読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

自分らしく神に従う(ルター「聖ヨハネ祭の福音書」説教・要約)

マルティン・ルター 説教 礼拝説教 社会倫理 聖書 信仰 教会 家族 キリスト教倫理 キリスト 労働 牧会 人生論 律法 福音

ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:21-22)


キリストがすぐに一人で従ってきなさいと命じたとき、ペトロは振り返り、他の人を見て、イエスが愛していた者がどこへ行くのか、大変気になっていた。

同じように、これらの人たちも、彼らに命じられていることを中止して、神が愛している他の人たちの振る舞いや行動を見つめるのである。これらの人たちとは、いわゆるかの聖なる人たちである。

それゆえキリストは、ペトロを厳しくたしなめ、「どこへ行こうと、あなたには何のかかわりがあるか。わたしに従いなさい。わたしに彼と係わらせなさい」と言ったのである。


見よ、同じように、自分たちに命ぜられたこと以外に、さまざまなことを行う、多くの人々がいる。ある聖徒たちは、巡礼に出かけ、それによって称賛される。

愚か者は同じように出かけ、神から彼に委ねられた妻子を捨てて、聖ヤコブの巡礼地に、あるいは、あちこちに出かけ、自分の召命と命令が、彼が従った聖人のそれとはまったく異なることに気がつかない。

同様のことを、この愚か者たちは寄進・断食・衣類・祝祭・坊主野郎・修道士・修道女らに係わって行う。


このようにあなたは言うだろう。わたしが召命されていないなら、一体、どのように、何をわたしはすべきでしょうかと。あなたが召命されていないことが、どうして起こりうるのだろうか。

あなたはある状態にある。すなわち結婚した夫・妻・子供・娘・僕・女中である。もしあなたが結婚した夫であるならば、あなたの妻・子供・召使い・財産を管理するのに、すべてを神に服従して行い、誰にも不正を行わないようにしなさい。

 

実際、人々はこのような命令と召命を留意しなくなり、出かけて、ロザリオの祈りを唱え、あるいは、そのような類を行い、召命には何も奉仕しない。

領主は自分の公務を捨てて、遠くまで支配しようとし、これをミサを聞いたり、教会建立・ロザリオの祈り・小祈祷・贖宥で償おうとする。

誰も命令と召命のないものはいないし、同様に、行いのない者もいない。自分の身分に留まり、自己自身を見つけ、神の命令に気づき、命令を守ることで神に奉仕し、神の掟を保つことに各人が注意を払うべきである。

「神は犠牲を喜ばれるのではなく、御言葉に聞き従うことを喜ばれる」(サムエル上22:15)

重要なのは従順である。信心深い手伝いの女が彼女に与えられた命令に服し、自分の職務のために屋敷を掃除したり、汚物を外に捨てるならば、また、僕が同じような心構えで鋤で畑を耕すならば、正しい道を歩んで、真っ直ぐに天国に行ける。

他方、聖ヤコブの巡礼地に行く他の者は、自分の職務や行いを放棄するから、真っ直ぐに地獄に堕ちるのである。

神の目は行いを見るのではなく、行いの中の従順さを見る。それゆえ、わたしたちが神の命令や招きに応ずることを神は望まれる。


「各々召されたときの身分に留まっていなさい」(第一コリント7:20)


「あなたがたはそれぞれの賜物をいただいているのですから、神のさまざまな恵みの良い忠実な管理人や支配人として受けた賜物を生かし、互いに仕えなさい」(第一ペトロ4:10)


神の恵みと賜物は一様ではなく、さまざまである。


「一つの体にたくさんの肢体があるが、それらの肢体はみな同じ働きをしていないように、わたしたちも多くの肢体であるが、キリストにあって一つの体であり、すべてが同じ働きをするのではない」(ローマ12:4以下、第一コリント12:12以下)


誰もが他の人と同じ働きではなく、各人は自分のものを用い、すべてを純真な従順のうちに、さまざまな命令と多様な行いで協調して行うのである。

ところが人々はこの従順を無視して、聖人を模範とする行いに向かって口をあんぐりと開け、わたしたち自身への命令と職業を軽視するのである。これは極悪の悪魔の働きであることは疑いない。

その他の行いはすべて無駄で、空しいかのように、人々は礼拝をただ教会・聖壇・ミサ・讃美歌・読誦・生け贄などに結びつけている。悪魔は礼拝を教会と教会の中に起きる出来事にのみ結びつけるからである。

キリストの御言葉「わたしに従いなさい」をよく理解しよう。他の人には他のものに気をつけさせ、あなたはあなたのものに留意しなさい。

ある異邦人が「他の畑にはいつも良い果実がなり、隣の家畜はわたしたちの家畜よりたくさん乳を出すのは、どういうわけだろうか」と述べている。誰もが自分のものには飽き飽きし、他人の物に憧れるのである。

もし結婚していれば、妻をもっていない人を誉め、妻をもっていなければ、結婚している家庭を羨むのである。もし、聖職者であれば、この世的な職業を羨望し、他方、この世的な職業の者は、聖職者に心を引かれる。

神は彼らが満足するようには、あしらうことができない。神が彼らに派遣してくださった身分で神に仕えるならば、煩わしくも、辛くもないだろう。彼らは自分自身を辛くさせるだけである。

誰も彼らを苦しめない。何の艱難も理由もないのに、自分の人生を自分で苦しめているのである。

ある人が自分の意志でその本性を変えることを神が許したとしても、すべてにおいて他の人と同じになり、ますます嫌な気分が高じて、結局は元の自分と変わらないのである。

それゆえ自分の本質を変えようと思わず、嫌な気分を吹き飛ばすべきである。嫌な気分を捨て、変えなさい。

靴を履いている者は、それがいかにピッタリ合っているかに注意しないし、それがいかに窮屈であるかについても考慮しない。この世は愚かにも、各人がただ自分の悪いところだけを見ており、他の人の良いところだけを見る。

このような不安・不満・嫌悪を避けるために、信仰は有益であり、必要である。神は平等に支配し、各人にもっとも有益で、ふさわしい本質を送り込んでいることを、信仰は確信する。この信仰は安らぎ・満足・平安をもたらし、嫌悪感を吹き飛ばしてくれる。

ところが信仰がなく、人間が自分の感情・考え・気分によって判断するならば、見たまえ、嫌な気分になってしまう。彼は自分の本質の長所を見ないし、隣り人の悪いところも見ないのである。

こうして感情や嫌悪感から自分の生活の中に不愉快・苦労・辛さが生じ、これによっていらいらし、神に対しても不満を抱くようになる。

彼の中には神への賛美・愛・感謝は沈黙し、荒野のユダヤ人のように彼の人生全体が神に対して不平たらたらになり、自分の人生を自ら辛くし、さらに、これによって地獄に落ちる結果になる。

それゆえ、すべてのことにおいて、殉教者たちが示したように、あなたが牢獄にあったり、死に瀕していても、信仰はすべてのことを容易に、良く、甘美にする。

だが、お偉方と金持ちが示しているように、この世のすべての快楽と喜びを手にしたとしても、信仰がなければ、すべてのことが厳しく・悪く・辛いものになる。だから、信仰がいかに必要か、あなたにも分かるであろう。

キリストは言われた、
「野の花がどのようにして育つのか、注意して見なさい」(マタイ6:28)
「あなたがたの父のご意志がなければ、一羽の鳥も地に落ちることはない。あなたがたは鳥よりも、まさった者である。あなたがたの頭の毛までもみな数えられている」(マタイ10:29〜30)

「神が造ったすべてのものを見て、それははなはだ良かったからである」(創世記1:31)

神が定めた身分とは、結婚している状態・僕・使い走りの女・主人・女主人・領主・君主・裁判官・官吏・農民・市民などである。

信仰だけがキリストの正しい愛すべき弟子たちを造る。この弟子たちはその行いによってではなく、その信仰によって聖霊を受けたのである。信仰はキリストの心を所有する(第一コリント2:16)。

「神はご自身の唯一の御子をわたしたちのために惜しまず与えてくださった。どうして御子のみならず万物を与えないことがあろうか」(ローマ8:32)

したがってキリストを信じる者は、キリストに頼り、キリストに満足し、聖ヨハネのようにキリストの胸を寝床としてもっとも安らかに休息する。これは安全で確かである。それゆえ、人間はいかなるものも、罪・死・地獄・この世・悪魔も恐れないのである。

世の終わりの時には、過ぎ越しの小羊と福音が魂に食事を与える。これは信仰と説教によって提供され、食べられるのである。

「霊の人はすべてのものを判断するが、その人自身は誰からも判断されない」(第一コリント2:15)

「しかし主に向くときには、モーセの覆いは取り除かれ、すべてのものを認識する」(第二コリント3:16)

人間はキリストに対する信仰によって、すべてのものについて正しく確実に、思慮深く理解し、認識し、判断する。彼らは知恵によって大いなる祭司であり、全世界を裁き、分与し、教えることができる。

裏切り者であるユダは、教皇・司教・すべての聖職者などの姿であった。彼らはキリスト教の真理を根絶するために、神の御言葉を捨て、彼ら自身の教えと行いを主張する。

このキリストの裏切り者は偽善者に他ならない。見かけは聖なる生活や霊的な身分で颯爽と歩きながら、これによってキリスト教の真理と恵みの光を自分自身とすべての人たちから抹殺して、空しい人間性だけが彼らに残るのである。

見よ、世の中は聖職者で満ち溢れているが、根底においては、彼らの背後には思い上がったイスカリオテ・自我欲・利益しかなく、彼らの見せかけですべての世を信仰の正しい道から誤った方向に導くのである。

ある者は信仰からではなく、その帽子や司教杖によって司教と言われる。また彼の修道服や木靴によって修道士と言われる。ところが信仰には、すべての行いと身分による名前は全くない。信仰はキリストが愛する弟子を造るからである。

信仰はキリストが来るまで残っている。この世は、わたしたちからすべてのものを取り上げ、無にすることができる。また、わたしたちの良い行いも良い生活も無にしてしまう。だが、彼らは信仰を心の内に留まらせねばならない。すると、信仰は最後の審判の日まで残るのである。


<引用>
この文書は、 植田兼義・金子晴勇訳『ルター教会暦説教集』教文館 (2011年) から引用して、要約したものです。

 

ルター教会暦説教集

ルター教会暦説教集