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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

脱原発依存の経済へ

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   1.原発問題の特殊性


東日本大震災がおこってから1年が経ちました。この地震がもたらした災禍には、他の震災と大きく違う点があります。それは福島第一原子力発電所の事故による放射能汚染の問題です。


原子力発電の問題は、他の問題とは明確に区別して議論し、検証し、対処する必要があります。原発事故による汚染は甚大で、深刻であり、時間的に非常に長い、特殊なものであるからです。

これは E.F.シューマッハーが『スモール イズ ビューティフル』(1973年)で、すでに指摘していたことです(講談社講談社学術文庫]第二部第4章参照)。

スモール イズ ビューティフル (講談社学術文庫)

スモール イズ ビューティフル (講談社学術文庫)

 
スモール イズ ビューティフル再論 (講談社学術文庫)

スモール イズ ビューティフル再論 (講談社学術文庫)

 

 

  2.脱原発依存の決意を!

筆者は、現時点において、日本では即時の脱原発は困難である、と考えています。日本はエネルギー供給の大部分を原子力と石油に頼っており、イランなど中東に政治的軍事的な不安定要素がある限り、原子力発電を放棄することができないからです。エネルギー供給の大幅な減少は、経済活動や医療活動など社会の様々な領域に停滞を招き、低所得者や病人・障がい者など社会的弱者に過酷な状況をもたらします。


しかし、その道程の長短はともあれ、世界中の人々が危機感を共有している今こそ、原発への依存から脱することを決意して、具体的に作業を進めていくべき時です。 

特に日本には、その責任が大いにあります。日本は被爆国として、1955年以来、半世紀にわたって原水爆禁止の運動を続けてきました。それなのに、しかも国がそれに深く関与してきたのに、福島第一原発事故の処理がまともにできなかった。何ということか! 非常に残念です。


日本政府は未だに脱原発依存を決意できず、その具体的な見通しを立てることができずにいます。なぜでしょう。それは、原発に代表される現代文明の在り方を根本から問い直す作業を、これまで日本の政治が怠ってきたからです。

  3.経済性を最優先とすることの「つけ」

1986年4月にチェルノブイリ原発事故がおきてから数年の間、世界中で原子力発電の安全性(危険性!)に関する議論が沸騰しました。実際、スウェーデン、ベルギー、ドイツ、イタリア、アメリカなどエコロジーの先進国では、1980年代から脱原発について具体的な議論がなされ、代替エネルギーの開発など、先進的な政策と事業が積極的に進められました。

日本も、その道を選ぶ選択肢が無かったわけではありません。 日本でも、その頃は脱原発を訴える人が大勢いて、マスメディアを賑わしていました。しかし、80年代末にバブル経済が崩壊して大不況の時代を迎えたことや、地球温暖化対策のために二酸化炭素の排出を抑える必要があったことなどから、政府も地方自治体も国民も、経済性を最優先として、原子力発電を続けることを選択したのです。

原子力発電所が建設された土地は皆、経済力が弱い地方ばかりです。地元の住民は、「原発は安全だ」と言う事業主側の説明を、完全に信じたわけではありません。原発が地元に補助金や雇用などを持ってくるのだから、仕方がない、と目をつぶってしまったのです。

チェルノブイリの事故から25年を経て、とうとうその「つけ」を払わなければならない時が来てしまった。それが昨年3月11日の福島の原発事故だったのです。放射能にはいろいろな種類があるので、その量は単純に比較できませんが、福島第一原発事故放射能放出量の総量はチェルノブイリを上回るようです。

  4.原発は経済的か?

原発は経済的だ(安価だ)」と言う人が未だにいることには、驚かされます。そのような発言をする人たちのコスト計算には、数十年、数百年、数千年、それ以上に続く、放射性廃棄物の処理・管理の費用や、放射能汚染による病人・障がい者の損失と医療費は、入っていないのです。

日本には宇沢弘文という、「外部不経済」について先駆的な研究を行った経済学者がいます。今や古典となった名著『自動車の社会的費用』(岩波書店岩波新書])が著されたのは、1974年です。他にも、公共経済学や環境経済学の分野で優れた研究を行った学者は、日本に多数います。けれども残念ながら、彼らの研究は、日本の政治と行政のトップを担う人たちから、政策的優先性において二次的、三次的なものとしてしか扱われてこなかったのです。

 

 放射能を、人体に影響が無くなるまで長期にわたって、完全に閉じこめる方法はありません。農産物や水産物の摂取によって、人が内部被爆をする恐れがあります。魚介類の場合、生体濃縮によって、被害がより深刻になる恐れもあるのです。これらの甚大な被害は、誰が補償してくれるのでしょうか。これからますます財政が困難になるのに、国や地方自治体にそれを期待できるでしょうか。


  5.原子力の研究者と技術者の必要

私たちは原発との関わりを末永く続けなければなりません。原発の解体や放射性廃棄物の処理・管理をしなければならず、その費用負担の問題があるからです。原発は非常に厄介な物です。原子力関係の政策と事業は、十年、百年、千年の単位で、これからも計画的に進めていかなければなりません。そのためには原子力の研究者と技術者を常に生み出して、確保しなければなりません。

ところが、原子力関係の技術者の国外への流出が、すでに始まっているようです。日本の原子力技術は世界でトップレベルと言われているので、諸外国が日本の技術者を獲得しようと狙っているのです。中国をはじめ、これから原発をどんどん造ろうとしている国はいくつもあります。技術者の引き抜きは、当然かもしれませんが、重大な問題です。

日本では今後、大学や大学院で原子力の研究を志す人が減少するでしょう。原子力の研究者と技術者をどうやって確保するか。これは不可避的な重要課題です。

  6.数字で表せない価値

この世界には、数字で表すことができない価値があり被害がある、ということも考慮する必要があります。経済学的な、あるいは会計学的な計算によって表される数値は、この世界に存在する価値の一部分に過ぎません。 

数値化できないものにこそ高い価値がある、という価値観もあります。たとえば、最近、国王夫妻が来日したブータンは、国内総生産GDP : Gross Domestic Product)が低くても、国民総幸福量(GNH: Gross National Happiness)が高いことで有名です。

ところが、高度に産業化され、市場化された文明社会に生きる私たちは、GDPの数値がすべてであるかのように思い込んでいるのです。そこに生まれるのは、実に心貧しき社会であり、心貧しき生活です。

  7.生命系の経済へ

日本は資源小国だとよく言われますが、本当にそうでしょうか? エコロジーの視点で考えたら、どうなるか。地球は「水の惑星」であり、豊かな生命系の世界を持つ「奇跡の星」です。これが私たちの棲み家(オイコス)です。その「オイコス」に調和して永く暮らす知恵「ロゴス」を探求するのが「エコロジー」です。

20世紀は石油を始めとする鉱物資源をめぐる争いが絶えない時代でした。かつて日本は、米国の対日石油禁輸政策によって、太平洋戦争開戦へと追い込まれました。石油をめぐる争いは、イラク戦争に典型的に見られるように、現在も続いています。

21世紀の世界においては、石油に加えて食糧と水の争奪戦が激しくなっていくでしょう。今や地球の陸地面積の3分の1が砂漠となっており、それがさらに広がりつつあります。人間は石油が無くても生きられますが、食糧と水が無ければ生きられません。生命系の事物と非生命系の事物は、貨幣価値において等価であったとしても、本質的な差異があります。

日本の国土は、豊かな水と土と緑に恵まれています。日本の豊かな森林のほとんどは人の手によって育てられたものであり、原生林はほんの一部分しかありません。森が土と水を保ち、土と水が田畑を潤し、魚を育てます。我々人間は命あるものを造ることはできませんが、守り育てることはできます。

その自然の恵みを「ただ」と思って粗末に扱うならば、私たちは生きる基盤を失うことになります。福島のあの豊かな農業地帯で、暮らすことも、農業をすることもできなくなった人たちは、どれほど深い失望を抱えていることでしょうか。それは他人事ではありません。地震列島・日本のどこででも起こりうることです。

失ってみて初めて、そのありがたみがわかる、ということでは遅すぎます。原発に頼らない社会を構築して、私たちの愛する「ふるさと」の自然と人の営みを守り、子孫に継承していきましょう。