悪いパン種
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2018年2月4日 顕現後第5主日 礼拝説教
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【聖書朗読】マタイの福音書16章1〜12節
【説教題】「悪いパン種」金井 望 牧師
【中心聖句】
「パリサイ人やサドカイ人のパン種には注意して気をつけなさい」。
彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人の教えのことであることを悟った。
(マタイ16:5,12)
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【説教要旨】
紀元後1世紀前半においてユダヤ人社会には、二つの指導的な集団があった。パリサイ派とサドカイ派である。
パリサイ派は中流階級の手工業者が中心となっており、各地の会堂や学校の指導をしていた。彼らは律法(トーラー)を順守することに執着して、過剰な戒律を生み出し、それを守らない人々を、会堂から締め出していた。
サドカイ派は、エルサレムの神殿を中心とする、祭司ツァドクの家系に連なる富裕な貴族である。
彼はわたしに言った。「南の方へ向いている部屋は、神殿の務めを行う祭司のためである。北の方へ向いている部屋は、祭壇の務めを行う祭司のためである」。彼らはツァドクの子らであり、彼らだけが、レビ人の中で、主に近づいて仕えることが許される。(エゼキエル40:45-46)
最高議会(サンヘドリン)の議員は、サドカイ派が多数を占めていた。彼らは律法(トーラー)のみを聖典と認め、他のユダヤ教文書や口頭伝承を認めなかった。彼らは合理的な思考を持っており、天使や悪霊の存在、死者のよみがえりを否定した。彼らは世俗の権力に追従し、ヘレニズムの文化侵略やローマ帝国の支配に対して妥協した。
パリサイ派とサドカイ派は対立していたが、イエスを殺害するという目的において一致した。そこで、彼らは<みそばに寄って来て、イエスをためそうとして、天からのしるしを見せてくださいと頼んだ>。主イエスが神の遣わしたメシア(救い主)であることは、為された御業によって明らかに認められるのだが。
イエスは言われた、「あなたがたは、夕方には、『夕焼けだから晴れる』と言うし、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうは荒れ模様だ』と言う。そんなによく、空模様の見分け方を知っていながら、なぜ時のしるしを見分けることができないのですか。……しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」。
「ヨナのしるし」すなわち復活は、イエスが神の御子キリストであることを証明する決定的なしるしである(12:39-41)。
イエスは彼らを残して立ち去った。そして、湖の対岸に行くと、弟子たちにこう言われた、
「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい」
異邦人の地を旅行するユダヤ人は、穢れたパンを食べないようにと自分でパンを携帯した。それを忘れたことを叱っておられるのか、と弟子たちは考えて、争論となった。イエスは「信仰の薄い人たち」と言って、彼らを一喝した。パンの奇蹟を二度も見ながら、主の全能を信じないとは。
それはパンのことではないと、主イエスが説明した。<彼らはようやく、イエスが気をつけよと言われたのは、パン種のことではなくて、パリサイ人やサドカイ人の教えのことであることを悟った>。
初代教会にとって最大の迫害者はユダヤ主義者であり、ユダヤ教からの脱皮が最大の課題であった。わずかなパン種がパン全体を膨らませる。現代のキリスト教ではユダヤ的・ヘブライ的な解釈がもてはやされているが、福音に反する教えは決して受容してはならない。
ユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。(ヨハネ黙示録2:9)
見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうでなくて、うそを言っている者たちに、わたしはこうする。(ヨハネ黙示録3:9)
偽物は本物に似ているが、惑わされないように真偽を見分ける者となりたい。
イエスは何語を話したか?―新約時代の言語状況と聖書翻訳についての考察
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イエスの思いやり
2018年1月28日 顕現後第4日 礼拝説教
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【聖書朗読】マタイの福音書15章32〜39節
【説教題】「イエスの思いやり」金井 望 牧師
【中心聖句】
「イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうでたまらない、この群衆は三日間もわたしと一緒にいて、食べる物を持っていない。空腹のままで解散するわけにはいかない。途中でへたばってしまうから」
イエスは七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えた。そして、弟子たちは群衆に配った。(マタイ15:32,36)
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【説教要旨】
主イエスと弟子たちは<ツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた>(マルコ7:31)。ガリラヤ湖の東に広がるこの地方には、アレクサンドロス大王の後継者たちが建設したギリシア植民地の「10都市」があった。ギリシア・ローマ文化が栄えた先進都市である。これらは大きな街道沿いにあり、通商や軍事において重要な位置を占めた。その都市の一つ、ガダラ(ゲラサ)で、主イエスが悪霊を追放したことがあった(8:28-34)。
さて、今回の異邦巡りの前に、主イエスはベツサイダで五千人の給食を行われた。それと同様の奇跡を、この旅の終盤にここで行ったのはなぜか。それは、主がユダヤ人と異邦人を分け隔てなく恵まれることを、証しするためである。
<イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「かわいそうでたまらない、この群衆は三日間もわたしと一緒にいて、食べる物を持っていない。空腹のままで解散するわけにはいかない。途中でへたばってしまうから」>。
「かわいそうに」の原語は「はらわたのちぎれる思いがする」「胸が痛む」「かわいそうでたまらない」といった激しい感情を表す。「三日間」というのは足かけ三日であり、日没が2回という意味だが、人々は体力的に危険な状態にあった。
実に神であるイエスが我々と同じ人間の肉体と心を持って地上で生活し、飢え、渇き、痛み、苦しみを自ら体験された。それは憐れみ深い(同情できる、共感する)大祭司となって、私たちの祈りを御父にとりなし、適切な助けを与えるためであった。
そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
(へブル2:14-18)
前回の給食は草多き早春=雨季であったが(マルコ6:39)、今回は草枯れし晩夏=乾季であり、人々は土の上に座った。イエスは<七つのパンと魚とを取り、感謝をささげてからそれを裂き、弟子たちに与えた。そして、弟子たちは群衆に配った。人々はみな、食べて満腹した>。この一連の動作と用語は聖餐を暗示している。
主は人々の霊と心と体の状態を心配し、助けの御手を伸べてくださる。そのお手伝いをする弟子は誰だろうか。
子犬でもパンくずを
2018年1月21日 顕現後第3主日 礼拝説教
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【聖書朗読】マタイの福音書15章21〜28節
【説教題】「子犬でもパンくずを」金井 望 牧師
【中心聖句】
「おっしゃるとおりです、主よ。けれど小犬たちでさえ、主人の食卓から落ちるパンくずは食べています」
「ああ、ご婦人よ、あなたの信仰は偉大です。あなたが願うとおりになれ」
(マタイ15:27,28直訳)
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【説教要旨】
ガリラヤの群衆とパリサイ人から離れるために、主イエスと弟子たちはツロ(ティルス)とシドンの地方に行った。ガリラヤの北西、地中海に面したフェニキア地方である。ツロとシドンは3000年も前から貿易によって栄えた都市である。
イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家にはいられたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。
(マルコ7:24)
イエスの一行は、この異邦の地で誰にも知られずに静まろうとしていたが、この地方でもイエスの評判は広まっており、助けを求める人々が集まってきた。
その中でも、とりわけしつこく叫びながらついてくるひとりの女性がいた。この地方出身の<カナン人の女>である。<カナン人>という語は旧約聖書の用語である。イスラエル人と敵対し、忌み嫌うべき異教によって穢れた先住民を意味している。
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」
イエスが「ダビデの子」すなわちイスラエルの神、主が遣わしたメシア(救世主)であることを、この女性は知っていた!
この女はギリシヤ人で、ツロ・フェニキアの生まれであった。そして、娘から悪霊を追い出してくださいとお願いした。(マルコ7:26)
イエスは女に言われた、
「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」
「まず子どもたちに十分食べさせるべきです」(マルコ7:27)
「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないでしょう」
こう言って、主イエスは彼女の願いを拒まれた。彼女の信仰を試されたのである。
すると彼女はひれ伏して言った、
「おっしゃるとおりです、主よ。けれど小犬たちでさえ、主人の食卓から落ちるパンくずは食べています」
この子犬たちは、家の中にいるペットの愛犬である。パンくずのようなおこぼれの恵みでも娘を癒すには十分だ、と彼女は信じたのである。
主は言われた、
「ああ、ご婦人よ、あなたの信仰は偉大です。あなたが願うとおりになれ」
その時、彼女の娘は悪霊から解放され、癒された。
この出来事は、イスラエルを中心とした旧約の時代が終わり、異邦人クリスチャンを中心とした新約の時代が始まることの予表であった。異邦人もただ信仰によって、赦され、きよめられて、主に近づくことができる。
私たちも信仰が試される時がある。ただ主に信頼して、ひたすら主にすがりついていきたい。