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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

日本の伝道と教会形成について

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  1.伝道至上主義の問題

私は、日本のキリスト者の皆様に、「伝道至上主義」の間違いに気づいていただきたい、という個人的な願いを持っています。それは、伝道の重要性を否定するということではありません。伝道至上主義の弊害を克服して、より良い宣教と教会形成が成されていくことを求めているのです。ご理解いただければ、幸いです。

「伝道至上主義」とは、キリスト教信仰を持たない人々に、キリストの福音を伝えて、回心させ、信者にする活動=伝道(狭義の宣教)にこそ教会の存在意義があり、 伝道が教会の最も重要な活動である、という思想と運動です。

汝らの救はれしは、救はんが為なり」という思想を、私は教会で何度も教えられました。そして、幼少期から自分も「伝道マシーン」となって活動しました。

しかし、伝道を唯一の至上の命令と理解して、伝道活動を教会の中心とするのは、不健全であり、誤りである、と私は気づきました。
これは、聖書・キリスト教の学びと、自分自身の観察や経験と、牧師や信者の方々の経験談と意見を材料として、長年熟考し、確信するに至った考えです。

  2.伝道と教会形成=牧会の分離

私が所属する「日本イエス・キリスト教団」を生み出した母体であるミッション、「日本伝道隊」は、「未伝地伝道」を使命としていました。
宣教師は、教会形成=牧会をしないで、伝道によって生まれた信者の群れを既存の教団か日本人の牧師に委ね、次の伝道地へ移る、というスタイルの宣教活動を行っていたのです。

日本伝道隊の初代の主幹として、日本での初期の宣教活動をリードしたのは、パジェット・ウィルクスです。彼は『救霊の動力』など多くの勝れた著書を残しており、卓越した伝道者でした。しかし、英国国教会聖公会)において、彼は聖職者=司祭ではなく、信徒でした。それゆえ洗礼式や聖餐式の司式ができなかったのです。他にも、同様の事情の宣教師が少なくありませんでした。

その伝道と教会形成=牧会を分離した体質が、私たちの教団のみならず、広く日本のプロテスタント教会に影響を残しているように思います。
というのは、日本伝道隊の経営する神学校(現在の関西聖書神学校)で学んで伝道者・牧師・神学教師・宣教師となった人が1000人以上もいるからです。
また、日本で活動してきたミッションには、同様のスタイル・体質を持つものが少なくないからです。

私たちは、日本での宣教と教会形成を進めるために、古き良き伝統に学び、それを生かして用いつつ、足りないところを補い、行き過ぎたところを切除する勇気を持たなければならない、と思うのです。

  3.伝道の重要性
もちろん伝道は、聖書で神が命じておられる、非常に重要な活動です。

神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」(第一テモテ2:4)。

主は(中略)ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ3:9)

イエス・キリストは復活された後、弟子たちにお命じになりました。

あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい」(マタイ28:19~20)

伝道とは、消極面から見れば、罪人を罪と死の支配から救うことです(使徒26:18、ローマ5:17~18、8:1~2)。
そして、積極面から見れば、人を新生させて神の子とし、キリストの体なる「教会」の一部分とすることです(ローマ8:14~16、第一コリント12:13、27)。

  4.礼拝共同体と宣教共同体

もし伝道が教会の唯一の目的であるなら、キリストが再臨され、最後の審判が行われた後は、教会は存在意義を失ってしまいます。
しかし、教会はキリストの「花嫁」であって、キリストの再臨が「結婚」の時であり、その後も教会はキリストとの交わりを喜びつつ永遠に存在する、と聖書は教えています(エペソ5:26~27、ヨハネ黙示録19:7~8)。宗派、教派、教団という組織は消滅しますけれど。

すなわち、教会の至上の存在意義・目的・使命・役割は、三位一体なる神との「交わり」であり、「礼拝」なのです。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がそ
の時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません>(ヨハネ4:23~24)
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです>(第一ヨハネ1:3~4)。
 教会の本質は第一に礼拝共同体です。
この「教会」を建て上げ、きよめて、完成させることこそ、人類に対する神の経綸=救済計画の究極の目標なのです(マタイ16:18~19、エペソ1:22~23、)。

では、礼拝共同体宣教共同体という教会の二重の性格には、どのような関係があるのでしょうか。

最良の関係は、自転車の後輪と前輪にたとえることができるかと思います。
外側から見れば、自転車は前輪から進んでいるように見えます。
しかし、その前輪を動かしているのは、後輪の駆動力です。

礼拝において神が語られる御言葉が、御霊を伴って働き、私たちに力を与えて、それぞれの宣教の場へと推し出しています。
礼拝において天から来る知恵と力と愛を受けなければ、人間の知恵や力では失われた人々を霊的に救うことはできません。

世界宣教の働きも、宣教団を送り出し、霊的また具体的な補給活動を続ける母体があればこそ、可能であるのです。

なお、前輪(宣教共同体としての働き)が止まれば、後輪(礼拝共同体としての営み)も止まってしまう、ということも真実です。

  5.伝道の目的

イエス・キリストは、人を手段として扱わず、目的として扱われました。また、キリストは人を代替可能な道具として扱わず、かけがえの無い尊い人格者として尊重されました。

人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。(中略)あなたがたはわたしの友ですヨハネ15:14)

あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか(ルカ15:4)

私たちが人々に伝道するのは、彼らを主に属する礼拝の民神に愛される子供私たちの愛する兄弟姉妹・同労者として、教会に迎えるためです(第一ペテロ2:5、9)。

もし、この目的を忘れて、信者を「伝道マシーン」としか見なさず、教会の信者を増やすことのみを目的とするようになったら、それは「教会」と言えるものでしょうか。

ちなみに、大航海時代を迎えるまで、中世の西欧のキリスト教社会は、その枠外にいる非キリスト教徒を宣教の対象としていませんでした。
それが良いかどうかは別として、それだからといって、中世の西欧の教会が教会ではなかったとは言えません。

キリスト教が支配的であった西欧においては、伝道は、より教育的な性格が強いものであったと言えるでしょう。

  6.教会の灯火をともし続けよう

今日の日本の教会が直面する実際的な課題としては、「過疎化・少子超高齢化が進行して、伝道する力を失った、地方の小さな教会の灯火を消してよいのか」という問題があります。

日本の多くの教団・グループで牧師の不足が深刻化しており、一つ、また一つ、と地方の教会の灯火が消えているのが実情です。
伝道至上主義ならば、伝道できない教会は存在意義を失うでしょう。しかし、それは主の御心にかなうことでしょうか。

私たちは、キリストによって「教会」に天国の鍵が与えられていると信じています。それゆえ、「教会の外に救いなし」と信じているはずです。

あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています>(マタイ16:18~19)

それならば、地方の教会を解散し、閉鎖するということは、その地域において天国の門が閉ざされるに等しいことだ、と考えるはずではないでしょうか。残された信徒の人たちの霊的な養いやケアは、どうするのでしょうか? 

近くの地域に別の教会があれば、合流することも可能ですが、近くに他の教会が無いために教会生活を送ることができなくなる人がいる場合、どうするのでしょうか?
教会は、この世において神の国を代表し、神の国を具現化する公的機関です。教会には公共的な性格があり、教会は神の国の公共サービスを提供しているということを、私たちは理解する必要があります。

教派・教団の枠を超えた協力がすでに行われていますが、何とかして、各地方の各地域の教会の灯火が消されず、灯し続けられるように、共に祈り、考え、行動していきたく願います

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです>(マタイ18:18~20)

主は今もこう語っておられる、と私は信じます。

(注)聖書の言葉はすべて新改訳聖書から引用しました。