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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

日本伝道隊の活動と神学校教育(日本イエス・キリスト教団のルーツ05)

歴史 日本イエス・キリスト教団 日本キリスト教史 宣教 教育 聖化 アジア太平洋戦争 松江バンド バックストン 日本伝道論

  1.日本伝道隊の設立

 

1903(明治36)年に、バークレー. F. バックストンは、パゼット・ウィルクスらと共に英国で、超教派伝道団体「日本ワン・バイ・ワン・ミッション」を結成した。その発端はケズイック・コンベンションにおいて持たれた、一つの小さな集会であった。

バックストンは自らミッションの総理となって、英国内外で支援者を集め、強力に日本での宣教活動を支援した。各地で定期的に持たれる、支援者の祈り会(Prayer Circle)が、このミッションの特徴であった。ウィルクスは駐日主幹として現地で宣教師や日本人教役者を指導した。

 

ミッションは1904(明治37)年に名称を「日本伝道隊」(Japan Evangelistic Band)と改めた。日本伝道隊は初め横浜、東京を中心に活動したが、関東ではすでにホーリネス教会が盛んに伝道していたため、1905(明治38)年9月に本部を神戸に移した。

 

  2.日本伝道隊の宣教活動

 

日本伝道隊の活動は、①未伝地伝道 ②聖書学校 ③聖会開催を柱とした。

 

伝道隊の初期の活動については、日本伝道隊編『わが霊によるなり(日本伝道隊百年史)』、パゼット・ウィルクス著『パゼット・ウィルクスの日本伝道日記』、『神の絶大な力(日本伝道隊史話)』、E.W.ゴズデン著『燃える心の使徒 パゼット・ウィルクス』に詳しく記されている。

 

ウィルクスは極めて優れた救霊者として知られる。彼は個人伝道を絶えず行い、毎週、誰かが彼を通してキリストの救いに与っていたといわれる。ウィルクスの著書『救霊の動力』には、彼の日本における伝道の研究と実践の成果が凝縮している。この書は多くの国の言葉に翻訳されて、宣教の教科書として用いられてきた。

 

1905(明治38)年11月に日本伝道隊は、継続した伝道拠点として、神戸の多聞通りに伝道館を開設した。大正4年(一九一五年)に開館した湊川伝道館では、最初の半年間で85名の受洗者が与えられた(『日本伝道隊百年史』49〜50頁)。大正13年には湊川伝道館で60名以上の受洗者が与えられ、筆者の祖父・濱口龍太郎もその一人であった(大正13年11月23日)。昭和5年には、湊川伝道館で100名以上の受洗者が与えられた。

 

  3.日本伝道隊の伝道者養成

 

日本伝道隊の聖書学校の働きは、1907(明治40)年10月に神戸市平野に開設した日本伝道隊神戸聖書学校に始まった。校長はバックストンの高弟、竹田俊造であった。ここで、沢村五郎、佐藤邦之助、小島伊助、柘植不知人、舟喜麟一、野畑新兵衛、由木康、佐野茂理治らが学んだ。


その後、1924(大正13)年9月に神戸市御影で、沢村五郎を校長として御影聖書学舎を改めて開設。安藤喜市、安藤仲市、坂本勝重らがここで学んだ。


1926(昭和元)年には、丹波柏原にあったソーントン宣教師(Jessie B. Thornton)の日本自立聖書義塾がこれに合流した。藤村勇、木田愛信、藤田昌直、岸本頌三、鎌野良作、中島彰はソーントン師の薫陶を受けた教役者である。ソーントンが義塾で行っていたピーナッツ・バター製造事業は、ソントン食品工業株式会社が引き継いでいる。
(参考)http://www.sonton.co.jp/secret/origin.html


更に、1930(昭和5)年9月に神戸市垂水区塩屋町に移転して塩屋聖書学舎となった。本田弘慈、長島幸雄、松原和人らはこの時代に学んだ。

 

  4.宣教の拡大と教会形成

 

1920年 から 1935年にかけて日本伝道隊が展開した「前進運動」によって、近畿地方を中心に100以上の教会が誕生している。ただし、日本伝道隊は教会を持たない方針であったため、誕生した教会は様々な教派・教団・グループに属することとなった。

 

柘植不知人、藤村勇らは、東京を中心に全国で「基督伝道隊」(通称「活水の群れ」)として宣教活動を展開した。

バーネット宣教師と舟喜麟一は群馬県を中心に「中央日本開拓伝道団」の活動を展開した。これは現在、日本福音伝道教団となっている。

 

神戸では、竹田俊造が「復興教会」を起こし、堀内文一らは「日本聖書教会」を結成した。岡山では、佐藤邦之助らが「イエス・キリスト召団」を結成した。そして、1935年(昭和10年)に日本聖書教会とイエス・キリスト召団は合流して「日本イエス・キリスト教会」となった。これが、日本イエス・キリスト教団の直接のルーツである。

 

太平洋戦争中は日本伝道隊の宣教師は皆、日本を離れており、聖書学舎は一時、関西学院に合併され、更に東京に全部が合併となった。また、教会や教職者は皆、日本基督教団に合同させられていた。

 

  5.戦後の再出発

 

終戦後、1946(昭和21)年4月に塩屋の学校では、中央神学校の校長であった今村好太郎が校長となり、沢村五郎が教頭となって神戸神学塾という名称で再出発した。1948(昭和23)年4月には沢村五郎が校長となって、神戸神学院と改称した。

 

4年間続いたこの神学校は、アメリカ系の長老派と英国系のきよめ派が一つになったものである。宗教改革プロテスタントの正統主義神学と教会論を基盤として、きよめ派の霊的・実践的な教育訓練・伝道者養成を行う。これが、この時期に沢村五郎のめざした神学校教育であったと思われる。

 

教師陣は、日本基督教会系から今村好太郎、長谷川計太郎、吉野丈夫、青木澄十郎らが立てられ、日本伝道隊系から沢村五郎、小島伊助らが立てられた。小山恒雄、鈴木一郎らがここに学んだ。
(参考:鈴木一郎『キリストの愛を知って』いのちのことば社、p28)

 

一方、本田弘慈はウェスレアンの信仰に立った伝道者養成を求めて、1948(昭和23)年4月に神戸福音伝道館(現・湊川伝道館)において「日本聖書学校」を開設した。船田武雄、金田清枝らがここに学んだ。

 

  6.神学校の発展

 

まもなく日本伝道隊は再建され、1949(昭和24)年9月に再び塩屋の神学校を日本伝道隊が経営することとなり、ウィリアムズが校長となった。

 

1950(昭和25)年3月に神戸神学院は1期生と2期生を卒業させて、4月からは分かれて日本基督教会・住吉教会に移った(後に、東京の日本基督教会神学校に合流)。
(参考 http://www.sumiyoshi-church.org/?page_id=37

 

そして、塩屋では同年4月から沢村五郎が校長となり「関西聖書学校」(Kansai Bible School)として再出発することとなった。

 

「日本聖書学校」は「関西聖書学校」の開校時に合流したが、同年9月に本田弘慈は神戸中央教会において「ステパノ神学院」を開設し、仁科博雄、明石正勝、藤田王夫らがここに学んだ。

 

1957(昭和32)年9月に「関西聖書学校」は「関西聖書神学校」(Kansai Bible College)と改称・発展し、1958(昭和33)年4月に「ステパノ神学院」もこれに合流して現在にいたっている。

 

  7.日本伝道隊と日本イエス・キリスト教団による共同経営

 

関西聖書神学校は超教派神学校であるが、1990年から日本伝道隊と日本イエス・キリスト教団の共同経営となって、関西聖書神学校理事会によって運営がなされている。

 

理事会は1996年4月から、日本伝道隊、日本イエス・キリスト教団、世界福音伝道団、日本福音教会連合、関西聖書神学校後援会からそれぞれ選ばれた理事によって構成されるようになった。

 

このように、様々な変遷を経てはいるが、日本伝道隊の神学校は、一貫してバックストンが伝えた「きよめ」の信仰に立つ教育訓練を行い、これまでに1000人以上の教職者を養成している。

 


  <参考>

 

Wikipedia 「日本伝道隊」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BC%9D%E9%81%93%E9%9A%8A

 

バックストンとウィルクスの著作集・説教集・講義録
http://sacellum-chimistae.org/

 

日本イエス・キリスト教団

http://jccj.info/history.php

 

関西聖書神学校 Kansai Bible College

http://kbc-bw.sakura.ne.jp/Kansai_Bible_College/li_shi.html

 

JCL(ジャパン・クリスチャン・リンク)

http://www.jclglobal.org/japanese/

 

AIM25 "Japan Evangelistic Band (Japan Christian Link)"

http://www.aim25.ac.uk/cgi-bin/search2?coll_id=5953&inst_id=19