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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

キリスト者の聖潔について(マルティン・ルターの著作より)

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  わたしたちの主であり師であるイエス・キリストが、「悔い改めよ……」[マタイ4・17]と言われたとき、彼は信ずる者の全生涯が悔い改めであることを欲したもうたのである。

(ルター『贖宥の効力を明らかにするための討論』提題一、)

 
 この悔い改めは、キリスト者において、死に至るまで継続する。なぜなら、彼らは肉にとどまっている罪と生涯戦うからである。それは、聖パウロがローマ人への手紙第7章[23節以下]に、彼はその肢体の律法と戦うと証言しているとおりである。そしてこの戦いは、自分自身の力によってではなく、罪のゆるしに続いてくる聖霊の賜物によってなされる。この賜物は、残っている罪を日ごとにきよめ、人をほんとうに純粋で聖なる者にするのである。
(ルター「シュマルカルデン条項」第3部 教皇派の偽りの悔い改めについて)
 
 パウロは、キリストがこられて、時が成就することに言及している。しかし、あなたはこれを時に適応するだけでなく、心にも適応するがよい。なぜなら、キリストがこられて、歴史的に、時間的に起こったこと、すなわち、律法を廃し、自由と永遠のいのちを光のもとにもたらしてくださったことは、どのキリスト者においても、ひとりひとりに霊的に毎日起こることである。キリスト者においては律法の時と恵みの時がくり返し、交互に到来するものである
(ルター「ガラテヤ大講解・下」『著作集第二集第12巻』75頁)
 
 このようにキリストは信仰によって私たちのうちにいまし、確かに私たちと一つになりたもうからである。そしてキリストは義なるかたであり、また、神のすべての戒めを満たしたもうかたである。それゆえに信仰によって《キリストが》私たちのものにされるかぎり、私たちもキリストによってすべての戒めを満たすのである。
(ルター『ハイデルベルク討論』命題26の証明)
 
 なぜなら、キリストが私たちの中に信仰によって住みたもうやいなや、彼は彼のみわざに対する、かの生ける信仰によって、私たちをわざへと動かしたもうからである。それゆえ彼自らなしたもうみわざというのは、私たちに与えられた神の戒めを信仰によって満たすことであり、私たちが注意深くみると、私たちはキリストのわざにならおうとするようになる
(同上 命題27の証明) 
 
第九、見よ、これが第一戒の行いである。そこでは「あなたは他の神々を持ってはならない」と命ぜられている。それは「私だけが神なのだから、あなたは私だけにあなたの全信頼と誠実と信仰とをおくべきであって、ほかのなにものの上にもおいてはいけない」と言われるのに等しい。(中略)この信仰と誠実、心の底からのこの信頼、これこそ第一戒を真実に満たすところのものである。これを欠いては、第一戒を満たしうるいかなる行いもほかにはない。この戒めが第一の最大最善のものであって、この戒めから他のすべての戒めが流れ出て、その中を流れ、これに従って整えられ、はかられるのと同じように、その行い(すなわち神の恵みに対する常住不断の信仰と信頼)も第一の最大最善のものであり、他のいっさいの行いはそれから流れ出て、その中を行きその中にとどまり、またそれに従って整えられ、はかられねばならないのである。
(中略)
第十一、このように義が信仰に基づくものであるならば、信仰だけがすべての戒めを満たし、すべての戒めの行いを義とすることは明らかである。なぜならば、神のすべての戒めを行うのでないならば、何びとも義とはなりえないからである。反対に信仰がなければ、いかなる行いも神の前に人を義とすることはできない。
(ルター『善い行いについて』)
 
 神の霊こそが人間を律法と等しくし、人間が心から律法を好み、これからは恐れや強制からではなく、自由な心からすべてを行うようにしてくださるのである。このように律法は霊的であり、霊的な心をもって愛され、成就されることを欲するのであり、そのような霊を求めるのである。

 律法を成就するとは、あたかも律法や罰などないかのごとくに、喜んで愛をもって律法の行いをなし、律法の強制なしに自由に神のみこころに適うよい生き方をすることである。だが、自由な愛のこのような思いは、聖霊が心の中に与えてくださるものである。(中略)だが聖霊……イエス・キリストを信じる信仰において、その信仰とともに、その信仰をとおしてのみしか与えられない。そしてキリストが神の子であって人であり、私たちのために死んで復活したというようにキリストを説教する、神のことば、すなわち福音のみによるのでなければ、信仰はないのである。(中略)
 ここからして、信仰のみが義とし、律法を充たすこととなる。なぜなら、信仰のみがキリストの功績による霊をもたらすが、この霊が、律法が要求しているようなことを喜んで行う自由な心を造るからである。
 
 しかし恵みは、私たちが律法を愛するようにする。こうしてそこには罪がもはやなくなり、律法はもはや私たちに逆らわなくなり、私たちと一つになる
 これこそ罪と律法からの真の自由であって、これについて彼はこの章の終わりまで書いて、これこそ律法の強制なしに、意欲と正しい生活とをもって、よいことのみを行う自由であると教える。それゆえこの自由は霊的な自由であり、律法を廃棄することなく、律法によって要求されていることを意欲とをもって起こすものにほかならない。
(ルター『ローマ人への手紙序文』)