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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

実在論と唯名論がキリスト教に与えた影響について

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 西洋中世のスコラ学において、普遍的なものと個々の事物の関係について論争があった。いわゆる「普遍論争」である。

 一方において、「普遍的なものが個物に先だって存在する」という主張が為された。これが「実在論」(Realismus)である。これに反対して、「実在するのは個物だけであって、普遍は我々が後から作った名前に過ぎない」という主張が為された。これが「唯名論」(Nominalism)である。

 この論争は、キリスト教に大きな影響を与えた。この小論では、「実在論唯名論」の視点で、古代ギリシア哲学から中世のスコラ学を経てルターの宗教改革に至るまでの思想史を、簡単にたどってみたい。

 

  1 形相と質料

 

 古代ギリシアの偉大な哲学者アリストテレス(前384年~前322年)はプラトン(前427年~前347年)の直弟子であったが、両者の思想には重大な違いがあった。

 プラトンは、こう考えた。――この世にあるものはすべて一時的であって、常に変化し、やがて消滅する。時間と空間を超えたところに、人間の感覚ではとらえられない別の領域があり、そこには永遠の完全な秩序が存在する。この世に存在するものはみな、その時空を超えた世界に存在する不滅の「イデア」(idea:形相)の複製に過ぎない(実在形相説)。人間の肉体は死んで消滅するが、は時間を超えて存在する不滅のイデアである。自らの感覚を高めて、この永遠なる本来的自己を認識することこそ、人が為すべきことである――

 エジプト出身の哲学者プロティノス(205年?~270年)は、プラトンの思想の神秘主義的な面をさらに発展させた。その「プラトン主義」は、アウグスティヌストマス・アクィナスなどキリスト教神学者に多大な影響を与えた。
 一方、アリストテレスは、こう考えた。――現実世界の外に何かがあるとしても、我々がそれを経験するのは不可能である。それについて話したところで、確認する方法が無いのだから、そのようなものを議論の対象とすべきではない。哲学的に思索できる世界は、我々が生きて経験しているこの現実の世界である――

 アリストテレスは、プラトンイデア論を、空論に迷い込ませるものとして否定した。そして、彼はこう考えた。――この世界に存在する実体は必ず「形相[1]と「質料[2]から成っている。たとえば人間の場合、肉体を構成している物質(質料)は日々変化して、すべて別のものに代わるが、その人の形相は変わらない。それゆえ事物をそのものたらしめているのは形相である(個物形相説)。

 たとえば、赤い物体がある場合、プラトンは、「赤」の形相(イデア)が存在し、赤い物体はその形相の複製または反映なのだ、と考える。一方、アリストテレスは、赤い色はその赤い物体と別に存在するのではない、と考える。プラトン的な考え方は「実在論」と呼ばれ、アリストテレス的な考え方は「唯名論」と呼ばれる。 

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プラトンアリストテレス

  2 実在論唯名論

 

 ヒッポのアウグスティヌス(354年~430年)は、西方教会において最大の影響力を持つ神学者である。彼の神学は、プラトン主義プラトン主義キリスト教に融合させたものであった。

 彼はこう考えた。――我々の肉体は朽ち果てて消えていく感覚の世界に属しているが、我々のなかには時間を超越した非物質的な部分がある。我々は、非常に不安定で、移り変わりが激しく、偽りに満ちた、滅び行く「地上の王国」の住民であると同時に、不変かつ永遠にして、真の価値に基づいた「神の国」の住民である。

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アウグスティヌス

 アウグスティヌス以降最大の神学者と言われるトマス・アクィナス(1225年~1274年)は、プラトン主義が深く浸透していたキリスト教に、アリストテレスの思想を融合した。アクィナスは「本質存在の区別」という問題に取り組んだ。本質と存在は常に別の問題だというのが、彼の考えであった。

 アクィナスはこう考えた。――神がその意志によって世界を創造したのだから、世界の本質は世界が存在する前にすでにあったことになる。しかし、神ご自身の本質が神の存在の前にあるはずがない。従って、神は全く純粋な存在である――

 「本質存在のどちらが先か」。プラトン的な実在論アリストテレス的な唯名論の論争は、中世においてずっと続いた。

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トマス・アクイナス

  3 スコラ学の興隆

 

 中世の始めのヨーロッパでは、修道院が唯一の教育施設であった。修道院における教育の中心は聖書であり、修道士は敬虔な祈りの生活を修練した。加えて、修道院は古代の文化を守り、 復興する務めも果たしていた。

 時代が進むにつれて、修道院以外の教育施設も生まれた。主要な大聖堂のある都市では、新しい司祭の教育のために専門的な教師が置かれるようになった。これが大学の始まりである。西欧における最古の大学は1088年に自由都市国家ボローニャで開設された。その後、イングランドオックスフォード大学やフランスのパリ大学などが開設された。

 大学の神学では、信仰を構造的に理解するために、アリストテレス哲学論理学を使用した。修道院と比べると、大学の神学は思索的組織的なものであった。その哲学的・論理学的な神学を「スコラ学」という。神学と哲学信仰と理性の関係は、中世の神学において主要な問題となった。

 スコットランド出身のドゥンス・スコトゥス(1266年頃~1308年)はアリストテレスに通じており、論理の緻密さにおいて比類の無いスコラ学者として知られる。スコトゥスフランシスコ会に属していたが、オックスフォード大学とパリ大学で研究を行い、教鞭をとった。彼は信仰と理性をはっきりと区別した。魂の不滅性については何も証明が無い――とスコトゥスは語っている。

 イングランドのオッカム村出身のウィリアム(通称「オッカムのウィリアム」英: William of Ockhamあるいは「オッカム」1285~1347年)はフランシスコ会士であり、スコトゥスの主張をさらに発展させて、後期スコラ学を代表する神学者、哲学者になった。

 オッカムはこう考えた。――論理的に考えて推測をしてみても、自然界に起こる現象はすべて偶然であり、現実は何もわからない。それよりも、ものごとの実際の様子をよく観察することが重要であり、経験を重ねた後に推論を行ってこそ、確かな知識が得られる。類の概念は現象の名前に過ぎない。実在するのは類の概念の形相(羅:forma)ではなく、具体的な個物(羅:res)である。

 このような「唯名論」(Nominalism)に基づく、オッカムの経験主義的アプローチは、近代の科学的な方法論に道を開くものであった。実在論唯名論の論争は、次第に唯名論が優勢となり、これは「近代の道」(羅:via moderna)と呼ばれた。                 

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   オッカム
       

  4 ルターとオッカム主義

 

 マルティン・ルター(1483年~1546年)がエルフルト大学に入学したのは1501年である。この大学の哲学部の教授は、オッカムの「近代の道」に従って教育を行っていた。[3]

 ルターは哲学部を卒業してから、父親の計画通り、法学部に進んだ。しかし、その頃、ルターは、雷雨に打たれて恐怖を感じ、マリアの母・聖アンナの名を呼んで、修道士になることを約束した。ルターは大学の勉強をやめて、1505年7月にエルフルトのアウグスティヌス修道院に入った。彼はそこで能力を認められて、エルフルト大学の神学部で学ぶこととなった。

 神学部でルターは「近代の道」の神学を学び、ウィリアム・オッカムガブリエル・ビール等に影響を受けた。オッカムは聖書の研究を重視したが、彼の救済論はペラギウス主義的であった。――人間は、自らの救いのために、出来るかぎり努力しなければならない。義務を果たした人は、神に恵まれて、救われるだろう。ただし、誰が恵みを受けるか、それは神が自由に決めることである――

 このオッカムの神学はルターを不安にした。――自分は、十分に力を尽くして、救いの道を歩んでいるのだろうか。神に選ばれ、恵まれた人の群れに入っているのだろうか――

 ルターは、どれほど努力しても自らの救いを確信できず、絶望が深くなるばかりだった。ルターは1506年に司祭の叙階を受けたが、ミサを通じて自分が神の前に直接立っていることに、恐怖を覚えた。ルターはこう思った。――この厳しい審判者の前に、完全に正しい人など、一人もいない。

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 マルティン・ルター

  5 ルターとアウグスティヌス

 

 この試練の時期に、アウグスティヌス修道会のドイツ管区の指導者、ヨハン・フォン・シュタウピッツがルターを助けた。シュタウピッツはルターの聴罪司祭であった。ルターが予定説に対する絶望を経験した時に、シュタウピッツは彼にこう語った。「イエスとその十字架を見なさい。それで、予定説の思索の代わりに神の恵みがわかり、信じるようになるだろう」。                           

 この忠告によって、ルターは助けられた。シュタウピッツはルターに、アウグスティヌスの著書を読むことを勧めた。これはルターの神学に、非常に大きな影響を与えた。

 アウグスティヌスはペラギウスを論駁しながら、人間の罪深さと神の恵みの必要を雄弁に主張した。ペラギウスやオッカムと違い、アウグスティヌスは「神の恵みがなければ、人間の努力は意味がない」と断言した。これを読んでルターも、神の選びと恵みの優先権がわかるようになった。人が救われるのは、実際に神が行っているみわざなのである

 ルターは、1509年にエルフルト大学の神学部を卒業し、その大学で哲学を教えていたが、シュタウピッツの勧めもあって、1512年にヴィッテンベルク大学へ移って、哲学と神学の講座を受け持つことになった。ルターはそこで神学博士号を得て、死ぬまでずっと聖書学教授として勤めることとなった。

 ルターは終生シュタウピッツに深く感謝し、彼を「信仰による私の父」と呼んでいる。

 

  6 比喩的解釈の伝統

 

 1513年からルターは、聖書解釈の教授として講義をするようになった。最初、ルターは伝統的な比喩的解釈を使用した。すなわち、聖書のテキストには、文字的寓喩的転義的・道徳的天的の4つの意味がある、というのである。この四重の聖書解釈は、「文字は形を教え、比喩は信ずべきことを教え、道徳はなすべきことを教え、霊的なものは望むべきことを教える」と要約される。

 このような比喩的解釈の伝統は、イエスと同時代に生きた、アレクサンドリアユダヤ人哲学者フィロン(前20/30年?~紀元後40/45年?)まで遡る。

 前1世紀にアレクサンドリアで、ヘブル語聖書をギリシア語に翻訳した『70人訳聖書』(SEPTUAGINTA)が生まれたことは、画期的な出来事であった。ギリシア語とヘレニズム文学に慣れ親しんだ異邦人が多数、このギリシア語の聖書を読んで、その意味や有効性について議論するようになったからである。フィロンは、ユダヤの伝統とヘレニズム文化を融合させることに尽力した。

 フィロンプラトンの著作、特にティマイオスに影響を受けた。彼は、モーセプラトンの思想に影響を与えたと説いて、プラトンを「ギリシアのモーセ」と呼んだ。

 フィロンは次のように主張した。――プラトンアカデメイアの学者たちは聖書を知っており、彼らの教えの優れた部分は聖書の教えに由来する。聖書はプラトンと同じことを教えている。ただし、聖書は比喩を用いているので、その比喩の背後に隠されている不変の意味を明らかにすることが必要である――

 フィロンは、比喩的解釈によって、プラトンと聖書の矛盾を克服しようとしたのである。

 フィロンは、ギリシア哲学に由来する「ロゴス」や「イデア」の概念を、ユダヤ教思想の理解に初めて取り込んだ。フィロンの著作は、初期キリスト教と教父たち、特に、クレメンスオリゲネスなど、アレクサンドリア学派の教父たちに大きな影響を与えた。そして、聖書の比喩的解釈は、アウグスティヌスによって確立されて、中世のスコラ学者たちに受け継がれていったのである。

 一方、3世紀後半から5世紀前半にかけて、シリアの都市アンティオキアを中心に活動したアンティオキア学派神学者は、アリストテレスの影響を受けて、聖書の歴史的・文法的研究を重視した。サモサタのパウロス、ルキアノスとその弟子アリウス、テオドロス、クリュソストモス、アポリナリウス、ネストリウスなどが有名である。

 彼らは、比喩的解釈ではなく、予型論的解釈によって聖書の救済史的統一性を明らかにした。しかし、アンティオキア学派は、キリストの神性と人性の区別を強調する傾向があり、アリウスやネストリウスが公会議で異端とされたために、衰退していった。

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   フィロン

  7 キリストのみ! 恵みのみ! 信仰のみ! それゆえ、聖書のみ!

 

 さて、中世のローマ・カトリック教会では、教会の権威は次の三つのものに拠る、と考えられた。[4]

  ①正典としての聖書

  ②「信仰の基準」と呼ばれる信仰告白的伝統(信条

  ③公同の教会の使徒的信仰を体現する君主的監督性

 公会議主義者唯名論は、特に聖書の権威を強調した。公会議主義者とは、教皇の至上権に対する公会議の優位性を主張する者たちである。――教皇の権威や公会議の権威も含めて教会の諸権威は、聖書の権威からの派生であって、すべての権威は聖書の権威に従属する――。中世末期には、公会議主義者の中から、このような主張が出るようになった。

 しかし、実際には聖書に基づいてトマスやオッカムなどの権威者を批判することは認められていなかった。聖書の歴史的な意味と比喩的な意味は区別され、たとえば、「ペテロの首位権(マタイ16章)は教皇制度を意味する」といった、ローマ教会に都合の良い比喩的解釈がまかり通っていた。

 ところが、マルティン・ルターは、教会が絶対的に依拠すべき権威は「聖書のみ」だと主張したのである。[5]

 ルターはヴィッテンベルク大学で聖書講義を続けるうちに次第に、人文主義[6]修辞学の影響によって、歴史的・文法的な聖書解釈を重視するようになった。伝統的解釈に拘束されるスコラ学と違い、人文主義では、文脈を考慮しつつ、テキストそのものの意味を自由に探求することができた。ルターは、それを聖書解釈に用いたのである。

 その結果、ルターは、新約聖書が教える神の恵みを理解するようになり、イエス・キリストの働きを聖書の中心的主題とする神学を構築するに至る。この神学的な転換をルターによる「福音の再発見」という。

ルターは次のように述べている。[7]

 

 私は実にローマ書におけるパウロの言葉を理解しようと非常な精力を傾けることに魅惑されていた。しかし、ローマ書1章[17節]の『福音の内に神の義が啓示される』という部分が私の前に立ちはだかったので、私の心はそれ以来冷たい血が流れるのを覚えた。なぜなら、私は『神の義』という言葉に憎しみさえ感じていたからである。多くの教師たちの用法と慣用例によれば、哲学的には、形式的、能動的な義を解すべきとされており、彼らの教師たちの言うところによれば、その義によって神は不義なる罪人を罰するというのである。(中略)

 ついに、昼も夜も黙想したとき、神の恵みによって、私は、この言葉の文脈に気付いた。即ち、『それの中に神の義が啓示されている。それに書かれている通り、信仰を通して義であるところの彼は生きるであろう』と。そこで私は、義人は神の賜物によって、即ち信仰によって生きるということを理解し始めた。そして、これがその意味である。神の義、すなわち、みあふれる神が信仰によって私たちを義とされる受動の義は、福音によって啓示されたのである。(中略)

 その後、アウグスティヌス『霊と文字』を読んだが、そこでは予期に反して、アウグスティヌス自身も、神の義を同じように解釈して、神の義とは神が私たちを義とされるとき、私たちに着せてくださるものとしていることに気づいた。

                

 これは「塔の体験」と呼ばれる。ルターは、文脈に注意しながら何度も聖書を読み返し、黙想する中で、この真理に気づいたのである。[8] 

 修辞学によると、文章や話の目的は、読者や聴衆に影響を与えることにある。文章は、その意味を通して読者を変えるべきである。この原則の通りにルターはパウロを解釈した。聖書のテキストを読んで、読者はその内容すなわち「神の義」を受けとるのである。

 キリストが私たちのために身代わりとして死んで、救いを提供してくださった。聖書が証しするこの福音が人の内に信仰を作り、人を救いに至らせる。大切なのは、聖書の権威を強調することではなくて、聖書が権威をもって教える内容、すなわち「活ける福音の声」である。キリストこそ聖書の内容であり、キリストを告知するものが使徒的なのである

 聖書が神の言葉であるという認知は、神の言葉が人の内に作る信仰の実である。聖書の釈義においても、テキストの内実が、釈義の手続きを、その内実にふさわしく変えていく。それゆえ、ルターの聖書釈義は徹底的に「キリストのみ」であり「恵みのみ」「信仰のみ」なのである(橋本昭夫)。

 ルターは聖書の形式よりも内実を第一に考えていた。「キリストのみ」「恵みのみ」「信仰のみ」という実質原理から「聖書のみ」という形式原理へ。これがルターの方向性である。

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   ルターハウス

  8 ミサの犠牲と実体変化

 

 1517年10月31日にヴィッテンベルクで、ルターは『贖宥状の効力を明らかにするための討論』を公にした。いわゆる『95か条の論題』である。これはすぐに、ラテン語からドイツ語に訳されて、広く出回った。贖宥状の問題はたちまち、教会の至上権と教皇の地位についての論争に発展した。ルターは次第に、教皇制度も秘跡についての教えも、福音の本質とは異なるものだ、と確信するようになった。

 ルターが1520年に発表した文書、『ドイツのキリスト者貴族に与える書』、『教会のバビロン捕囚』、『キリスト者の自由』は、彼の神学的核心を表明するものであり、宗教改革において非常に重要な意味を持つ三大文書とされる。

 『教会のバビロン捕囚』で、ルターはローマ・カトリック教会の「聖体の秘跡」を批判した。一つの問題は一種陪餐、すなわち、信徒にパンしか与えられていないことである。ルターは、パンとぶどう酒の両方を信徒に与える二種陪餐を行った。

 もう一つの問題は犠牲論である。ローマ・カトリック教会では聖餐を、人が神にささげる「犠牲」と理解している。聖体は、神の怒りをなだめる供え物だというのである。これが根本的な誤りである。

 聖餐におけるパンキリストの体であり、ぶどう酒キリストの血である。これは、人が神にささげるものではなくて、神が人に与えてくださった恵みの賜物である。人にできることは、信仰をもってそれを受け取ることだけである。キリストはすべての人の身代わりとして、一度だけ十字架で犠牲となられた。それは、すべての人の罪を贖うのに十分な犠牲であり、完全である。もはや犠牲が繰り返される必要はない。

 ルターは、カトリック教会と同様に、聖餐におけるキリストの実在を主張した。しかし、ルターは、カトリック教会の化体説と違い、キリストの実在の方法を説明しようとしなかった。それは神秘に属する事柄である。

 「これは私の体、私の血である」というイエス自身の設定の言葉を、ルターは重視した。その言葉をそのまま受け取るがゆえに、彼は実在信ずべきとしたのである。

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「95か条」を貼った城教会の扉

 

[1] 「形相」ギリシア語eidosラテン語forma、英語form

[2] 「質料」ギリシア語hyle、ラテン語materia、英語matter

[3] 当時の教育制度では、学生は大学で初めに4年間ほど哲学部で学んだ。哲学部を卒業してから、学生は専門学部=法学部、医学部、神学部のいずれか一つを選んで学んだ。

[4] 橋本昭夫「ルター主義における釈義原理」『福音主義神学』第30号、日本福音主義神学会、1999年、39頁参照。

[5] もちろん、ルターは伝統を重んじる、保守的な信仰者である。彼はローマ教会から破門されたがゆえに、プロテスタント福音主義)の教会を独立させなければならなかったのである。ルター派は教会の公同性を重んじており、『アウグスブルク信仰告白』の初めに、古代の公会議で生み出された信条を、信仰基準として掲げている。

[6] ルネサンス期において「人文主義者」(Humaniste)と呼ばれる知識人は、古代ギリシア・ローマの古典を学ぶことによって、人格の形成をめざした。

[7] ヴィッテンベルク版「ラテン語著作全集」第一巻 序文

[8] 「塔の体験」の時期については諸々の学説がある。ルターは1515年春から1516年9月7日まで「ローマ書講義」を行っている。彼がローマ書を熟読し、黙想して、この体験に至ったのは、これに関係していると考えるのが妥当ではないか。


<参考文献>

 ブライアン・マギー著(中川純男・監修)『知の歴史-ビジュアル版哲学入門』BL出版、1999

フスト・L.ゴンサレス(石田学訳)『キリスト教思想史Ⅰ(キリスト教の成立からカルケドン公会議まで)』 新教出版社、2010

橋本昭夫「ルター主義における釈義原理」『福音主義神学』第30号、日本福音主義神学会、1999

カール.F.ヴィスロフ(鍋谷堯爾訳)『マルティン・ルターの神学』いのちのことば社、1984

カール.F.ヴィスロフ(鍋谷堯爾訳)『キリスト教入門』いのちのことば社、2002(増補改訂版)

C.F.ヴィスロフ(鍋谷堯爾訳)『ルターとカルヴァンいのちのことば社、1976

H.ジェーコブズ(鍋谷堯爾訳)『キリスト教教義学』聖文舎、1982(2版)

信条集専門委員会「和協信条」『一致信条書』聖文舎、1982

他