カナイノゾム研究室

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バックストンの信仰と宣教(日本イエス・キリスト教団のルーツ01)

この歴史物語は英国人宣教師バークレー・フォウェル・バックストン(Barclay Fowell Buxton)の話から始まる。

 

バックストンは1860年8月16日英国エセックスのレイトンストーン・ハウスに生まれた。彼の生まれ育った環境については、実姉のエレン・バックストンが書いた『日記』や『スケッチブック』、子息のゴッドフレー・バックストンが書いた伝記『信仰の報酬』に詳しく記されている。

 

バークレーの祖父は国会議員として奴隷解放に尽力し、貴族の称号を得た名士であった。彼の父は実業家であり、バックストン家は広大な敷地に大きな屋敷を構える富豪であった。バックストン家は代々、英国国教会聖公会)に属する敬虔なキリスト者である。

 

バークレーの名は、彼の母がバークレーの出であることから付けられた。バークレー銀行で有名な一族である。その一族はクエーカーであり、バックストン家の屋敷もクエーカーが集まっている地域にあった。

 

バックストンはケンブリッジ大学トリニティカレッジに学び、1882年11月にD.L.ムーディーケンブリッジ伝道によって明確に回心を体験した。ムーディーは19世紀のリバイバル(信仰復興)運動において中心人物として活躍した米国の大伝道者である。

 

1885年にバックストンは英国国教会聖職者に任職され、伝道牧会に携わった。そして、その頃に教派を超えたケズィック・コンベンションの運動に関わるようになり、その影響で海外宣教を志すようになった。

 

そして、1890(明治23)年11月にバックストンは英国国教会宣教会(CMS所属の宣教師として来日した。ただし、経済的にはバックストン家が責任を負っており、教派を超えた同労者を伴って自由に活動することが許されていた。

 

1891(明治24)年4月、バックストンは山陰松江に居を構え、ここを拠点として約10年に及ぶ宣教活動を展開した。彼は日本人信徒に弟子訓練を行い、その弟子たちを指導して、山陰地方各地で「前進運動」と呼ばれる伝道活動を展開した。それによって、次々と各地に「小さき群」が生まれた。

 

また、バックストンは、全国から彼を慕って集まってくる多くの青年たちのために、私塾を開き、生活を共にして教育・訓練を行った。当時の彼の講義は『赤山講話』として出版されている。バックストンは、この弟子たちを様々な教派・教団・グループに紹介して、送り出した。

 

その者たちについては、都田恒太郎の書いた『バックストンとその弟子たち』に詳しく記されている。竹田俊造堀内文一三谷種吉山室軍平笹尾鉄三郎秋山由五郎御牧碩太郎中田重治河辺貞吉など、日本のキリスト教会の指導者となった人物がその中に大勢いる。後には田豊大江邦治などもバックストンに師事した。この集団は「松江バン」と呼ばれる。

 

 

バックストンは、英国の国教会を日本人の回心者に押し付けるのではなく、日本には日本人主体の教会がある方が良い、と考えていたようである。

しかし、彼自身は聖公会松江教会司祭として礼拝式を執り行い、会堂建築など教会の発展に尽力した。バックストンが最初に洗礼を授けた5人のうちのひとり永野武二郎は、聖公会の聖職者となり、松江教会で40年以上も牧師を務めている。

小さき群の多くは、バックストンが松江を去った後、消滅したが、聖公会の松江基督教会と広瀬教会は残っている。 

 

この最初の10年間に、バックストンは日本の各地で教派を超えてさまざまな集会で用いられた。

1902(明治35)年にバックストンは子息の教育のために帰国した。その後は、英国国教会の司祭として終生奉仕したが、帰国後もバックストンは再三、日本を訪れており(1905、1908、1913年)、日本の各地で多くの人々に純粋な「きよめ(holiness)」のメッセージを語った。

彼が語った説教は出版されて、後々まで日本のきよめ(ホーリネス)運動福音派の宣教に大きな影響を与えている。

 

 

ここで、バックストンの信仰の特徴について、まとめておこう。

 

①バックストン家は代々忠実な英国教会の信徒であり、バークレー・バックストンの信仰は聖書的伝統的福音主義プロテスタントの信仰であった。

 

②バックストンの母親はバークレー家の出身であり、その一族はクエーカーである。彼の生まれ育った地域もクエーカーの集まった地であり、これは彼の霊性に影響があったと思われる。

 

③バックストンがケンブリッジ大学において最も感化を受けたのは、ハンドレー・モールウエストコットであった。ハンドレー・モールは福音派の指導者としてケズィック・コンベンションなどで教派を超えて用いられていた。ウエストコットは新約本文の校訂で有名な聖書学者である。

 

④バックストンはムーディーの伝道によって回心しており、リバイバリズムの影響を強く受けている。

 

⑤バックストンが聖職者となって最初に師事したのは、ウェブ・ペプロ-であった。ペプロ-は優れた人格の持ち主であり、ケズィック・コンベンションの講師として毎年、用いられていた。そのため、バックストンもケズィック運動に関わるようになり、そこで聖書的・実際的な聖化と世界宣教について学んだ。

 

⑥ペプロ-及び同労者エルウィン・オリファントの感化によって、バックストンはきよめに対する強い覚醒が与えられた。彼が求め、受けたところのきよめは、ジョン・ウェスレーが説いた心の純潔であり、19世紀ホーリネス運動において強調された「聖霊バプテスマ」であったと思われる。それゆえ、バックストンの説いた「きよめ」の強調点は全的・転機的聖化にあった。

 

⑦ バックストンの説教や講義には、特定の人物や教派に偏向した教理的特徴がほとんど見られない。この時代には、ムーディーやアンドリュー・マーレーなどカルヴィニストも「聖霊バプテスマ」を説いていたのである。バックストンの教えの源泉は、彼自身のみことば体験聖霊体験にあったと言えよう。それゆえに、泉のごとく、バックストンから生ける水があふれ出て、広く豊かに流れていったのである。

 

<付録>

 

英国エスニーのバックストン家の屋敷は現在、ヨーロッパ最大の宣教師訓練学校 All Nations Christian College となっています。

http://www.allnations.ac.uk/index.php?pageid=6