「信仰義認」 ガラテヤ人への手紙2章1~21節
【金言】人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。(ガラテヤ2:16)
1.無割礼の人々に与えられた福音
パウロは回心後3年目(35年)にエルサレムに上り、ペテロ(ケパ)やヤコブ(主イエスの弟)と会談した(1:18-20、使徒9:26-29)。そして回心後14年目(46年)に、彼は再びエルサレムに上り、キリスト教会の指導者であるヤコブ、ペテロ、ヨハネと個人的に会談をした。
主はペテロに「割礼を受けた者(ユダヤ人)への福音」をゆだねられたが、同様に主はパウロに「割礼を受けていない者(異邦人)への福音」をゆだねられた。彼らはこの事実を認めて、パウロを「使徒」として受け入れた。
パウロは、異邦人の救いのために、福音の真理を守る戦いを進めていた。同時に、彼はエルサレムにいる使徒たちを重んじて、キリスト教会の一致に努めたのである。
2.律法の行いに隷従する人々
ところがその後、シリアや小アジアの諸教会に「にせ兄弟たち」が忍び込んで、異邦人キリスト者に割礼を強要した。「割礼を受けてユダヤ教徒となり、律法の規定を遵守しなければ、異邦人は神の民として不適格だ。神に義と認められない。受け入れていただけない」と彼らは教えたのである。彼らにとってキリスト教会は、ユダヤ教の一派でしかなかった。
この割礼派がアンテオケに来ると、使徒ペテロは彼らを恐れて、異邦人キリスト者との共同の食事をやめた。異邦人は律法で禁じられている穢れたものを食べていたからである。アンテオケ教会のリーダーであるバルナバまで、その偽りの行動に引き込まれた。
パウロは、福音の真理がゆがめられて、異邦人が差別され、教会から排除されることに危機を感じ、彼らに抗議した。
3.キリストを信じる信仰による義認
パウロもかつては、パリサイ人として律法の奴隷であった。しかし、彼は「律法によって律法に死んだ」。自らの霊的無力を徹底的に思い知らされたので、律法の行いによって神に義と認められることを断念した。そして、ただイエス・キリストに信頼して、彼のすべてをキリストにゆだねたのである。
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」。
パウロは、神の御子キリストが「私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった」と信じた。その身代わりの死によって、己の罪は完全に赦され、キリストの義が自らのものとされて、神に受け入れていただけるようになった。そのように信じたのである。
彼の内に生きておられるキリストの御霊は、彼を律法の束縛から解放した。それゆえパウロは、「人は、律法の行いによっては、神に義と認められない」、「人はただ、キリスト・イエスを信じる信仰によって、神に義と認められる」という福音を死守し、宣証したのである。
今日でも、偽物の教師や信徒が教会に忍び込んで、多くの信徒を惑わし、連れ去っていくことがある。偽物は、「私たちが救われるためには、キリストの十字架だけでは不十分だ」と教える。
しかし、本物の福音は「聖書のみ」、「恵みのみ」、「信仰のみ」である。私たちは福音の真理をしっかりと守らなければならない。そうすれば、福音の真理が私たちを守る。
キリストにある自由を喜び、十字架の福音に生きよ!