KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

「主の祈り」について

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(メモ程度の譜面で、すみません)


  1.この曲を作った事情


私が関西聖書神学校を卒業して最初に赴任した、日本イエス・キリスト教団幌向小羊教会は、主日礼拝で『新共同訳聖書』と『讃美歌21』 を使用していました。

その教会の礼拝の中で「主の祈り」を口語文で読むのですが、なかなか正確に覚えられませんでした。文語訳が頭に染み付いているものですから。

そこで、「歌にしたら覚えられるだろう」と考え、この曲を作った次第です(2001年7月)。

その教会と次に赴任した教会では、礼拝でこの歌を使いました。

 

この曲を作るにあたって心がけたことは、以下の点です。

・歌詞が原文に忠実であること

・現代の日本人に意味がわかる口語体であること

・礼拝における祈りにふさわしい、落ち着いた曲調であること

・覚えやすく、歌いやすいメロディーであること

・聴く人に日本語の意味が伝わりやすいメロディーであること

(現代人の感覚としては、これよりも一語一語をもっと短い音でまとめた方が良いかと、思います。キーはA調以上に上げた方が歌いやすいかもしれません)

 

 ■金井望私訳(2001年)

 

天におられる私たちの父よ

あなたの御名が崇められますように

あなたの御国が来ますように

あなたの御心が行われますように 天上のように地上でも

私たちに必要な糧を今日この日にも与えてください

赦してください、私たちの罪を

私たちも罪人を赦しました

誘惑から守り、悪から救ってください

国と力と栄えは永久(とわ)にあなたのものです

アーメン

 

  2.既存の「主の祈り」の歌詞の問題


「主の祈り」と題する歌は世に多数ありますが、原文(マタイによる福音書6:9〜13、ルカによる福音書11:2〜4)の意味を正確に反映していない歌詞も見かけます。たとえば、『新聖歌』54番(教文館、2001年)です。

私がオリジナル曲を作ったのは、それに対する批判の意味もあります。

 

■新聖歌54番

 

天にいますわが父よ

み名をたたえます

み国をこの地に来らせたまえや

日ごとの糧を与え

われらの罪を赦したまえ

試みにあわせず悪より救い出し

国と力、栄えはとこしえに主にあり

アーメン

国と力、栄えはとこしえに主にあり

アーメン

 

この歌詞は文語と口語が混ざっていますが、以下、誤訳または不十分な訳と思われる語句を挙げて、口語で直訳を書きます。

 

(誤)「わが父よ」

(正)「私たちの父よ」

 

(誤)「み名をたたえます」

(正)「み名が崇められますように」または「み名が聖別されますように」

 

(誤)「み国をこの地に来らせたまえや」 

(正)「み国が来ますように 

    ご意志が行われますように 天におけるごとく地上でも」

 

(誤)「日ごとの糧を与え」

(正)「私たちの日ごとのパンを 今日も私たちに与えてください」

 

(誤)「われらの罪を赦したまえ」

(正)「私たちの負債(罪)を赦してください

    私たちが、私たちに負債のある人(罪を犯した人)を赦したように」

 

これほど欠落し、変質した歌を礼拝で使用することに、筆者は強く疑問を感じます。

 

  3.「主の祈り」の特殊性

 

「主の祈り」には6つの祈願があります。そのいずれも古代ユダヤ教の祈祷文に見られるものであり、ことさらに新しいものではありません。しかし、この祈祷文を教えた教師が特別です。そして、「天におられる私たちの父よ」という、この祈祷文の最初の呼びかけに特別な意味があり、それによって、6つの祈願も新しい意義を持つようになっています。

 

神が「父」であるという思想は、旧約聖書にも見られるものです。しかし、イエスのように、神に「アッバ」(お父さん)と親しく呼びかけた者は誰もいません。イエスはご自分が「神の独り息子」であると主張したため、ユダヤ人から「神を冒涜している」と非難され、攻撃されました。

 

それでも、イエスとその弟子たちは、神を「天のお父様」と呼んで、親しく近づき、祈るようにと教えたのです。その霊的な交わりこそキリスト教信仰の核心です。

「主の祈り」のはじめの3つの祈願は、人間が主語ではありません。まず、真の神【主】の御名が尊ばれ、御国が実現され、御心が成ることを求めるのです。それも、この世において! 私たちがまず神の国と神の義を求めるなら、すべての必要は神が豊かに供給してくださいます。

 

  4.私たちが御名を崇めるのか?

 

従来の文語文の「主の祈り」では、礼拝において会衆が「願わくは御名を崇めさせたまえ」と言うとき、その主語は何だと理解されているでしょうか?

主体は自分たちで、「私たちが神を礼拝できるようにしてください」という意味だと思っている人が多いのではないでしょうか?
日本のプロテスタントでは主日礼拝の始めの方で「主の祈り」を唱える教会が多いため、特にそのような理解になりやすいようです。

ここに文語の伝達力の限界と現代人の古文理解力の限界を見ます。

 

原文ではマタイもルカも、「オノマ(名)」が主格になっています。これが「ハギアゾー(聖別する)」の命令法アオリスト受動態にかかっています。よって、直訳すれば、「あなたの御名が聖別されますように」となります。これはどういう意味でしょうか?

これは、イエスの時代と初代教会の時代(紀元1世紀)に、ローマ帝国支配下において、創造主であり、唯一の真の神である【主】(YHWHヤハウェ)の御名が、尊ばれず、汚されていた、という歴史的事情が背景としてあります。

選民イスラエルは、民族の始祖アブラハムの時代から2000年にわたって、何度も【主】を裏切って、オリエント世界の様々な偶像を崇拝して、【主】の怒りを招き、亡国の憂き目を味わいました。
紀元前6世紀後半から前5世紀中葉にかけて、バビロン捕囚から帰還するにあたって、祭司エズラを始めとする指導者たちは、偶像崇拝からの徹底した聖別をユダヤ人に要求し、宗教改革を断行しました。

その後、覇権はペルシアからマケドニアギリシアに移りました。セレウコス朝シリアの王、アンティオコス4世エピファネス(在位:紀元前175年 - 紀元前163年)の悪名はよく知られています。彼はエルサレム神殿を破壊し、穢しました。

そして、イエスの時代に、ローマ帝国は皇帝を神として崇拝するように、ユダヤ人に対して強力な圧力をかけたのです。

 

文法的、文学的、歴史的、神学的な考察を総合すると、この一文は次のような意味であると思われます。

 

「真の神を恐れず、偶像を崇拝して、主の名を汚す人々に満ちているこの世にあって、主の名が他の一切のものから区別され、至高のものとして人々から尊ばれるようにしてください」

 

そこで、筆者の訳文では「あなたの御名が」として、主語を明確にしました。

  

  5.「あなたの御名」は適切な表現か

 

「あなたの御名」、「あなたの御国」、「あなたの御心」という表現は適切かどうか。この問題について、筆者は考え、悩みました。「御」に「あなた」の意味があるではないか、と。
筆者は二重表現を好みません。たとえば、「第七日目」というのは口説いではないか、「第七日」あるいは「七日目」で良いのではないか、と思います(『新改訳聖書』創世記2:1)。

 

ところが、注意して観察すると、現代の日本社会では「あなたの御名」といった形の使用が一般的になっているのです。

なぜか? おそらく、敬語には「御」を付ける、というパターンでしか理解していない日本人が増えたからでしょう。

 

筆者は3年ほど前に、日本語教師の資格を取得するために、専門のコースで勉強して、外国人相手の実習をしました。そうすると、ハタと気が付いたのです。やっぱり自分も「あなたのお名前」と言ってしまうし、そう教えてしまう、と。

 

たとえば、他人に名前を尋ねる場合、どのように言うのが一般的でしょうか。

 

(1)「お名前は?」

 

これだと、素っ気なくて、相手は失礼と感じるかもしれません。

親しい間柄ならば、これくらい簡単でも問題ありませんが、親しいのに名前を知らないというのは変です。

そこに同伴した第三者(人あるいはペットなど)がいる場合、その第三者の名前を尋ねたのかと勘違いする可能性もあります。

 

(2)「あなたのお名前は何ですか」

 

場面が日本語学校のクラス、自分が日本語教師で、相手が外国人の日本語学習者である場合。

やはりこう尋ねるのが自然ではないでしょうか。ゼスチャーによって相手を特定することもできますが、「あなたの」と入れる方が通じやすいようです。

このようなコミュニケーションが日本人の間でも一般化しているのではないでしょうか。

「あなたの名前は何ですか」というのは、失礼な感じがします。

「お名前を教えていただけるでしょうか」というのが良いと思いますが、実際にはこのように言う人は少ないようです。

 

新改訳聖書と新共同訳聖書では「御名」と「あなたの御名」両方の形があります。

(例)詩編8:1、10

「あなたの名」口語訳、フランシスコ会

「あなたの御名」新改訳、新共同訳

 

以上の事情を考慮すると、口語文・現代文としては「あなたの御名」が良いかと思われます。

 

  6.全世界のキリスト者を結ぶ公同の祈り

 

筆者がこの口語文の曲を作ったのは、文語文がわからない若者や子どもにも、「主の祈り」を理解して、祈ってもらうためです。

祈祷文は実際に用いられることが重要です。そして、祈る人に意味が理解されていることが重要です。

それゆえ、現代の讃美歌集・聖歌集には、文語文と口語文、両方の「主の祈り」があると良いでしょう。「使徒信条」も同様です。

ただし、「使徒信条」と「主の祈り」の和訳文が、宗派・教派・グループによって異なるのは、大きな問題です。

 

使徒信条」は最も古い歴史を持つ信条ですし、西方教会ローマ・カトリック教会聖公会プロテスタント教会)では正統的キリスト教信仰のしるしとも言えるものです。「公同の教会」を告白する「使徒信条」の和訳文が、分裂のしるしの如く異なっているのは、異常です。

 

使徒信条」の原型である「ローマ信条」は、古代教会において、洗礼志願者を教育するカテキズムとして用いられたものです。それゆえ主語は一人称単数「我」、「私」で良いのです。「我信ず」、「私は信じます」。

 

これに対して、「主の祈り」は、教会の公同性を表す「我らの」祈り、「私たちの」祈りです。「主の祈り」は、東方正教会ギリシア正教会、ハリストス正教会、他)でも西方教会でも、全キリスト者が共に祈ることのできる、唯一の祈祷文です! これの和訳文にも統一性が必要です。

 

  7.神の国を生きる祈り

 

神を「我らの父」と告白することによって、全世界のキリスト者は、自分たちが一つの「神の家族」であり、お互いに兄弟姉妹であることが確認されます。

人類を神と和解させることによって、全世界の人々が、あらゆる障壁を打ち破って和解し、共にキリストの体なる教会を建て上げていく。これこそ、神が、御子イエス・キリストによって成就された「福音」の目的であり、目標なのです。

マタイもルカも、経済倫理を説く一連の教えの中に、「主の祈り」のテキストを置いています。「私たちに必要な糧を、今日この日にも与えてください」。こう祈る時、その「私たち」に、どれくらいの広がりを考え、感じているでしょうか?

 

もし、信条や祈祷文における一致の重要性がわからない聖職者・教職者・信徒が多いのであれば、それこそ憂慮すべき状態です。

祈祷書や式文、カテキズム、讃美歌集・聖歌集を作成する時には、ぜひともこの問題を良く考えていただきたく願います!!

 

 

プロテスタント1880年)『讃美歌』564番(1954年改訂版)

 

天にまします我らの父よ。
ねがわくは御名〔みな〕をあがめさせたまえ。
御国〔みくに〕を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、
地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧〔かて〕を、今日〔きょう〕も与えたまえ。
我らに罪をおかす者を、我らがゆるすごとく、
我らの罪をもゆるしたまえ。
我らをこころみにあわせず、
悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、
限りなくなんじのものなればなり。
アーメン。

 


日本聖公会ローマ・カトリック教会共通口語訳

天におられるわたしたちの父よ、

み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、

悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。

アーメン

 

※この共通口語訳「主の祈り」は、2000年2月15日からの使用が許可されています。

【参照】http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/prayers/00lordpr.htm

 

 

日本キリスト教協議会統一訳

 

天の父よ

み名があがめられますように。

み国がきますように。

みこころが天で行われるように、地上でも行われますように。

わたしたちに今日も この日のかてをお与えください。

わたしたちに罪を犯したものを ゆるしましたから、

わたしたちの犯した罪を おゆるし下さい。

わたしたちを誘惑から導き出して 悪からお救いください。

み国も力も栄光も とこしえにあなたのものだからです。

アーメン。

 

 

日本正教会「天主経」

天〔てん〕に在〔いま〕す我等[われら〕の父〔ちち〕よ。
願〔ねが〕はくは爾〔なんぢ〕の名〔な〕は聖〔せい〕とせられ。
爾〔なんぢ〕の國〔くに〕は來〔きた〕り。
爾〔なんぢ〕の旨〔むね〕は天〔てん〕に行〔おこな〕はるるが如〔ごと〕く、
地〔ち〕にも行〔おこな〕はれん。
我〔わ〕が日用〔にちよう〕の糧〔かて〕を

今日〔こんにち〕我等〔われら〕に與〔あた〕へ給〔たま〕へ。
我等〔われら〕に債〔おひめ〕ある者〔もの〕を

我等〔われら〕免〔ゆる〕すが如〔ごと〕く、
我等〔われら〕の債〔おひめ〕を免〔ゆるし〕給〔たま〕へ。
我等〔われら〕を誘〔いざなひ〕に導〔みちび〕かず、
猶〔なほ〕我等〔われら〕を凶惡〔きょうあく〕より救〔すく〕ひ給〔たま〕へ。
蓋〔けだし〕國〔くに〕と權能〔けんのう〕と光榮〔こうえい〕は

爾〔なんぢ〕父と子と聖神に歸〔き〕す、
今〔いま〕も何時〔いつも〕世々〔よよ〕に。
「アミン」。