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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

「現代のパウロ解釈を考える」(福音主義神学会 西部部会 秋季研究会議 の感想)

先日、2012年11月19日(月)に、日本福音主義神学会 西部部会 秋季研究会議が、神戸神学館で行われました。


今回のメインテーマは「現代のパウロ解釈を考える」というもので、New Perspective on Paul (以下、NPPと略す)を積極的に評価する見地から鎌野直人師(日本イエス・キリスト教団神学教師、関西聖書神学校学監)が、批判的な見地から遠藤克則師改革長老教会北鈴蘭台教会牧師、神戸神学館教師)が、それぞれ発題講演を行いました。

講演のレジュメはWEBで入手できます。
http://www.evangelical-theology.jp/jets-hp/jets_west/20121119_jets-w_NPP_all.pdf

  ■なぜかNPPに接触している。。。

私が、ジェイムズ・D・G・ダン(James D. G. Dunn)著、山田耕太訳『新約学の新しい視点』 すぐ書房(1986年)を入手して読んだのは大学生の頃でしたから、もう20年以上前になります。山田耕太氏は、直接お目にかかったことはないのですが、千葉大学キリスト者の会の先輩として存じ上げておりました。

 

E. P. サンダース(E. P. Sanders)著、土岐健治・太田修司訳『パウロ』教文館(1994年)を入手して読んだのは、関西聖書神学校で学んでいた頃ですから、 14年ほど前です。

近年、アメリカで N. T. ライト(Nicholas Thomas Wright)が注目されていて、日本でもFacebookに読書会のグループがあるということで、最近、私も加えていただきました。
How God Became King 読書会」
https://www.facebook.com/groups/288504731222965/ 

 
というわけで、私もNPPと無縁ではなかったのですが、この20年余りの動きを把握しておらず、「えっ、まだ続いていたの? 今頃盛り上がっているの?」という感じでした。

今回の発題講演で、まず、鎌野直人師が、サンダース、ダン、ライト、この3人の巨人の業績を、短くよくまとめて紹介してくださったので、概略がわかり、ありがたかったです。

 

では、以下、私の感想をメモします。

 

  ■解釈原理を問い直す

 

ルターを始め宗教改革たちは、ローマ教皇・ローマ教会の聖書解釈と神学的枠組み(教義)の絶対化を根本的に批判しました。

 

ルター派や改革派は、自分たちの信条信仰告白カテキズムを、絶対的な、無謬のものであるとは考えていません。それらは、ルターやカルヴァンなどの聖書釈義を基礎にして、特定の時代状況を背景として生まれた、歴史的な文書ですから、当然、限界はあります。

 

ただし、教理的な枠組みを持たずに聖書解釈ができるか、といえば、それは誰にもできません。信条や信仰告白・カテキズム、その他の歴史的な信仰的・神学的文書は、聖書を解釈するための「解釈原理」として機能しているわけです。

 

「我々は信条主義ではなく聖書主義だ」と言う人たちとて、プロテスタンティズムの影響をもちろん受けています。その伝統を無視して、我々は紀元1世紀の世界にすっ飛んで、聖書を正しく解釈しているんだ、とは言えないわけです。

 

そのようなわけで、NPPなどによって我々の解釈原理を問い直すことはプロテスタントとしても有意義なことですし、今回、鎌野直人先生が聖書学の視点から、遠藤克則先生が教義学の視点から、サンダース、ダン、ライトについて批評したのは有意義だったと思います。

 

  ■あれもこれも

 

今回の西部部会の講演で、遠藤克則先生が、「あれかこれか」でなくて「あれもこれも」ではないか、という主張をしておられたのが、大変興味深いことでした。

 

自然科学系の人や哲学・論理学系の人には「あれかこれか」の方がすっきりして良いかもしれませんが、人文科学系や社会科学系の世界では、「あれもこれも」ということが、いくらでもあります。

 

整合性がとられていない、矛盾がある。けれども、それが真実である、真理である、ということが有り得る。「あれかこれか」でなく「あれもこれも」という二律背反の真理もある。「あれかこれか」に単純化すると、嘘っぽくなってしまう。

 

聖書や神学が、生きている人間ソサイエティーあるいはコミュニティーを扱っている以上、こういう面があることも認められてよいのではないでしょうか。特に、パウロやルターには、強引だなあ! これって矛盾していないか? と思われる論述の展開が散見するので、この指摘は重要だと思います。 

 

  ■聖書解釈における環境、世界観、目的意識の影響

 

遠藤先生は改革長老系の視点から批評をなされましたが、私はルター神学の視点ではどうなるのか(私の立場はルーテル教会ではありませんが)、ちょっとコメントをさせていただきます。

 

聖書解釈教義の組織化の作業においても、その人の生きている環境世界観目的意識が少なからず影響するのではないでしょうか。中立性を保つというのは難しい。バランスを欠いた、突出した主張が前面に出て来る。それが良いとか悪いとかいうのではなくて、聖書学や神学には、そういう生きものとしての性質が、そもそもあると思うのです。

 

たとえば、ガラテヤ書を書いた時のパウロの関心事危機感目的意識は、「異邦人キリスト者に開かれた救いの道を閉ざしてはいけない。ユダヤキリスト者は、同じ一つの神の民=教会のメンバーとして、異邦人キリスト者をそのままで受け入れるべきだ」ということにあったと思われます(私見では、これはエルサレム会議の少し前)。その目的を達するために、信仰義認論が強調され、割礼や律法の行いの否定が突出しているわけです。

 

  ■ルターの関心・目的意識 

 

私見によれば、実は、ルターにもこれに似た側面があります! 

 

ルターは「罪の赦し=神の怒りから逃れる方法」に関心があって、「信仰による義」「虚構的な転嫁された義」の発見によって、解決を得た。しかし、それはパウロの関心事では無かったーーというのが、サンダースの主張です。しかし、それは正しくない。この点に関して、サンダースはパウロやルターを全く誤解している、と私は思います。

 

ルターが個人的に「信仰義認」の経験をしたのは事実です。けれども、彼が「信仰義認」を掲げて闘ったのは、ローマ教会のシステムでは人々が救われないからです。ルターの関心・目的意識は、人々の実質的な救済にあったのです。

 

ルターは、ローマ教会のサクラメントから洗礼聖餐の二つを受け継ぎました。そして、二種陪餐(信徒もぶどう酒に与ること)を行いました。彼はこれらのしるしには実質的な恩恵が伴うと考えていたからです。" True Presence brings True Grace. "  

説教は語られる神の言葉であり、聖餐は食される神の言葉です。その御言葉の基本原理は「律法と福音」です。教会における、その御言葉の提供と受領こそ、神の民アイデンティティーを確かに示すしるしであり、神の民を他と分けるしるしです。そして、同時に、その御言葉が人々に信仰を与え、義認罪の赦し新生永遠の命を与えるのです。洗礼は義認と新生を与える一度限りの儀礼ですが、その恩恵は、説教と聖餐を核とする礼拝において更新され続けます。

 

このようなルター的な救済論礼典論教会論の枠組み=システムは、パウロの神学にかなり近似したものだと思うのですが。。。

 

大胆なことを言っていると思われるかもしれませんが、ルター派神学者の方々も、これに近いことを示唆しておられるように、私は思ったのです、門外漢ながら (^^;) 

  

  ■帰納法演繹法

 

今回の研究会議は、議論を深めるには全然時間が足りない! って感じでしたが、入り口が設定されただけでも、良かったのかな。両先生とコーディネーターの方々に感謝!!

 

こういう議論によって帰納法(聖書学)と演繹法(教義学)を繰り返しながら、検証を重ねて、真理に近づいていくのかな、っと(^^) その道程が教理史とか思想史ってことでしょうか。そういう意味では、NPPも歴史の産物として批判にさらされるのは当然でしょうね。

 

  ■共に聖書・キリスト教を学ぶことの必要性・有用性

 

青・黄・赤の絵の具を混ぜると、黒になります(原理的には)。しかし、をプリズムで分けると、青も黄も赤もあります。

 

人間は誰でも、多かれ少なかれ色付きのメガネをかけているんじゃないでしょうか。その色は多様ですが、光の子ら一致協力するときに、透き通った目で真実を見ることができるのではないか、と思います v(^^)v