KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

中国宣教略史(1)

前回は、西欧、アフリカ、南北アメリカの視点から帝国主義キリスト教宣教の歴史的問題について考察した。今回は、中国におけるキリスト教宣教の歴史を簡単にたどり、欧米の帝国主義が中国宣教に及ぼした影響について考察してみたい。
 

  1.景教の流行と消滅

 

中国へのキリスト教宣教の歴史は、7世紀にまでさかのぼる。635年に、ペルシヤ人伝道者・阿羅本(アブラハム)が、景教を唐の首都・長安に伝えたのである。阿羅本の宣教団は、太宗皇帝の招待によって貴賓として受け入れられた。彼らは古代シリア語で書かれた聖書とキリスト教文書を漢訳した。781年に大秦景教流行碑が長安の大秦寺に建立されており、かなり流布したようである。

 

唐の武宗皇帝(840~864年在位)が出した仏教追放令の余波を受けて、景教の聖職者も還俗させられたが、その数は約2000人もいた。

 

13世紀に蒙古帝国が出現し、東西交通が盛んになって、ローマ・カトリック(天主教)も中国に伝えられた。1294年にイタリア出身のフランシスコ会修道士モンテコルヴィーノは、マルコ・ポーロについて北京に来た。彼の宣教によって約6000人が洗礼を受けた。

 

しかし、明朝(1368~1644年)に代わると、漢民族の復古精神が高揚して、キリスト教の宣教師は入国を禁じられ、景教も天主教も絶えてしまった。

 

  2.イエズス会の宣教と典礼論争

 

16世紀後半からイエズス会は中国で宣教を行った。イエズス会の宣教師マテオ・リッチ(利瑪竇、1552~1610年)は1601年に北京に行った。彼が天文学暦法、数学、地理学等の自然科学の知識を紹介したことから、中国の知識人や官吏は彼を尊敬し、宣教を認めた。彼の「坤輿(こんよ)万国全図」によって、中国人は初めて世界の広大さを知った。

 

マテオ・リッチローマ・カトリックを「天主教」、教会堂を「天主堂」と呼び、「十戒」や「キリスト教要理」を中国語に翻訳した。リッチは儒学者の衣服をまとい、「デウス」(神)を「天」「天主」「上帝」と訳して、キリスト教儒教文化に適応させようと図った。また、中国の伝統的祭礼や祖先崇拝の習慣を認めた。祖先の位牌の前で香を焚いて祈る行為は、人々の生活から切り離せないものだった。

 

1631年にドミニコ会フランシスコ会も中国に宣教師を送り込んだが、ヨーロッパの習慣を強制し、中国の伝統文化を軽視したため、反発を受けて追放処分となった。ドミニコ会フランシスコ会が「イエズス会は土着宗教に対して妥協的だ」と教皇庁に訴えたため、問題となった。いわゆる典礼論争である。

 

明朝の時代は中国ではあまり信者が増えず、明朝末期で3~4万人ほどであった。

清朝(1644年~1912年)の初期の皇帝たちは、キリスト教に理解を示し、伝道所の開設を許した。特に康煕帝(1661~1722年在位)が、西洋の最先端の知識をもたらしたイエズス会を歓迎し、布教の自由を与えたため、中国人のカトリック信者が増加し、17世紀の終わりには25万人ほどになった。

 

ところが、教皇クレメンス11世が1715年に発布した教皇憲章「エクス・イラ・ディエ」によって、風向きが逆になった。教皇は、「デウス」(神)を「天」や「上帝」と呼ぶことを禁じ、「天主」のみを認めた。また、孔子の祭りや先祖に対する祈りを禁じた。康煕帝はこれに反発して、1717年キリスト教禁教令を出し、宣教師追放を命じた。典礼論争はその後も続き、教皇クレメンス14世は1773年に、イエズス会の解散を命じた。しかし、イエズス会は1814年にピウス7世によって再び公認され、活動を再開した。

 

  3.アヘン戦争

 

1807年に、ロンドン宣教会のロバート・モリソンが、プロテスタント最初の中国宣教師として広東に行った。しかし、中国政府がモリソンの入国を拒否したため、彼はポルトガルマカオに退いた。モリソンが中国宣教で得た信者はわずかであったが、彼は中国語訳の聖書を完成させ、多くの福音文書を発行した。

 

さて、イギリスは17世紀末から中国(清)と貿易を始め、茶、陶磁器、絹などを輸入した。しかし、中国はイギリスから輸入するものが無かったため、イギリスの大幅な輸入超過となった。イギリスでは茶を飲む習慣が広まり、中国茶の輸入が急速に拡大したため、イギリスは銀が大量に流出することに危機感を抱いた。そこでイギリスは18世紀末から、インドで栽培したアヘンを中国に輸出することによって、この関係を逆転させた。

 

アヘン(阿片)はケシの乳液から作られる麻薬であり、強い習慣性があって、長期間、常習すると、心身が衰弱し、廃人となる。清国内では、アヘン吸引の悪弊が広まって健康を害する者が多くなり、風紀が退廃していった。

 

1830年代末にはアヘンの代価として、清政府の歳入の8割に相当する銀が国外に流出した。清国の銀保有量は激減し、銀が高騰した。当時の清国は銀本位制であり、農民は銅銭を銀貨に換算して納税をしなければならなかった。この約30年間に、銀貨と銅銭の交換比率はおよそ3倍も高騰して、農民の生活を圧迫した。

 

そこで、道光帝は1838年に林則徐を欽差大臣(特命大臣)に任命して広東に派遣し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。翌年、林則徐は一切のアヘン輸入を禁じ、イギリス商人が持っていたアヘン約2万箱を没収して、処分した。

 

当時、英領インド植民地では、アヘンの輸出による収入が、歳入の約6分の1を占めていた。インドの農民がアヘン栽培によって得た収入は、イギリス製綿製品の購買力となっていた。

この三角貿易が崩壊することを恐れたイギリスは、1840年に、英国海軍の軍艦16隻、輸送船27隻、東インド会社武装汽船4隻、インド人セポイ(傭兵)約4000人を中国に送った。アヘン戦争の勃発である。イギリス政府は1842年春、インド人セポイ(傭兵)6700人、イギリス本国からの援軍2000人、戦艦などを増強して、清国を圧倒した。1842年8月に南京条約が締結されて、戦争は終結した。

 

南京条約によって、清国は管理貿易を廃止して自由貿易制に改め、5つの港(上海、寧波、福州、厦門、広州)を自由貿易港として開港した。そして、香港を英国に割譲し、賠償金2100万ドルを英国に支払うこととなった。さらに、翌年の虎門寨追加条約で、協定関税(関税自主権の放棄)、租界(借地)における領事裁判権治外法権)、英国の最恵国待遇などが定められた。清国は、アメリカ合衆国やフランスにも、同様の不平等条約を結ばされた。

 

清朝南京条約を順守せず、その後も自由貿易は期待したほど拡大しなかった。そのため、列強は次の条約改定の機会をうかがうようになった。広東とその周辺では、外国人排斥を訴える暴動が頻発するようになり、イギリス人の死者も出た。

 

  4.アロー戦争

 

1856年10月、清国の官憲が広州で、イギリス船籍を主張する帆船アロー号を検問して、中国人船員12名を拘束した。そして、そのうち3人を海賊の容疑で逮捕した。イギリスはこれを不当と主張し、「逮捕の時に清の官憲が、イギリスの国旗を引き摺り下ろした。これはイギリスに対する侮辱だ」と抗議した。しかし実際には事件当時、アロー号の船籍登録は期限を過ぎており、イギリス国旗は掲げていなかった。

 

ところがイギリスは、アロー号事件を口実にして、兵士約5000人の遠征軍を中国に派遣した。同じ年に、広西省でフランス人宣教師が殺害される事件が起きた。これを口実にして、フランスも参戦した。アロー戦争(第二次アヘン戦争)の勃発である。

 

1857年12月末に英仏連合軍は広州を占領し、翌年2月には北上して天津を制圧した。1858年、清国は英仏に屈服して、天津条約を結んだ。この条約の内容は、各国公使の北京駐在、開港場の追加(10か所)、賠償金の支払い、キリスト教布教の自由、外国人の中国内地旅行の自由などである。この条約にロシアと米国が加わった。

 

条約締結を見て、連合軍は引き上げた。しかし、清朝では排外的な動きが起こり、1859年6月、天津条約批准書交換のために来た英仏両国公使の船を、清軍が砲撃するという事件が起こった。それによって戦争が再開し、1860年に英仏連合軍は北京を占領した。

清国はロシアの調停によって英仏両国と講和し、北京条約を結んだ。天津など11か所の開港、香港対岸の九竜半島のイギリスへの割譲、賠償金の増額、中国人の海外への渡航許可(労働者移民の公認)などが、その条約の内容である。清国は、調停に入ったロシアに対しても、外満州(現在の沿海州)を譲ることになった。

 

アヘン戦争(1840~42年)とアロー戦争(1856年~60年)は、中国におけるキリスト教宣教の状況を一変した。この戦争の勝利によって、欧米の宣教団は中国で自由に宣教ができることになった。

1851年に、キリスト教の思想的影響を受けて、太平天国の乱が起こった。この集団は南京を首都として、一時は300万人を数える大勢力となった。しかし、欧米列強は彼らを助けなかったばかりか、清朝に協力して太平天国を滅亡させたのである(1864年)。

こうした一連の歴史的事件を体験した中国人は、欧米列強のキリスト教宣教を侵略的な行為と思い、屈辱を感じた。欧米列強の帝国主義的な悪辣さは、深い暗黒の淵を中国大陸に残したと言えるだろう。

 

ちなみに、米国のペリー艦隊が日本に来航して開国を迫ったのは1853年、日米和親条約締結が1854年日米修好通商条約締結が1858年、明治維新が1868年である。アヘン戦争とアロー戦争における清国の敗北と、欧米列強の中国大陸侵略が、日本人に非常な危機感を引き起こし、日本を富国強兵=帝国主義へと進ませたのである。


<参考文献>

フスト・ゴンサレスキリスト教 (下巻)新教出版社2003

クヌート・アルスボーグ『教会の歴史』神戸ルーテル神学校、2002

鄭学鳳『アジア教会、景教の物語』図書出版 東西南北、2011

渡辺信夫『アジア伝道史』いのちのことば社1996
守部喜雅『レポート中国伝道(中国大陸の教会は今)』クリスチャン新聞、1980

桐藤薫「天主教の原像 : 明末清初期中国天主教史研究」関西学院大学大学院文学研究科、2013
西尾幹二『地球日本史①(日本とヨーロッパの同時勃興)』産経新聞ニュースサービス、1998

宇田進他編『新キリスト教辞典』いのちのことば社1991

木下康彦他編『詳説世界史研究』(改訂版)山川出版社2008

木村尚三郎監修『世界の歴史できごと事典』集英社1989