KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

教会を建て上げる幸い(マタイ16:13-20)

f:id:nozomu-kanai:20190210170622j:plain

日本バプテスト同盟 西岡本キリスト教

■聖書朗読 マタイによる福音書16:13~20

13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

■説教 「教会を建て上げる幸い」

 

 先日、私は同盟総会に出席させていただき、全国から集まってこられた牧師・信徒の兄弟姉妹と良き交わりを持たせていただきました。今年のテーマは「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ12:32)でした。少子高齢化によって人口が減少し、「地方消滅」と言われる時代にあって、我々の同盟もまた厳しい状況にあることは否めません。けれども、人口の少ない地方圏でたくさんの教会を生み出して、存続してきたこの群れは、今も素晴らしい可能性を持っています。「教会」とは何でしょうか。その存在意義や目標は何でしょうか。主の教えに耳を傾けたく思います。


  1.教会の土台は正しい信仰告白である

 
 時は紀元29年の秋頃と思われます。主イエスの宣教の旅が終わりに近づいていました。主は弟子たちを連れて、現在のイスラエル最北の地、当時<フィリポ・カイサリア>と呼ばれた地方に、行かれました。北を望めば、標高2816メートルを誇り、一年中、山頂に雪を抱いているヘルモン山がそびえています。

 

カエサレア・ピリピ - Wikipedia

f:id:nozomu-kanai:20100723142317j:plain

f:id:nozomu-kanai:20200712033118j:plain


 ここは、ヘルモン山の南麓にある、岩の多い高台です。山に染み込んだ水が、ここで豊かな泉となって、湧き出ています。これがヨルダン川の水源地の一つであり、川は40キロほど下って、ガリラヤ湖の北岸に注いでいます。

 

f:id:nozomu-kanai:20200712032055j:plain

バニアスの滝

 詩編42編の舞台はこの地です。 

わたしの魂はうなだれて、あなたを思い起こす。
ヨルダンの地から、ヘルモンとミザルの山から
あなたの注ぐ激流のとどろきにこたえて
深淵は深淵に呼ばわり
砕け散るあなたの波はわたしを越えて行く。

 旧約聖書の時代には、この地はバアル・ガドヨシュア11:17)やバアル・ヘルモン(士師3:3)と呼ばれ、異教の神を祀る場所でした。ここは、ヘレニズム時代からギリシア神話のパーン神を礼拝する聖所となり、パニヤスと呼ばれるようになりました。パーンは下半身が山羊で、上半身は人間、頭に2本の角があります。

 

f:id:nozomu-kanai:20190727035333j:plain

 パーン:下半身は山羊で、頭に2本の角がある

 

 紀元前20年にヘロデ大王は皇帝アウグストゥスからこの町を与えられたため、その記念に皇帝の像を安置した神殿を建設しました。大王の息子であるヘロデ・フィリポは、この町を拡張し、白い大理石で壮麗な神殿を建てて、皇帝(カイサル)を祀りました。日本で言えば、徳川家康を祀った日光東照宮明治天皇を祀った明治神宮のようなものでしょうか。

ヘロデ朝 - Wikipedia

f:id:nozomu-kanai:20180221073156j:plain

フィリポ・カイサリア遺跡

f:id:nozomu-kanai:20200713182122j:plain

日光東照宮陽明門

f:id:nozomu-kanai:20151230115104j:plain

明治神宮

 この偶像崇拝の盛んな地で、主イエスは弟子たちに尋ねました。

「人々は人の子を何者だと言っているか」


人の子>はメシアの称号です(ダニエル7:13)。

 弟子たちは答えました。

「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます」


 ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスは、「イエスは、私が殺したバプテスマのヨハネのよみがえりではないか」と恐れていました(14:1-2)。<エリヤ>は紀元前9世紀後半に北王国イスラエルで活動した預言者であり、<エレミヤ>は南王国ユダの末期からバビロン捕囚時代にかけて活動した預言者です。両者とも「メシアの先駆けとして再来する」と人々は信じていました(マラキ4:5、Ⅱマカベア2:1-12、ラテン語エズラ記2:18)。
 イエスは彼らに尋ねました。

「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」


 これにペトロが答えました。

「あなたはメシア、生ける神の子です」


 正解です。命無き偶像とは違い、イエスは生きている救い主です。ローマ皇帝は人間に過ぎませんが、イエスは天から降って来た<神の子>です。

 ペトロの信仰告白を聞いて、イエスは彼に言いました。

ヨハネの子シモン、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは人間ではなく、わたしの天の父である」


 漁師であるシモンは「無学な普通の人」(使徒4:13)です。使徒パウロのように律法の専門教育を受けた学者ではありません。けれども、神が啓示によって、彼にこの真理を悟らせたのです。

 続いてイエスは彼にこう言いました。

「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」

Matthew 16:18 Interlinear: 'And I also say to thee, that thou art a rock, and upon this rock I will build my assembly, and gates of Hades shall not prevail against it;


 <ペトロ>(石)と<>(ペトラ)は掛け言葉です。ペトロは12使徒の代表として信仰を告白しました。教会は、使徒直伝の正しい信仰告白を土台として、その上に建て上げられる霊的な神の家です。

あなたがたは使徒預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。(エフェソ2:19-22)

 

  2.キリストがキリストの教会を建て上げている

 

 主イエスは、明確な目標をもって宣教を進め、弟子を訓練しました。

「わたしは……わたしの教会を建てる」


 これがその目標です。<教会>の原語「エクレーシア」は「召し集められた者たち」という意味の言葉です。これは、70人訳ギリシア語聖書(SEPTUAGINTA)でヘブライ語聖書の「カーハール」(神の選民イスラエルの集会)の訳語として使用された語です。すなわち主イエスは、新しい神の選民を形成しているのです(ガラテヤ6:16参照)。四つの福音書において「エクレーシア」という語が用いられているのは、マタイ福音書の16章と18章だけです。このテキストは、主イエスご自身が直接語った教会論を伝えており、非常に重要です。

 「教会」というのは本来、建物のことでも組織や宗教法人のことでもありません。「教会」は神に選ばれた者たちの集まりです。私たちが教会なのです。教会堂や組織も重要ですが、何よりも大事なのは人です。
 主イエスは「わたしが教会を建てる」と言っておられます。私たちが教会に集うようになった事情は、「親がクリスチャンだから」、「友だちに誘われて」、「学校がミッションスクールだったから」などいろいろでしょう。けれども、実は主イエスが私たちひとりひとりを選んで、教会に導いてくださったのです。
 主イエスはこう言っています。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)


 教会は、主イエスがご自身の命を犠牲として贖ったものです。使徒パウロは次のように教えています。

夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(エフェソ5:25)

 ですから、主イエスは教会をとても愛しておられます。教会は誰のものでしょうか。もちろん会員である皆さんのものですが、それ以上に、教会はイエス・キリストのものです。イエス・キリストご自身が教会を建て上げているのです。

 

  3.教会に天国の鍵が与えられている 

 

 続いて主イエスはペトロにこう言いました。

「陰府(よみ)の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」

Matthew 16:19 Interlinear: and I will give to thee the keys of the reign of the heavens, and whatever thou mayest bind upon the earth shall be having been bound in the heavens, and whatever thou mayest loose upon the earth shall be having been loosed in the heavens.'


 主イエスはペトロに天国の鍵を授けました。「」は複数形です。カトリック教会では、「バチカンにいるローマ教皇がペトロの後継者であり、天国の鍵を持っている」と主張します。しかし、マタイによる福音書18章18節で、主イエスはこう言っています。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」


 天国の鍵は<教会>に授けられたものであり、「ペトロの後継者」だけが所有するものではありません。私たちキリスト者は皆、天国の鍵を使うことができます。それが万人祭司です。

f:id:nozomu-kanai:20200713221341j:plain

バチカン・サンピエトロ大聖堂

f:id:nozomu-kanai:20200713221835j:plain

95ヶ条の提題を貼るルター

kanai.hatenablog.jp


 では、天国の鍵はどのように用いるものでしょうか。これは、悪魔・悪霊によって陰府(よみ)に引き摺り込まれようとする人々を解放して、天国に入れるために用いるものです。
 聖書の霊的な世界観は、天と地と地下(陰府)という三層構造になっています(エフェソ2:10参照)。人は死んだら、どこに行くのでしょうか。聖書によれば、肉体が土に帰っても、霊魂は生きていて、自意識を持っています。「イエスをキリストと信じる人は天国に行って、信じない人は地獄に行く」と言う人がいますが、それは大きな誤解です。「イエスをキリストと信じる人は天国に行く」というのは正しいのですが、それ以外の人が行くのは陰府です。新約聖書の原語、ギリシア語では「ハデース」と言います。そこは、最後の審判が行われるまでの中間状態です。最後の審判によって新天新地=完成した神の国に入る人と、永遠の火の池すなわち「ゲヘナ」=地獄に入る人が、分けられます(マルコ9:43-49、黙示録20:12-15)。陰府にも炎の中で苦しむ人がいますけれど、静穏な場所にいる人もいるようです(ルカ16:23-24参照)。

 陰府は悪魔・悪霊が本拠地としている城砦のようなところで、死者の霊魂はその中に囚われています。マタイ16:18で「」と訳されている原語の正確な意味は「」です。それは複数形です。岩波訳はこれを「軍門」と訳していますが、悪霊=堕天使の軍団を指しています。主イエスは十字架上で死んでから、霊において陰府に降って、そこを征服しました(第一ペトロ3:18-22、黙示録1:17-18参照)。そして主イエスは悪霊たちの武装を解除し、彼らを捕虜として引き連れて、天に昇っていきました。ですから、陰府の諸々の軍団も、教会には対抗できません。

キリストはすべての支配や権威の頭です。
神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものになさいました。
(コロサイ2:10,13-15)

 教会は地上において天国を代表する公的機関です。たとえるなら、教会は天国の大使館のようなものです。C国のPという首都に日本の大使館があるとします。そこにNK国の人が「助けてほしい。米国に行きたい」と言って、駆け込んできたとします。その人が政治的な理由や宗教的な理由でNK国の政府から迫害されていた場合、日本大使館はどのように対応するでしょうか。NK国の政府がその人の引き渡しを求めても、この場合、日本大使館はそれを拒み、その人を米国に行かせてあげなければなりません。それが国際的なルールです。C国にあっても、日本大使館の敷地内はC国の法律ではなくて、日本の法律が適用されます。治外法権が認められているのです。そのごとく教会は天国の大使館なのです。

 私たち教会は<天国の鍵>を用いて、<陰府の軍門>に囚われていく人々を解放し、天国に移し入れなければなりません。宣教とは霊的な救出戦に他ならないのです(使徒26:18、エフェソ6:10-20参照)。

 私たちも主の助けにより大胆に信仰を告白して、堅固な教会を建て上げ、救霊戦を続けましょう。

f:id:nozomu-kanai:20200713220211j:plain

北京の日本大使館

苦しみを共に担う教会(フィリピ4:10-20)


2019年6月30日「苦しみを共に担う教会」フィリピ4:10-20

 日本バプテスト同盟 西岡本キリスト教主日礼拝

 

◼聖書朗読 フィリピの信徒への手紙4:10-20

 (10) さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表す機会がなかったのでしょう。 (11) 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。(12) 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。(13) わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(14) それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。

 (15) フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。(16) また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。(17) 贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです。(18) わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています。そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。(19) わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(20) わたしたちの父である神に、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

f:id:nozomu-kanai:20190629165952p:plain

第一世紀の地中海世界パウロの伝道旅行行程

■説教

 

 「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)

 これこそ、人間の最大にして最後の難問である死を越えていく、究極の希望です。この確信ほど素晴らしいものはありません。けれども、私たちは肉体をもって地上で生活していますから、実際、様々な物を必要としており、不足・欠乏に悩まされるものです。教会の営みにおいては、経済の問題をどのように考えたら良いのでしょうか。

 

  1.貧困も欠乏も乗り越えて


 「フィリピの信徒への手紙」は紀元後61年か62年頃に、使徒パウロがローマの獄中からマケドニア州のフィリピにある教会に宛てて書いた書簡である、と伝統的に考えられています(諸説あり)。

  この時、間もなく判決が下って監禁が終わる、とパウロは思っていました。彼は死刑になることも覚悟していましたが、無罪となって解放される可能性もありました(1:20-26,2:17,23-24,3:10-11,20)。獄中にあってパウロは、60年ほどの生涯を振り返りました。数えきれない試練を乗り越えてきた生涯でした。

キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。(第二コリント11:23-30)。

わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です。(フィリピ4:11b-13)

 パウロは少年時代にエルサレムに上京して、律法学者ガマリエルの門下で学びました。そして、ファリサイ派のラビ(教師)となりました。

 古代ユダヤ教では、神殿で仕える祭司は神殿税や十分の一税等によって収入が保障されていました。--ユダヤの民衆には当時、一人頭2デナリオン(二日分の賃金に相当)の神殿税が課せられており、収穫物の十分の一を献げる「十分の一税」も課せられていました--。

 しかし、ファリサイ派のラビは会堂や学校で教えたり、手工業に従事したりして、生計を立てなければなりませんでした。そのためパウロはテントメーカーあるいは革職人としての技術を習得していました。 

 「福音宣教者は福音によって生活の資を得るべきである」という主イエスの教えを、パウロも知っていました(第一コリント9:14,ルカ10:7-9)。けれども、どこからもサポートが得られない時には、パウロはテントメーカーあるいは革職人として働いて、自給伝道をしていたのです。

その後、パウロアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロ安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。(使徒18:1-5)

  主が私たちを強くしてくださるので、私たちはあらゆる試練を乗り越えていけます。

online.sbcr.jp

 

 2.苦しみを共に担う教会


第2回宣教旅行で50年の春頃に、パウロがフィリピで伝道して、教会が生まれました(使徒16:11-40)。パウロは第3回宣教旅行で、56年の夏頃(使徒20:2)と57年の春頃(使徒20:6)にフィリピ教会を訪問しています。この教会は誕生した時からずっと、パウロの宣教活動を経済的に支援していました。パウロは手紙を送ったり、使者を遣わしたりして、フィリピの信徒たちを霊的にサポートしていました(2:19,25-30)。

わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました。(4:15-16)

フィリピ教会からパウロに送られる経済的な支援は、しばらく途絶えていました。それが再開されたことをパウロは喜び、彼らに感謝を伝えました。

さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表してくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。(4:10)

そちらからの贈り物をエパフロディトから受け取って満ち足りています。(4:18b)

それにしても、あなたがたは、よくわたしと苦しみを共にしてくれました。(4:14) 

 この世にあって各個教会はそれぞれの地域で歩みを続けています。けれども、「キリストの体」なる教会はあらゆる違いを超えて、霊的に一体です。喜びも苦しみも共有して助け合い、共に成長するために、私たちは神に召されて教会の一部分とされたのです。

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。(第一コリント12:26-27)

 

  3.神と共に喜ぶ

 

 私たちの奉仕や献金はすべて神へのささげものです。

それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです。わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます。(4:18-19)

 主の栄光がこの地に輝きわたりますように! 

皇室のキリスト教への改宗こそ、日本宣教の課題である!

f:id:nozomu-kanai:20170218014315j:plain        フィリポがエチオピアの宦官に聖書を解き明かす

 

日本福音主義神学会 西部部会 2019年度春季研究会議 研究発表

皇室のキリスト教への改宗こそ、日本宣教の課題である!

kanai.hatenablog.jp


皇室のキリスト教への改宗こそ、日本宣教の課題である!


  5.皇室神道キリスト教信仰の関係

 

彼らとは逆に「皇室神道キリスト教は同質性・親和性が高いものである」と主張するキリスト者もいる。これは、キリスト教信仰を日本教天皇教に融和すべく変質させた混淆宗教=多神教、いわゆる「日本的キリスト教」を生み出す。日ユ同祖論もこれに関係している。戦時中には、信徒に神社参拝や宮城遥拝を勧奨した牧師たちもいた。 

メイド・イン・ジャパンのキリスト教

メイド・イン・ジャパンのキリスト教

 

天皇制・皇室神道キリスト教信仰の関係については、

【対立】「両者は相容れないものである」から「天皇制反対=共和主義」だ
【混淆】「両者は同質性・親和性が高いものである」から「日本的キリスト教」を創ろう

という両極端の間に

【共存】「両者は相容れないものである」けれども「平和に共存できる」

【改宗】「両者には同質性・親和性もある」から「皇室のキリスト教への改宗」の手立てを考えよう

という方向性もあるはずだ。

二王国論(二統治説)によって【共存】の方向性は可能となる。

kanai.hatenablog.jp

kanai.hatenablog.jp

ここでは【改宗】=「皇室のキリスト教への改宗」の可能性について考察してみたい。

極めて大胆な提案のようだが、キリスト教2000 年の歴史において、王をはじめ国が丸ごとキリスト教に改宗した事例は、少なくない。そもそもキリスト教徒を激しく迫害した「反キリスト」的なローマ帝国が、キリスト教国に転換した。それが今日に続く世界宗教としてのキリスト教の基盤となったことは、歴史的な事実である。神は伝統的な異教によっても、その地の民がキリストの福音を理解し、受容するための「道備え」をしておられる、と筆者は考えている。

 

  6.皇室のキリスト教への改宗こそ、日本宣教の課題である!

 

 松谷好明は近著『キリスト者への問い――あなたは天皇をだれと言うか』で次のように述べている。

キリスト教国家神道皇室神道は両立するというのが日本のカトリック教会およびバチカンの基本的な考え方です(pp.123-124)
聖書的プロテスタントキリスト教の視点から見れば、天照大神・皇霊・八百万の神の祭祀である皇室神道は、三位一体の真の神以外のものを拝む偶像崇拝の宗教以外のなにものでもありません(p.136)
 美智子皇后が人的にも精神的にもカトリック教会にきわめて近く、聖書とキリスト教の全般について相当の知識を有していることは確かです。(中略)では彼女がカトリックの洗礼を受けてキリスト者になる可能性はあるでしょうか。ないと思います。彼女は一般国民である正田家の人々とは完全に異なる身分である「皇后」であって、天皇の場合と同様、皇室神道国家神道に従って生きることを法と伝統・慣習によって義務付けられているからです。天皇はもとより皇后にも、「信教の自由」は存在しません。(pp.182,183)

  松谷が〈キリスト教国家神道皇室神道は両立する〉というカトリック教会の考え方を指摘しているのは重要である。ただし、松谷は〈美智子皇后〉(現上皇后)をはじめ皇室の方々がキリスト教に改宗する可能性は無い、と述べている。 

改訂版 キリスト者への問い あなたは天皇をだれと言うか

改訂版 キリスト者への問い あなたは天皇をだれと言うか

 

  山口陽一は近著『キリスト者から見る〈天皇の代替わり〉』で次のように述べている。

天皇には信教の自由を含む人権がありません。(中略)天皇制が廃止されて天皇の救いの環境が整うという順序と、救われるべき罪人の一人である天皇の救いにより宮廷祭祀が廃止されるという順序、いずれにしても祈りはそこにあります。天皇の地位は憲法が定めていますが、宮中祭祀は私的なことだからです。(p.31)

山口が〈宮中祭祀は私的なこと〉と指摘しているのは重要である。天皇の改宗は天皇制の廃止とセットでなければ実現しない、と山口は考えている。

キリスト者から見る〈天皇の代替わり〉 (いのちのことば社)

キリスト者から見る〈天皇の代替わり〉 (いのちのことば社)

 

原武史は『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)で、終戦後の状況に関して重要なことを述べている。

もうひとつの責任のとり方として、神道からカトリックへの改宗が考えられます。(中略)マッカーサー天皇の退位を封じ込めましたが、もし天皇が改宗したいと言った場合、それを止めることはできたでしょうか。天皇家といえども信教の自由はあるという理由で宮中祭祀の継続を許した経緯を踏まえれば、できなかったと思います。では、改宗した場合、宮中三殿は撤去され、祭祀も行われなくなったでしょうか。おそらく、それはなかったでしょう。なぜなら、古代以来、天皇家は断続的に祭祀を行いつつ、仏教を受容してきた歴史があるからです。(中略)たとえ天皇が改宗し、カトリックの教義を信仰するようになったとしても、国体そのものが変わることはないわけです。そもそもローマ法王自身が裕仁に「カトリックの教理は確立した国体・政体の変更を許さない」と語っていたことは、第2講で見た通りです。(中略)「実録」を読んでゆく限り、この時期から、天皇が積極的にキリスト教に接近する姿が現れてくるのです。(pp.194,195,196,202)

  原の見解としては、天皇家は古代以来、皇室祭祀と仏教のハイブリッドを実行してきたのだから、皇室祭祀とカトリックのハイブリッドも可能だというのである。バチカンは、それを用意周到に道備えしていたようである。

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

 
天皇は宗教とどう向き合ってきたか (潮新書)

天皇は宗教とどう向き合ってきたか (潮新書)

 

dot.asahi.com 

 1951年に日本国が独立を回復すると、昭和天皇カトリック教会への接近は止まった、と原は述べている。しかし、その後の皇族の婚姻関係を見ると、皇室のキリスト教への接近が途絶えたとは思えない。

上皇后美智子 - Wikipedia雙葉学園雙葉小学校卒業生、聖心女子学院中等科・高等科・聖心女子大学卒業生)

皇后雅子 - Wikipedia田園調布雙葉学園 田園調布雙葉小学校・田園調布雙葉中学校卒業生)

三笠宮寛仁親王妃信子 - Wikipedia(カトリック教徒である麻生家のご出身、聖心女子学院初等科・中等科卒業生)

高円宮憲仁親王妃久子 - Wikipedia (聖心女子学院初等科・中等科卒業生

(注)カトリックと関係のある学歴だけを書いています。

f:id:nozomu-kanai:20190616172430j:plain

マリアベールを被る美智子さま

f:id:nozomu-kanai:20190616173337j:plain

1993年9月4日 天皇皇后とローマ法王

私の信頼できるカトリック教徒の知人からの情報によりますと、今年に入ってから、皇后・美智子様実弟である正田修・素子夫妻が、都内の教会でカトリックの洗礼を受けられたということです。

正田家は、美智子様の祖母きぬさんが昭和2年にフランス人宣教師ヨセフ・フロジャック神父より洗礼を受けられてから、カトリックには縁の深いお家柄です。きぬさんの夫であった正田貞一郎氏も、戦後、昭和24年に関口教会カトリックの洗礼を受けられています。また、美智子様の母上である冨美子さんも、臨終の間際に洗礼を受けられ、実妹の安西恵美子さんも洗礼を受けられたとのことです。

美智子様カトリックのミッションスクールで育ち、聖心女子大学を卒業されたことは、あまりにも有名ですね。
美智子様は、カトリックの精神が育んで誕生した、日本の新しい時代の皇后である、と私たちは胸を張って言えるのではないかと思います。

101newlifenet.cocolog-nifty.com

gendai.ismedia.jp

1905年から10年間、昭和天皇の養育係を務めた(昭和天皇が4〜14歳までの間)足立たか(父親が札幌バンド出身のプロテスタント。後に鈴木貫太郎の夫人となる)も、明仁上皇の家庭教師・ヴァイニング夫人(クエーカー)も、徳仁天皇の教育係・濱尾実カトリック教徒)も皆、キリスト教と関係の深い人たちである。昭和天皇は昭和53年12月4日の記者会見で「鈴木たかは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります」と述べておられる。

f:id:nozomu-kanai:20190817173535j:plain

鈴木貫太郎とタカ夫人

 鈴木貫太郎の妻たかの父は札幌農学校の二期生で、内村鑑三新渡戸稲造、宮部金吾、広井勇、町村金弥らと同級の足立元太郎。クラークの遺訓に従って洗礼を受け、のちに内村鑑三らと共に札幌独立基督教会を創設したキリスト信徒である。足立は札幌農学校卒業と同時に開拓使物産局博物課勤務となるが、学業の余暇に蚕の生理・病理など養蚕を自習していたことから養蚕・生糸行政に従事する。このころ常子と結婚、常子もキリスト信徒入りし、長女たかが生まれる。
 専門知識と人柄を高く買われた足立は、その後横浜生糸検査所技官を命ぜられて札幌から横浜に移る。足立は子供の教育には熱心で、長女のたかを東京府立女子高等師範学校保母科に進学させた。明治三十七年、同校を卒業したたかは、同校付属幼稚園の保母として勤めはじめた。
 このころ宮内省では、四歳になった皇孫(のちの昭和天皇)の養育に幼児保育の専門家を置くことにし、元東大総長、文部大臣の菊地大麓に人選を依頼していた。青山御所内の皇孫御殿に住み込み、皇孫たちの身の回りの世話や躾、教育までを受け持つ母親代わりの養育掛である。ケンブリッジ大学卒業の菊池が推薦したのは、二十一歳の足立たかだった。菊池の孫が同校付属幼稚園に通園していて、園児の父母の間で足立たかの評判がいいことを聞き、推薦したのである。たかの保育、教育のすばらしさが高く評価されたのだが、そこにはたかが父から受け継いだキリスト教信仰があったに違いない。こうしてたかは明治三十八年から大正四年までの十年間、昭和天皇十四歳のときまで養育掛を務める。その十年間は昭和天皇の人格形成に大きな影響を与えたはずである。

昭和天皇の親代わり-鈴木貫太郎とたか夫人 | 歴史・人物伝 |

昭和天皇の親代わり?鈴木貫太郎とたか夫人

昭和天皇の親代わり?鈴木貫太郎とたか夫人

 

murakumo1868.blog.fc2.com

murakumo1868.blog.fc2.com

ja.wikipedia.org

smart-flash.jp

www.nytimes.com 

皇太子の窓 (文春学藝ライブラリー)

皇太子の窓 (文春学藝ライブラリー)

 


浩宮様と浜尾実さん

 

2004年6月~2009年4月3日まで敬宮愛子さまの養育係を務めた福迫美樹子氏は、田園調布雙葉学園聖心女子大学で学び、雙葉小学校付属幼稚園で16年間、教諭を務めた初等教育の専門家である。

 

なお、三笠宮崇仁殿下がオリエント学者すなわち聖書学者であられたことは有名である。

三笠宮崇仁親王 - Wikipedia

Piyo bible Ministries 

ホームページをリニューアルいたしました|ニュース|公益財団法人 中近東文化センター

天皇・皇族: GOALS DIGGER

新聖書地図 (図説世界文化地理大百科)

新聖書地図 (図説世界文化地理大百科)

 

我々は、このような皇室のキリスト教への接近を、どのように考えるか。

今なお皇室のキリスト教への改宗こそ、日本宣教の課題である!

 

 そして、ある夏の日のことでした。田中政男先生が私のところに興奮してきました。「おい!順!すごいことがあったぞ!」と。何かと聞くと、実は、軽井沢には、今の天皇夫妻が出会って、恋に落ちた思い出のテニスコートがあります。そこに行くと天皇夫妻、当時は皇太子夫妻でしたけれど、テニスをやりに来るのです。私たちはそれを時々、金網にへばりついて、ロイヤル・テニスと呼ぶのでしょうか、見ていました。
 なんで田中先生が興奮して来たかといったら、あの皇太子妃殿下の美智子さんが、田中政男先生に、自ら近づいて来たというのです。全く見ず知らずの関係のない、田中先生に妃殿下が近づいて来たというのです。
 しかしそれは全く田中先生の勘違いでして、彼の後ろに、皇太子夫妻が乗る車があったからでした。彼は勘違いしたのです。「私の所に主が扉を開いて、皇太子夫妻が近づいて来た!」
 その時、田中先生は私の父が書いた「平安を持つ秘訣」という薄い本を、ちょうど持っていたのです。とっさにその本を出して、「美智子様!これをお読みください!」と差し出したそうです。直訴みたいなもんです。するとその本の題名を見て、「受け取ってよろしいでしょうか」と言って受け取られたというのです。
 そして、車に乗り込んでからも、わざわざ窓を開けて「ありがとう」と言われたというのです。とにかく本を渡したわけです。
 勘違いから、「平安を持つ秘訣」という本が妃殿下に渡ったのです。それを彼女がさっそく読んだみたいです。ちょうど平安がなかった時みたいでした。なんとその後向こうから電話がかかってきました。私たちは軽井沢の安宿に雑魚寝してたのですが、そこに電話がかかってきました。そして「一度出会って、話を聞きたい」ということでした。どこにご夫妻はおられるのかと聞くと、プリンス・ホテルにおられるとのことでした。
 その時は興奮でしたね。ついに皇太子夫妻に伝道が出来る!ズボンを履いたら田中先生のズボンが破れていました。いろいろと繕ったりして、父と田中先生は皇太子夫妻に出会うために祈ってから、緊張して出かけて行きました。
 その時の運転手は誰か・・・。それはなんと、この私だったのです。私は二人をただ、プリンス・ホテルに連れていけばいいと軽く考えていて、私の格好は短パンにビーチ草履、Tシャツ。当時は私の髪の毛は長かったのですが、そんな出で立ちで私は二人をプリンス・ホテルに連れて行きました。
 しかし、ホテルに着いて、皇太子夫妻が宿泊しているかと聞くと、「いませんよ」というのです。実はプリンスホテルというのは俗っぽいホテルではなくて、本物のプリンスが泊まるプリンスホテルが軽井沢にはあるのです。それは彼らの別荘というか、御用邸というか、それがあるのです。
 私はそんなこと全然知らないですから、普通のプリンスホテルに連れて行きました。そのホテルも高級なホテルですが、そこに行ってしまったのです。場所を間違ったわけです。
 そして、なんと、あの皇太子夫妻は、三十分も待ちぼうけだったそうです。私たちが約束の時間に来ないものだから、他のスケジュールがあって出かけたというのです。私たちが本物のプリンス・ホテルに着くと、入口に警察官が立っていて、敬礼されて、玉砂利の長い道を私の中古の車が入って行きました。着いたら戸を開けられて、降ろされて、「運転手さんも」と開けられちゃったのです。
 私は短パンとTシャツとビーチ草履で、異様な格好をしていたのですが、その日をきっかけにして、その後、今の天皇夫妻と何度も出会うことが出来ました。
 私も一度一緒に行ったことがあります。その時もまた運転手で行ったのですが、今の天皇夫妻の横でお茶を飲みました。枝豆を出してくれたので、ただ、ぼりぼり食べながら、話を聞いていました。父が「お祈りしましょう」と祈りました。
 もしかしたら彼らも、やがて主を信じる日が来るのかな…と、今から二十数年前の若き日の思い出ですが、これは偶然ではありません。
 田中先生が間違えた、勘違いした、美智子さんが自分の所に来てくれたなんて、普通じゃ考えません。普通の人間では、そんな勘違いはしないはずです。しかしそれをきっかけに、皇室伝道が開かれたのです。

滝元順牧師:メッセージ2011年9月4日 of 2011以前メッセージバックナンバーShinshiro Church Web Site

agora-web.jp


秋篠宮家の次女・佳子さま 国際基督教大学をご卒業(19/03/22)

 

kanai.hatenablog.jp

kanai.hatenablog.jp

kanai.hatenablog.jp

kanai.hatenablog.jp