神殿の納入金
2018年3月4日 主日礼拝説教
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【聖書朗読】マタイの福音書17章24〜27節
【説教題】「神殿の納入金」金井 望 牧師
【中心聖句】
しかし、彼らにつまずきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。(マタイ17:27)
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【説教要旨】
1. 神殿の納入金
主イエスと弟子たちは、北方と東方の伝道旅行を終えて、カペナウムに戻った。一行はペテロの家に滞在したと思われる(8:14-15)。
すると神殿税の取税人が来て、ペテロに尋ねた。
「あなたがたの先生は、神殿税2ドラクマを納めないのですか」。
神殿税は出エジプト30:11-16に起源があり、神殿の修築費や供え物の費用を賄う税金である。20歳以上のユダヤ人男性は1年に半シェケル=2ドラクマ(2日分の労賃にあたる)を過越祭の時にエルサレムで納めるか、あるいは別の地で1か月前に納めなければならなかった。シェケルはアンテオケで鋳造された11.4gの銀貨であり、ドラクマはフェニキアの銀貨で3.6gであった。
イエスと弟子たちは伝道旅行をしていたために、納税の時機を逃したのだろう。
2. 納税の義務
ペテロは
「納めます」
と言って家に入った。
するとイエスは言われた。
「シモン。どう思いますか。地上の王たちは誰から関税や人頭税を取り立てますか。自分の息子たちからですか、他の人たちからですか」。
ペテロは答えた。
「他の人たちからです」。
するとイエスは言われた。
「では息子たちにはその義務がありません」。
イエスは神の子であるご自分が神殿に納税することの矛盾を説かれたのである。
3. つまずきを与えない配慮
主イエスは神殿を「強盗の巣」(21:12-13)と非難しておられる。しかし、ここでは彼らにつまずきを与えないためにペテロに、魚の口に発見されるスタテル銀貨(シェケルと同価値。14.3-14.9グラム)を取って、納税するよう指示した。当時は半シェケル貨幣が無かったため、二人でスタテル銀貨を納める習慣があった。
主イエスはこの世の慣習やルールも尊重しておられる。自分に義務がないことであっても、他の人をつかずかせないように配慮して行動することが、大切である。
ただ、あなたがたのこの権利が、弱い人たちのつまずきとならないように、気をつけなさい。 知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのをだれかが見たら、それによって力を得て、その人の良心は弱いのに、偶像の神にささげた肉を食べるようなことにならないでしょうか。その弱い人は、あなたの知識によって、滅びることになるのです。キリストはその兄弟のためにも死んでくださったのです。
あなたがたはこのように兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を踏みにじるとき、キリストに対して罪を犯しているのです。ですから、もし食物が私の兄弟をつまずかせるなら、私は今後いっさい肉を食べません。それは、私の兄弟につまずきを与えないためです。
(第一コリント8:9-13)
なぜ悪霊を追い出せないのか
2018年2月25日 受難節第2主日 礼拝説教
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【聖書朗読】マタイの福音書17章14〜23節
【説教題】「なぜ悪霊を追い出せないのか」金井 望 牧師
【中心聖句】
まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、「ここからあそこに移れ」と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたに できないことは ありません。(マタイ17:20)
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【説教要旨】
1.山上の栄光と山下の悲惨
山上で弟子たちは、イエスが本来持っている神としての栄光を見た(17:1-8)。イエスは彼らの理解を遥かに超えた次元のお方である。弟子たちはそれを知らされた。ペテロは幕屋を造ってとどまることを願ったが、主イエスは、彼らを連れて山を下った。山の下では大勢の群衆がイエスを待っていた。
ひとりの男が主に近づいて、ひざまずき、大声で叫んだ、
「主よ。私の息子をあわれんでください。てんかんで、とても苦しんでおります。何度も何度も火の中に落ちたり、水の中に落ちたりします」。
悪霊が彼のひとり息子に取り憑き、ひきつけを起こさせ、あわを吹かせ、弱らせていた。主イエスは、このような悩む世人の声に耳を傾け、彼らを救うために世に来られたのである。
2.なぜ悪霊を追い出せないのか
父親は弟子たちに「この霊を追い出してください」と願ったが、彼らにはそれができなかった。これを聞いてイエスは嘆かれた、
「ああ、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまであなたがたと一緒にいなければならないのでしょう。いつまであなたがたに我慢していなければならないのでしょう」。
主イエスはこれから十字架で死に、復活して天に帰らなければならない。しかし3年間も訓練をしてきたにも関わらず、まだ弟子たちの信仰は十分に育っていなかった。
御子イエスは、霊的な戦いを展開して、悪魔・悪霊を打ち破り、人々の魂を解放するためにこの世に来られた。私たちキリスト者は、このキリストに従う兵士である。
3. その子をわたしのところに連れて来なさい
イエスはお命じになった、
「その子をわたしのところに連れて来なさい」
そして、イエスは汚れた霊を叱りつけて、その子から追い出した。その子の病は治った。まことに主イエスは、全天全地の主権を持つ全能の神である。
問題があることが問題ではない。本当の問題は、私たちがどこまで主イエスを理解して、主イエスに信頼し、従うことができるか、である。
「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたに できないことは ありません」。
私たちは信仰をもって、悩む隣人を主に導く者でありたい。
クロガラシ(英語:black mustard)は、アブラナ科アブラナ属の一年生植物。種子を香辛料として利用するほか、野菜またはハーブとして利用される。 地中海沿岸原産で荒れ地などに自生している野草だが、現在では帰化植物として世界的に分布している。
草丈が非常に高く、成長すると2.4メートルに達する。
クロガラシは先史時代の遺跡からも発見されており、香辛料としての歴史はシロガラシより古く3000年前からとも言われている。聖書の喩え話に登場する「からし種」(マタイ13:31-32など)はクロガラシの種を指すという説もある。
現在マスタードの原料としてはほとんど利用されていない。風味はシロガラシよりも鼻に抜けるような辛み感が強く、ピクルス液やインド料理ではマスタードオイルやギーの風味付けとして用いられている。
種子は褐色で黒芥子(コクガイシ)と呼ばれ、他のカラシ種子と同様に、健胃、去痰、鎮咳の漢方薬として用いられる。ヨーロッパでは筋肉痛の湿布薬としても用いられた。
神は愛である
ニューヨーク市立大学の理論物理学教授 ミチオ・カク氏いわく
われわれは、宇宙的知的存在が創造し形成した法によって支配されている、ある計画の中に存在しているのであって、偶然に存在しているのではない。これははっきりしている。
最終的結論は、神が数学者であるということです。神の意志は宇宙的音楽、11次元の超空間を通って鳴り響く弦楽器の音楽だということなのです。
この宇宙と地球の生物が、計り知れないほど高度な知性とエネルギーと美的感覚によって創造されたことは、多くの科学者が認めています。たとえば、遺伝子が偶然に生まれるとは考えられません。
聖書は次のように教えています。
はじめに神が天と地を創造した。(創世記1:1)
天は神の栄光を物語り
大空は御手の業を示す。
昼は昼に語り伝え
夜は夜に知識を送る。
話すことも、語ることもなく
声は聞こえなくても
その響きは全地に
その言葉は世界の果てに向かう。(詩編19:2-5 新共同訳)
あなたは、わたしの内臓を造り
母の胎内にわたしを組み立ててくださった。
わたしはあなたに感謝をささげる。
わたしは恐ろしい力によって驚くべきものに造り上げられている。
御業がどんなに驚くべきものか
わたしの魂はよく知っている。
秘められたところでわたしは造られ
深い地の底で織りなされた。
あなたには、わたしの骨も隠されてはいない。
胎児であったわたしをあなたの目は見ておられた。
わたしの日々はあなたの書にすべて記されている
まだその一日も造られないうちから。(詩編139:13-16 新共同訳)
万物の創造者なる「神」(God)は、いわゆる Something Great 以上の「存在」です。
宗教が持つ道徳システムというのは非常に重要だと思います。私たちは子どもたちを宗教的な方法で育てました。(妻の)メリンダが行き、私も参加していたカトリック教会に子どもたちも行きました。私はとても運が良かったので、世界の不公平をなくす責任があると思っています。これは宗教的信条の一種です。最低限の道徳的な信条ということです。
「私は有って有る者だ」と自らを啓示した神「主」 YHWH は、道徳律と心を持つ「人格者」です。人間が神の Persona(ペルソナ) に似せて造られたのですから、「人格」と言うのは変ですけれどーー。
「神は愛である」と聖書は教えています。愛が神の本質であるならば、万物が創造される前、すなわち時さえ存在せず、神だけが存在しておられた「初めに」すでに、愛という人格的な交流が存在していたはずです。すなわち、一者なる神において、父・子・聖霊という三つの Persona(ペルソナ) が存在し、愛すなわち人格的な交流が存在していたのです。
人間が「神の像」に造られた主な目的は、私たちが神に愛されて、神を愛することであり、私たちが互いに愛し合うことです。