ガラテヤ4章研究メモ
筆者は5月19日(日)に日本バプテスト同盟 西岡本キリスト教会の礼拝で説教をさせていただきました。テキストは新共同訳聖書 ガラテヤの信徒への手紙 4:8-20です。
8 ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。9 しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。10 あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。11 あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。
筆者が2012年に日本イエス・キリスト教団神戸大石教会でガラテヤ書連続講解説教をした時は、新改訳聖書第3版がテキストだったのですが、今回は新共同訳聖書なんですねぇ。訳文が異なると、説教の内容も変わらざるを得ない部分があります(^◇^;)
4:3をどのように解釈するか。それによって、このテキストの意味は変わってきます。4:3の和訳文を比較してみます。
同様にわたしたちも、未成年であったときは、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました。(新共同訳)
私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていました。(新改訳第3版)
このように私たちも、未成年者であった時には、宇宙の諸力のもとで奴隷状態にさせられてしまっていた。(岩波訳)
同様に、わたしたちも子供であったころには、宇宙の構成に携わる諸霊に、奴隷として仕えさせられていました。(フランシスコ会新訳)
私たちも同様に、未成年だったとき、この世の諸元素の下で隷属化されていた。(浅野淳博 逐語訳)
これと同じように、私たちも「未熟」な時期は、この世の神々の下での隷属化状態が続いていました。(浅野淳博 自然訳)
この文脈において「コスモス」(世界、宇宙、人の世)と「ストイケイア」(初歩的な知識・規則、自然界の諸元素、天体を構成する諸要素、霊の世界を構成する者たち)が何を意味するか。これが解釈の鍵となります。
この解釈には、1世紀中葉の南ガラテヤ地方の宗教事情を理解することが、必要です。東西世界を結ぶ大動脈「皇帝街道」が通るこの地方では、土着の伝統宗教に加えて、ギリシアとローマから、シリアとユダヤから、エジプトから、バビロニアとペルシアから、さらにインドから諸々の宗教が流入していました。大変ですよ!(^_^;)
天体を構成する諸要素にそれぞれ霊=異教の神々が関係しているというのが、当時の人々の世界観でした。日曜日は太陽神が支配しており、月曜日は月神が支配している。火曜日は火星神が…といった具合です。南ガラテヤ地方から近いコロサイの信徒たちにパウロが書き送った書簡でも、このガラテヤ書簡に近似した問題が扱われています。ギリシアの星辰礼拝がユダヤ教黙示文学の天使論と混淆して、天使礼拝に発展していました。
人間の言い伝えにすぎない哲学、つまり、むなしいだまし事によって人のとりこにされないように気をつけなさい。それは、世を支配する霊に従っており、キリストに従うものではありません。(中略)キリストはすべての支配や権威の頭です。(中略)そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。(コロサイ2:8--19抜粋)
さて、ガラテヤ4章における〈私たち〉と〈あなたがた〉が誰を指すか。これについては、諸々の意見があり、その理解によって訳も変わってきます。
4章でパウロは、南ガラテヤ地方にいる
①ユダヤ人キリスト者
②異邦人キリスト者
③ユダヤ主義に感化された異邦人キリスト者
を対象にしていると思います。
個々のテキストによって、その範囲は違うようですが。
この書簡の始めでは〈私たち〉に〈私と共にいる兄弟たち〉(1:2)が含まれます。これはアンティオキア教会の信徒たちを指している、と筆者は考えます。すなわち、このガラテヤ書簡は、エルサレム会議(49年)が行われる少し前、48年にパウロがアンティオキアで書いた文書である、と理解しています。宛先は、第1回宣教旅行で訪れた南ガラテヤの諸教会です。1:6に明示されているとおり、この書簡を執筆したのは、第1回宣教旅行を行った47年から間もない時期です。執筆年代がエルサレム会議よりも後ならば、会議での決議について言及するはずですが、それはありません。この書簡の宛先を初めて訪問したのは、パウロの〈体が弱くなった〉ことがきっかけでした(4:13)。南ガラテヤは、標高1000メートルを超える山々が連なる山地です。パウロが、弱った体でここを越えて、大街道を外れ、辺鄙な北ガラテヤに行ったとは、考えにくいのです。
この書簡は、エルサレム会議の前哨戦のようなものですから、非常に生々しい感情も噴出します。しかし、結論としてはパウロは、ユダヤ人も異邦人も包括したキリスト者全体を〈私たち〉〈あなたがた〉と呼んで、普遍的な真理を語っているのです(例 3:28, 4:6)。主語が〈私たち〉ですから、対象はガラテヤの人たちや異邦人に限定できません。
新改訳第3版の訳文なら、
「イエス・キリストの福音を知るまで私たちが信じていたユダヤ教や異教の教えは、未完成で未熟なものだったんだよ。そんな宗教の戒律に奴隷のように束縛されていた私たちを解放するために、神は御子イエスをこの世に遣わしてくださったんだね。それなのに、どうしてあなたがた(異邦人キリスト者)は、偽者の神々の奴隷に戻ろうとするのですか。あなたがたは、また異教の暦に従って、偶像崇拝をしていますよね」
という解釈になりがちかと思います。
しかし、パウロがこの書簡で批判している、ガラテヤの信徒たちを惑わす人たちは、ユダヤ主義=律法主義=ヘブライスト=ナザレ派である、主イエスの弟子たちです。その人たちが、ガラテヤのキリスト者たちに、異教への回帰を勧めるはずがありません。彼らが遵守を強要したのは割礼であり、律法であり、ユダヤ教の〈いろいろな日、月、時節、年など〉です。この矛盾と思える問題を解く鍵は、第二神殿期ユダヤ教において発展した黙示文学=ユダヤ神秘主義にあります。
グノーシス主義は、星辰礼拝やプラトンの霊肉二元論等のギリシア哲学(当時の哲学には宗教も含まれる)とユダヤ神秘主義が混淆したことによって発生した思想運動であったと思われます。使徒パウロは、ファリサイ派の中枢でグノーシス的なユダヤ教神秘主義を体験したことがありました。それゆえ彼は、ガラテヤのキリスト者たちがユダヤ主義の主の弟子たちによって、その神秘主義の奴隷とされることを、危惧したのです。
なお、パウロは南ガラテヤから近いタルソの出身であり、アンティオキア教会に赴任するまで約10年間タルソにいた。それゆえ、パウロは小アジアの宗教事情に通じており、4:3でも「私たち」と言いやすかった。ーーそんな事情もあるように思います。
初期キリスト教の宗教的背景 上巻: 古代ギリシア・ローマの宗教世界
- 作者: H.‐J.クラウク,Hans‐Josef Klauck,小河陽,吉田忍,山野貴彦
- 出版社/メーカー: 日本キリスト教団出版局
- 発売日: 2017/03/24
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
初期キリスト教の宗教的背景 下巻: 古代ギリシア・ローマの宗教世界
- 作者: H.‐J.クラウク,Hans‐Josef Klauck,小河陽,河野克也,前川裕
- 出版社/メーカー: 日本キリスト教団出版局
- 発売日: 2019/01/25
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
最近この手の良書が次々と日本語で発行されていて、助かります。
ガラテヤの人たちは私の子ども(ガラテヤ4:8-20)
2019年5月19日「ガラテヤの人たちは、わたしの子ども」ガラテヤ4:8-20
<説教要旨>
「ガラテヤの人たちは私の子ども」 金井 望
2019年5月19日 西岡本キリスト教会
(8) ところで、あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。(9) しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか。(10) あなたがたは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。(11) あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です。
(12) わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。(13) 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。(14) そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。(15) あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。(16) すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。(17) あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。(18) わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。(19) わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。(20) できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。(ガラテヤの信徒への手紙4:8~20)
1.初心 忘るべからず
「ガラテヤの信徒への手紙」は紀元後48年頃に、使徒パウロがシリアのアンティオキアから小アジアの中央部・南ガラテヤの諸教会に宛てて書いた書簡です(諸説あり)。47年にパウロはバルナバと共に、アンティオキア教会から遣わされて、ピシディアのアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベ等、この地方の町々で伝道しました(使徒13~14章、第1回宣教旅行)。
それまでこの地方の人々は、真の〈神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました〉(8)。この地方は「皇帝街道」という東西世界の大動脈が通っているため、ギリシア神話の主神ゼウス(使徒14:13)をはじめ世界中の宗教が流入しており、「ユダヤの魔術」(使徒13:6)が流行していました。魔術とは悪魔崇拝(使徒13:10、黙示録2:9,13,24,3:9)に他なりません。
ユダヤ人の会堂で行われる安息日の礼拝に、地元の人々も出席していましたが、割礼を受けて、律法を遵守する「改宗者」(使徒13:43)となる人は、ごく少数でした。聖書の神を信じつつも改宗できない「神を畏れる人たち」(使徒13:16,26)が大勢いたのです。食物規定や清浄規定、安息日等、ユダヤ教の戒律を守ることは、ほとんどの異邦人にとって生活上、無理なことでした。
ところが、〈人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる〉(2:16)とパウロは彼らに伝えました。割礼を受けなくても、戒律を守れなくても、イエスを主キリストと信じて告白し、バプテスマを受けるだけで、誰でも〈神の子〉(4:5)になれる! この〈福音を聞いて信じた〉(3:2)ガラテヤの人々の〈目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示され〉(3:1)て、彼らは聖霊を受けました。新生したのです。
それなのに〈あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています〉(1:6)とパウロは嘆きます。
2.世を支配する諸霊
〈今は神を知っている、いや神に知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか〉(9)。彼らを惑わしているのは、エルサレム教会に〈潜り込んできた偽の兄弟たち〉です。彼らはエルサレムで主イエスの弟ヤコブに取り入り、ヤコブから遣わされてシリアと小アジアに来ました。その特徴は割礼派、律法主義、ユダヤ主義ですが、彼らの影響によってガラテヤの信徒たちは〈いろいろな日、月、時節、年など〉を守るようになりました。
パウロが61年頃に、南ガラテヤに近いコロサイの信徒たちに書き送った書簡には、次の文があります。
だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。(中略)偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。(中略)あなたがたは、キリストと共に死んで、世を支配する諸霊とは何の関係もないのなら、なぜ、まだ世に属しているかのように生き、「手をつけるな。味わうな。触れるな」などという戒律に縛られているのですか。(コロサイ2:16,18-19,20-21)
1世紀中葉のユダヤ、シリア、小アジアにおいて、ユダヤ教の律法主義と神秘主義(黙示文学)がギリシア等の星辰礼拝(月日や季節を支配する天体を神々として崇拝する)と混合して、天使礼拝が為されていました(エフェソ6:12)。これは暦や星占い、魔術等に影響があります。
3.キリストが形づくられるまで
パウロはガラテヤの信徒たちに、〈福音を告げ知らせ〉た最初の時を思い出すように、と促しました(13)。当時パウロは体が弱って目の病を患い、それは人につまずきを与えかねないものでした。けれどガラテヤの人々は、パウロを天使かキリストのごとく敬い、福音を受け入れて救われ、大いに喜んでいたのです。〈偽の兄弟たち〉も〈熱心〉ですが、その動機は、愛ではありません。彼らは人々を、〈自分たちに対して熱心〉な奴隷にしようとしているのです(17)。
パウロは真実の愛をもって諭します。〈わたしの子供たち。キリストがあなたがたのうちに形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます〉(19)。
私たちは誰の声に耳を傾けているでしょうか。
キリスト者は異教徒の神事に反対すべきか
「即位の礼」と「大嘗祭」って何? 詳しく解説(18/03/30)
[1/4]【今上天皇御即位】正殿の儀Celebration parade His Majesty the Emperor
「天皇の退位および即位の諸行事に関する声明」(日本基督教団総会議長 石橋秀雄)
http://uccj.org/wp-content/uploads/c63b5efbd69e93d5ec5b415956829884.pdf
http://www.nskk.org/province/seimei_pdf/190221taii_sokui.pdf
最近、いくつかのキリスト教の団体が、天皇の御代替わりにおける即位の礼や大嘗祭などの儀式に反対する声明や宣言を出しています。それらを読んで、気になることがありましたので、以下、私見を述べさせていただきます。
「天皇」号は推古天皇の御代(608年)から始まり、「元号」は皇極天皇の御代、「大化」の改新(645年)から始まり、「日本」の国号が法制化されたのは持統天皇の御代、689年の飛鳥浄御原令です。天皇号も元号も国号も7世紀以来、日本が支那に従属しない独立国であることの証しとして存続してきたものです(ちなみに、これらを定めた時のミカドはみな女帝です!)
それゆえ、「天皇」「御代替わり」「改元」を否定することは、「日本国」そのものを否定しているかのように、一般的に思われるのです。「反日」と見なされた教会が、日本人に伝道できるでしょうか?
不思議に思うのは、皇室の神事に反対している人たちの教派が、英国や米国などキリスト教と政治が密着している国々の宣教師たちによって生まれたものであることです。政教分離といっても程度があり、完全分離をしているのは共産党独裁の国くらいではないでしょうか。
そもそも日本に押し寄せたキリスト教宣教の大波はみな、欧米列強の帝国主義と結びついていました。その第一はキリシタン時代であり、第二は幕末から明治時代にかけて、第三は大東亜戦争の終戦後です。
欧米のキリスト教徒は武力によってアフリカ、北米、中南米、アジア、オセアニアの人々を征服して、強制的にキリスト教へと改宗させました。豊臣秀吉が伴天連追放令を出した背景には、そのようなキリスト教国の帝国主義的な侵略への警戒がありました。実際、当時のイエズス会は長崎地方を所領として支配し、軍事化を進めていました。ポルトガル商人は、大勢の日本人を奴隷として輸出していました。
皇室神道の儀式に反対するキリスト者の方々は、ヨシュア記や士師記に記されたイスラエルの如く、武力をもって異教徒を滅ぼす、あるいは異教徒を強制的に改宗させるおつもりでしょうか。もちろん、昭和憲法の平和主義を愛する方々が、そのようなことをなさるはずはありません。しかし、異教徒に対してキリスト教の戒律に従えと要求するのは、欧米の帝国主義と同様の態度と見られかねない行為なのです。
その帝国主義の波に乗って日本にやってきたキリスト教が、明治維新から昭和20年までの日本を「帝国主義的な侵略国家だ」と批判するのはナンセンスだ、と反発する人々がいるのは当然でしょう。
「西欧近代」モデルの帝国主義的な外来種の性格から脱皮して、この「日本」の地に根付くキリスト教会を形成することが、日本宣教の最も重要な課題である。筆者はそう考えています。
あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。あなたは自分のために偶像を造ってはならない。…それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。(出エジプト記20章3〜5節)
この「あなた」は、神の選民イスラエルを指しています。これは、主に贖われた民が、他の神々や偶像を崇拝することを禁じた戒律です。これを今日のキリスト教徒に適用することは、適切だと思います。しかし、これを異教徒に適用することは適切でしょうか?
我々キリスト者は、異教徒に対して律法だけを要求するべきではありません。律法と共にキリストの福音を伝えることが、絶対的に必要です。そうでなければ、受け取り手に律法が正しく理解されません。これは、プロテスタント信仰の基本である和協信条が教えている大原則です。
福音を伴わない律法の要求は、キリスト教徒の独善であり、侵略的な意思表示であると見なされます。
預言者ダニエルは、新バビロニア帝国とペルシア帝国(アケメネス朝)で高官として、異教徒の諸王に仕えました。アケメネス朝を開いたキュロス大王は、支配下にある各民族の宗教的な自由を認めました。民族や宗教の違いを超えた普遍的な世界帝国を築いたキュロスは、イザヤ書に預言されたキーパーソンです。その宗教的多元主義の社会で、ダニエルに代表されるユダヤ人は、主のみを礼拝して、王や偶像を礼拝せず、なおかつ異教徒の王を尊重して、忠節を尽くしたのです。
我々現代のキリスト者も、諸宗教の信仰の自由を認めて、異教徒を尊重しつつ、自分たちの神=主への絶対的信従をもって異教徒に真の神を証しし、彼らの自発的な改宗を期待すべきではないでしょうか。皇室神道を否定するよりも、皇室のキリスト教への改宗を祈るべきではないでしょうか。
キリスト教の絶対的な真理性を信じる福音主義者であっても、自らの知識が不完全であり、自らの判断が過ち得る相対的な正しさしか持ち得ないことを認めるべきです。日本や世界の諸宗教が、自らの信仰の絶対性と普遍性を根拠として、独自の戒律を異教徒に強制したら、どうなるでしょうか。このような帝国主義の運動は、現代でも「原理主義」として残存しています。
マルクス、エンゲルス、レーニンは近代資本主義の発展の必然として帝国主義が生じることを、論理的に説明して、社会主義革命と共産主義社会への発展を歴史の必然と主張しました。しかし、この史的唯物論=無神論もまた帝国主義の変種に過ぎず、社会主義勢力は資本主義諸国よりも多くの人民を虐待し、殺したのです。
今でも共産主義者によって迫害され、殺されるキリスト者がいます。共産主義を危険な思想運動として、非合法とする国はたくさんあります。彼らから見たら、共産主義者と連帯する日本のキリスト者は裏切り者ではないでしょうか。
このような500年にわたる「西欧近代」の発展モデルが破綻した現代においてなお、日本のプロテスタントの指導的立場にある神学者や牧師・信徒が、共産主義者と結託して日本のキリスト教を変質させつつあることは、あるまじき愚行であり、大罪であると言わざるを得ません。
数千人あるいは数万人のメンバーを包括するキリスト教団体の幹部たちが、そのメンバー全体に意思を確認することもせずに、勝手に団体名を使って特定の政治的立場に偏向した声明・宣言文を出しています。この前衛主義のやり方と独善の体質は、どこかの政党にそっくりです!
東京方面から「私はもうこの教会にいられません」という嘆きの声が、関西にいる私のところにまで届いてきます。いと小さき者たちの悲しみを共有しておられる主イエスの御声を、幹部の人たちに聴いていただきたく願います。