的に最高であると言っても過言ではないようである。(p.102)。
真宗は大乗佛教であるという主張に固執するかぎり、真宗教学は親鸞の純粋な恩寵説を曇らし汚しているかと思われる。真宗が大乗仏教でもなく小乗仏教でもなく、いわば第三の「恩寵説の仏教」として展開するときに、親鸞の教えは真に宗教として花をひらくことになろう。(P.104)
http://iwatachi.com/pdf/iwamoto
平山 朝治「大乗仏教の誕生とキリスト教」
革命の闘士、聖パウロ Saint Paul, militant révolutionnaire
浄土教とキリスト教は何が似ていて、何が異なるのか、整理してみましょう。
結論から先に言いますと、キリスト教が浄土教と根本的に異なるのは、救世主(メシア、キリスト)であるイエスの歴史的実在です。浄土教では阿弥陀仏に具体的な歴史的実在性がありません。
なぜそうなるのか。ユダヤ・キリスト教とインド・仏教では、そもそも救済論の前提となる世界観や歴史観が大きく異なっていることに、留意すべきです。
ユダヤ・キリスト教の世界観では、創造主である神(God)は絶対他者です。神は永遠・無限ですが、人間は有限で儚い存在です。神と人間は絶対的な上下関係にあり、人間が神になることは絶対に有り得ません。
これに対して、インド・仏教の世界観では神仏(gods)と人間は連続的であって、両者の区別は曖昧です。
イエス・キリストは、天から地上に降ってきた神の御子です。神が人間になったのです。上から下へ向かう方向性です。これに対して、人間が修行して仏になったというのが、浄土教です。下から上に向かう方向性です。
ユダヤ・キリスト教の歴史観は、天地創造から終末まで基本的に直線的です。これに対して、インド・仏教の歴史観は本来、円環的です。人間である求道者=菩薩は何度も生まれ変わって、功徳を積んでいき、ついに悟りを開いて覚者=如来となり、衆生を救うというのです。
阿弥陀如来になったのは誰だったのか。それを歴史的に具体的な特定をしなくても、宗教としてこんなに巨大な力を持てるのが、不思議です。
ユダヤ・キリスト教では、異教の「神々」(gods)は空想の産物か、実在するとしても天使や堕天使(悪魔・悪霊)のレベルに過ぎません。
古代ユダヤ教の唯一の「神」の名(固有名詞)は「主」です。ヘブライ語で YHWHと綴られ、「ヤハウェ」または「アドナイ」と読まれていたようです。そのギリシア語の訳語が「キュリオス」(主)です。その原意は主がモーセに告げられた「私は在って在るものである」(出エジプト3:14)という御言葉であると考えられます。
ところが紀元20年代後半に、ガリラヤ地方・ナザレ村出身の大工であったイエスは、自らが「天の父」=God の息子であり、「主」であると主張しました。そして、それを証明する不思議な力を現しました。
ユダヤ人の指導者たちには、それは受け入れがたいことでした。彼らはイエスを冒涜と扇動と反逆の罪で責めて、ローマ総督の権威のもとで、十字架刑に処したのです。
ところが、イエスは十字架で殺されてから3日目の朝早く、復活して、40日間500人以上の人々にその姿を現わしました。復活はイエスが神の御子であり、メシア(キリスト)であることの決定的な証明でした。
イエスは、オリブ山から天に昇っていきました。イエスは至高の天で王座に就き、天と地と地下、すなわち全ての領域の支配権を御父から授かった、と新約聖書は教えています。
私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
(新改訳聖書 第2版 第一コリント 15:3-8)
浄土経典に記された阿弥陀仏の話は、歴史性が乏しい神話です。それに対して、イエス・キリストによる人類の救済には、確かな根拠があるのです。
人はイエス・キリストが為した誠実な業をとおしてでなければ、律法の行いのみでは義とされないと知って、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。それは律法の行いでなく、キリストの誠実な業によって義とされるためです。
(ガラテヤ2:16 浅野淳博訳)
(出典)浅野淳博著『ガラテヤ書簡』NTJ新約聖書注解(日本キリスト教団出版局)2017年 p.211
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。
あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。
神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。
(新改訳聖書 第2版 コロサイ人への手紙 2:9-15)
神の御子イエスが人となって、誠実に神の義の要求を満たした。
イエス・キリストは人類の罪(=神の律法に違反したことによる負債)をその身に負って犠牲となり、贖いの死を十字架で成し遂げた。
これによって人類の負債は完全に償われ、債務証書は無効となった。
サタンはもはや、イエス・キリストの贖罪の恩恵にあずかる者たちを、訴えて責めることはできない。
キリストは黄泉に降って、悪魔悪霊の勢力を征服した。
そして、キリストは復活し、天に凱旋して王座に就かれた。
こうして人類に、罪と死の力から解放される救いの道が開かれたのである。
それゆえ、イエスを主キリストと信じて、その御名を呼ぶ者は、誰でも救われるのである。
使徒パウロ、エイレナイオスをはじめとする古代の教父たち、マルティン・ルターには、このような「勝利者キリスト」の信仰がありました。このような「勝利者キリスト」の信仰は、日本人への宣教に有効ではないでしょうか。
「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」(ローマ10:13)
キリストの影である阿弥陀仏の名を称えてきた日本人が、その実体であるイエスを主キリストと信じ告白する時が、今、到来しているのではないでしょうか。
勝利者キリスト―贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究 (1982年)
- 作者: グスターフ・アウレン,佐藤敏夫,内海革
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