V.ヴァイタ著『ルターの礼拝の神学』【要約】
Vilmos Vajta 博士はハンガリーに生まれ、スウェーデンで学び、ドイツ・ストラスブールにあるルーテル世界連盟のエキュメニカル・インスティテュートの主事として活躍した人物である。彼が“Die Theologie des Gottesdienstes bei Luther”を出版したのも、エキュメニカルな対話に役立たせる意図を含んでのことである。
ドイツ語で書かれたこの本の英訳から岸千年師が和訳したのが、『ルターの礼拝の神学』(聖文舎、1969年)である。岸師は原著よりも短くまとめ、意訳を試みることによって、原著者の目標を達成するように努めておられる。
こうして日本で出版された『ルターの礼拝の神学』は、マルティン・ルターの礼拝論を見事に体系化して提示している。この名著が絶版になっていることは残念である。
以下に、この書の要約を記す。
序 論
礼拝の問題は、エキュメニカル運動における主題の一つとなっている。この問題は礼拝順序や礼拝形式だけにとどまるものではない。教会の歴史を通じて礼拝と神学とは相互に依存しながら展開してきたのであるから、この問題の核心は神学の問題なのである。
ルターが推進した礼拝改革は、彼の福音の再発見から直接展開したものであった。そして、ルターの礼拝の神学は、彼の思想全体の中心をさしているのである。ルターの礼拝の神学は、今日の神学と礼拝の問題において極めて深い意義を持っている。礼拝の意味についてのルターの洞察は、ルーテル教会ばかりでなく教派の境を越えて、礼拝の意味を問うエキュメニカルな対話に大きな意義を持っているのである。
一章 礼拝の原理
1 礼拝と偶像礼拝
「『わたしはあなたの神である』ということばは、礼拝について語りうるあらゆるものの規準であり、尺度である」とルターは言った(WA,XVIII,69)。第一戒こそルターの礼拝観の基調である。
神はわたしたちのために行動なさるかたである。神はわたしたちのためにキリストをこの世に送ってくださった。キリストは、わたしたちのために死に、よみがえられた。キリストは今も、みことばとバプテスマと聖餐において、わたしたちのために行動しておいでになる。それゆえキリストは私たちの神であられる。礼拝の基盤は、信仰によってこれらの祝福を受けるようにとの命令の中にある。
人間は信じなければならないように造られている。人間は神との交わりのために造られている。人の信仰は、二つの方向のうちの一つに向かう。すなわち、創造者に向かうか、造られた物に向かうかのどちらかである。信仰は中立ではありえない。それはいつも神か偶像かどちらかで満たされている。ルターはこう喝破した、「あなたが、あなたの心を定め、あなたの信頼を置くそのものが、本格的にあなたの神である」(大教理問答)。
キリストが来られたのは真空状態を埋めるためではない。偶像と戦い、それを克服し、除くためにキリストは来られたのである。ルターの信仰概念はダイナミックである。ルターによれば、キリストご自身が、たえず来て、戦い、克服したもうのでなければ、キリスト教信仰は存在しない。礼拝は戦場であり、悪魔のわざはそこで撃滅されるのである。
キリストにおいて、われわれは、「われわれのため」にあるかたとして神に出会う。キリストを媒介にしてのみ、われわれは、「わたしはあなたがたの神である」というあのかたを知るにいたるのである。キリストは、われわれのための神(Deus pro nobis)であり、われわれの神(Deus noster)である。キリストにおいてのみ神ご自身を見いだしうるようになさるのは、神の意志であり、永遠の定めである。われわれがもつ神との関係は、本質的に神であられるかた(Deus in substantia sua)、すなわち、神があらかじめ定めた仕方において隠された神(Deus absconditus in paedestinatione)に依存している。
キリストにおいてご自身を啓示した神だけが、われわれの神である。ルターは啓示された神(Deus revelatus)を、説教せられる神(Deus praedicatus)とも、礼拝せられる神(Deus cultus)とも呼ぶ。啓示された神は、説教壇と聖壇の神である。礼拝せられる神として、神は、ことば、バプテスマ、主の晩餐という地上の媒体に包まれ、そこでご自身を啓示される。神ご自身が、礼拝の定まった形を設定されるのである。啓示された神は地上の具体的なものを媒介にして、われわれに出会われる。このように神に出会うことが礼拝である。礼拝は、神ご自身によって承認された啓示の通路として見られるべきである。
宗教改革者は、みことばと聖礼典、この二つを調和させた。人間の創作した礼拝の形式は、みな、偶像礼拝であって、その他の何ものでもない。
2 賜物(Beneficium)と犠牲(Sacrificium)
神礼拝と偶像礼拝の衝突というルターの神学的洞察が、具体的にどのように適用されたのか、主の晩餐に関するルターの神学と実践を考察しよう。
ルターは“Formula Missae”の序文において、ローマ教会のミサが「最後の晩餐」から直接出たものであることを認めた。すなわち、ミサはキリストご自身が設定されたのである。ただし、ローマ教会のミサの姿勢は崩れていた。それゆえルターは、第一に、ミサの代わりのものを考えることよりもミサの改革を目指した。そして、第二にルターは、ミサを主の晩餐の「設定」の趣旨と一致させようとした。ルターは、礼拝の外面的な形を変えることよりも、礼拝の意味と神学の根本的な再評価を目指したのである。
ルターは、キリストによる聖晩餐の「設定」を、模倣すべき一つの例ではなく、われわれの理解と信仰を導くみことばと考えた。設定のことばは、罪の赦しと命と救いを与える「福音の縮図」である。イエスはミサの設定において単純さを尊ばれた。それは福音のみによって教会が一致を保つためである。ルターは儀式そのものには反対しなかったが、人間の創作した儀式によって聖礼典が窒息させられることに反対した。
最後の晩餐において、キリストはパンとぶどう酒を弟子たちにお与えになった。キリストは物質を用いておられ、これを覚えて同じようにするように、と弟子たちに言われたのである。このことが、ミサが外面的な行為であることを証明している。ルターは、外面的なことを全部退けてしまう熱狂主義者とは、一致できなかった。
ルターは礼拝に関する発展の価値を認める目を持っていた。彼は初代教会が生み出したチャントを高く評価して、キリエ、グロリア・イン・エキセルシス、クレドー、サンクトゥス、アグヌス・デイ等を全部受け入れた。ミサが偶像礼拝のためとなっていた暗黒時代にも、このような礼拝様式が一般民衆の信仰を維持するのに役立った、とルターは理解していたのである。
ルターの厳しい批判が向けられたのは、カノン(ミサ典礼文)に対してであった。ルターが書いた礼拝順序では、この部分は完全に除かれている。重要な問題は、ミサ典礼文が、生ける者と死せる者のために神にささげる「犠牲」としてミサを示していることであった。「ユーカリスト」は神の賜物に対する「感謝」のわざであるはずなのに、ミサは、人間が神をなだめようとする償いのわざとなっていた。ミサの犠牲は福音に対立するものである、とルターは考えた。
ローマ教会の犠牲の神学は、さまざまの悪弊をもたらした。民衆は、ミサにあずかることによって、あらゆる種類の利益を受けることを期待した。ミサは売り物とされ、司祭にとっては儲けのある商売となった。ミサは金で売られる飾り物になったり、お守りの類いにされた。ミサの犠牲は、遠くにいても、人間に霊的あるいは物的な福利を生じさせることができるとされて、会衆がいない「私誦ミサ」が執行された。ルターには、このようなミサの誤用が教会の歴史における最も暗黒の点である、と思われた。
キリストの救いのわざに関係なしに、礼拝を華やかにしようとする礼拝様式の改革がなされるときには、礼拝の堕落が必ず生じる。現代の礼拝改革者たちの美的また心理学的に調合された荘重さに対して、ルターはどれほど厳しく批判するであろうか。
ルターのミサの理念とローマ教会のミサの理念の相違は、両者の神についての理解の相違による。すなわち、ルターは神の特質は「与えること」にあり、「受けること」にはないと考えていた。それゆえ、ルターはミサを与えられた賜物(beneficium,non acceptum sed datum)と呼んだ。人間は神の恵みが無ければ地上における存在を確保することさえできない。まして永遠の救いを勝ち取ることなど、人間には到底できることではない。
神はご自身のために何をも求めてはおられない。神が人々に賜物をさずけてくださるのである。神がご自身に対して人間に求めておられるのは、ただ感謝のみである。なぜなら、神に感謝をささげることによって、われわれは神をすべてのこの世の賜物と霊的な賜物の与え主として告白するからである。そして神は、われわれが与えられた賜物を、助けを必要とする兄弟に奉仕するために用いることを、望んでおられる。このようにルターの神の理念においては、信仰と倫理と礼拝は密接に結びつけられているのである。
これに対して、ローマ教会のミサは、犠牲によってなだめられなければならない怒りの神を計算に入れている。このような教皇派の考えは、神の恵みを軽視し、神が提供してくださったキリストを退け、自分たちの供え物を神にささげようとする大きな誤りである。
ルターはかつて、初めてミサを執行したときに、ミサ・カノンを読んで恐怖に襲われ、あやうく聖壇を立ち去って礼拝を中止しようとしたことがあった。キリストを抜きにして神に会うときに、人間は神の怒りに押しつぶされてしまう。これはミサについての律法的な理解による経験である。
しかし、ミサにおいて活動される神は、あわれみに満ち、恵みにあふれている。なぜか? ルターはこう述べている、「ひとりの神のみ、また一つの教会のみがある。そして、二つの間を契約(testamentum)は上から、犠牲(sacrificium)は下から仲立ちする」(WA.Ⅷ,444)。“Testamentum”という用語は設定の詞からとられている。これは遺言になぞらえて説明される。遺言作成者は、ご自分の死を準備されるキリストである。遺言は設定の詞であり、調印はキリストのからだと血である。遺産は罪の赦しであり、相続者はあらゆる時代とあらゆる国の人々である。この遺言はキリストの死によって効力を発した。キリストの犠牲は一度限りで完全である。反復されるものではない(ヘブライ9:15、10:12)。
この契約は神の主権的な行為であって、神の約束によって人間は神との交わりに入れられる(ガラテヤ3:20、22)。人間は受け取る側にいるのみである。設定の詞と約束のことばは同義である。それゆえ、設定の詞こそミサの最も重要な部分なのであり、われわれはこの約束のことばを信頼しなければならない。神の賜物(beneficium)は、約束のことばを媒介にして、またわれわれの信仰を媒介にして来るからである。「サクラメントが執行される(opus operatum)だけでは十分ではない。それは信仰によって適用されなければならない(opus operantis)」(WA,Ⅱ,751)。
ローマ教会のミサの悪用に対するルターの戦いは、このような宗教改革の福音理解、すなわち、「わざではなく、信仰による義」から出ている。ミサに関するローマ教会の根本的な誤りは、恵みと信仰を分離させたことにある。恵みとは、今ここで人にかかわりあっておられる神ご自身である。その交わりによって神は人の生活の中に入り、不信仰を信仰に転換させる。それは、みことばとサクラメントを媒介にして人間に来たりたもう生けるキリストである。
イエスは、設定のことばがすべての弟子たちに聴こえるように語られた。そしてイエスは、パンとぶどう酒がすべての者によって食され、飲まれるように授けられた。従って、ミサの執行において必要なことは、第一にキリストのみわざが宣言されることであり、それは設定のことばの中に簡潔になされている。設定のことばこそミサの中心である。そして第二は、パンとぶどう酒が会衆に配分されることである。
中世のローマ・カトリック教会のミサにおいてはラテン語が用いられたため、会衆は重要なことばを全く知らなかった。設定のことばは省かれて読まれなかった。また、会衆はぶどう酒を受けられなかった。これに対してルターはドイツ語の礼拝式文を作り、設定のことばを民衆に聴かせた。そして、パンとぶどう酒の両方を会衆に与えたのである(二種陪餐)。
二章 神のみわざとしての礼拝
1 みことばの宣教
ルターが礼拝改革において最大の関心を持っていたのは、みことばをそのあるべき場所に戻すことであった。『礼拝順序について』という1523年のパンフレットの中で、ルターは、みことばを無視することが中世の礼拝の最悪の弊害である、と言っている。
ルターは「隠された神」と「啓示された神」の区別を教えた。また、ルターは、神ご自身とみことばの中の神との間の区別を強調した。神は本来、人間に隠されていて、近づきがたい方である。しかし、神はみことばの形をとり、ベツレヘムに生まれて地上にくだり、この世において宣教なさった。このような方として神は人間に啓示されている。このような方としてわれわれは神を知り、神との交わりを持つことができる。
神は、受肉のみことば、イエス・キリストによる以外、他のどのような通路からも近づくことを許したまわない。キリストは神に近づく唯一の道である。ルターのみことばの神学において、みことばはいつもキリスト論的に理解されなければならない。
みことばの宣教は武器であり、それによって神は敵を征服し、人類を奴隷の状態から解放される。この宇宙的な戦いは、神のことばなるキリストの受肉に始まっている。この戦いから離れて、みことばを理解することはできない。
みことばは神のみわざを啓示する。そして、みことばは「過去」を「現在」に変える。説教することはキリストをわれわれと同時代の人とすることであり、だからこそ、キリストの死と復活とがわれわれのものとなり、キリストが成し遂げられたあがないがわれわれの義となるのである。
神は聖霊によってキリストのあがないのみわざの恩恵を分け与えてくださる。ルターは言う、「福音の説教を媒介として聖霊によってわれわれにさずけられるほかに、あなたにせよ、わたしにせよ、キリストについて知り、キリストを信じることはできない」(WA,XXX,188)。
イエスの死についてのことばは、有罪宣言(律法)のことばである。それは、われわれをキリストとともに死なせるのである。そして、われわれは死のまん中でいのちを受ける。われわれをキリストと共によみがえらせることは、神の本質的なみわざであり、これが神の本来のことば=福音である。このように、律法と福音は、キリスト教の説教台の二重のメッセージとなり続ける。この二つは、神がキリストにおいて人類を扱われる仕方である。説教は律法と福音とを民衆の必要に応じて適用するのである。
ルターは説教こそ、みことばのとる本来の形であると主張した。元来、福音は書物ではなくて説教であり、教会はパンの家(Federhaus)でなくて口の家(Mundhaus)である。説教台は聖書台と会衆席の中間にある。それは古い聖書の真理を今日の会衆に適用することを示す。
聖書がまことに神のことばとなるためには、「わたし自身の物語」とならなければならない。みことばの持つ神的な本質は聖書の中に隠されている。聖書の中に神のみことばを見いだすためには、信仰が必要である。聖書の正しい理解は主の賜物である。それは、内なる光ではなく、テキストの真剣な研究によって人に与えられるものである。そのためには忍耐深い言語学的な研究を必要とする。
ルターの説教は聖書の解説であった。ルターは、日曜と祝祭日には、その日の日課を説教し、週日には聖書の一書を章を追って解説した。ルターの唯一の主題はキリストであった。彼の説教はことごとく、この大きなテーマについてさまざまに語ることであった。ルターにとって説教は、キリストがたえず「来臨」されることだったのである。
教皇の教会の説教者たちは、人間に与えられた賜物としてのキリストを示すことができず、彼らは福音を律法と化して、律法と福音を混同した。これは律法的説教である。それに対して、ルターはキリスト中心を強調し、キリストが手に入れて人々に提供なさる義を説教の主題とした。福音的説教は人々に慰めを与える「よきおとずれ」である。
説教者は律法と福音を区別することができなければならない。キリストの死と復活は、みことばにおいて宣言され、提供された現在的なリアリティーとして説かれなければならない。律法と福音のことばを通して、われわれはキリストのあがないのみわざの中へ引き入れられるのである。焦点はいつもキリストのみわざである。
ルターは言う、「主がミサを設定されたとき、『わたしの記念としてこれを行え』と言われたが、それは『あなたがたがこのサクラメントを行うごとに、わたしのことを説教すべきである』と言おうとされたのである」。ルターはいつも初代教会のキリスト教の説教とサクラメントとの統合の回復を目指していた。ルターは説教をミサの解説と定義した。ルターにとってミサは、キリストによって設定された新しい契約であり、福音を凝縮したものであった。あらゆるテキストの中にこのテーマを見いだし、これを解説することが説教者の主要な任務である。
2 聖餐におけるキリストの現在
ルターは、神の現在を二重の意味に定義している。第一は神の遍在である。第二は受肉されたキリスト、教会、そして礼拝における神の現在である。神はどこにでも現在される。これは神の自然的現在、遍在である。しかし、霊的には、みことばと信仰と礼拝が見いだされるところにのみ神は現在される。
罪深い人間には神は見えない。キリストにおいて見いだす他、どこにも神は見いだされない。キリストだけが「まことの神」であり、「まことの人」であるからだ。われわれにとってキリストこそ神への唯一の道である。
キリストが人となられて、ひとりの人間として悪魔に対して戦われたことは、キリストの王国の隠された本質を表している。というのは、神性は人性のもとに、福音は律法のもとに、キリストの勝利は今なお続く戦いのもとに隠されているからである。受肉者キリストの現在の事実は、神の霊的な現在が物的なリアリティを持つことを示している。この地上の最もありふれた物が、信仰によって神のことばと結びつけられる時に、霊的なリアリティーとなる。神が見られるのは、神がそのみわざにみことばを付加されたところにおいてのみである。
キリストは、みことばの説かれる所にはどこでも、人性において現在しておられる。いまキリストは、みことばを語っておられ、みことばを媒介として、悪魔と罪と死とすべてのものを、その人性によって支配なさる。キリストのみことばが説教せられ、サクラメントが与えられることによって、キリストのあがないの戦いはこの世で続いているのである。
神は物を媒介として人間に近づいておられる。神の霊的な現在は礼拝において実現される。キリストはみことばとサクラメントの中に見いだされるのである。礼拝におけるキリストの現在は秘義である。キリストは、説教のみことばの中に包まれている。また、みことばを媒介にしてキリストはご自身をサクラメントの中へ包みこまれる。主の晩餐においてキリストは「パンとぶどう酒のもとに」現在しておられるのである(WA,XXX,223,388)。
現在は実質の変化によっていない。パンとぶどう酒そのものは、キリストの現在の媒介物である。「これがどのようになされるのか、どのような有り様でキリストがパンの中にあられるのか、われわれは知らないし、また知ることを予想されていない。われわれは神のみことばを信頼すべきであり、神を制限すべきではない」(WA,XXⅢ,87)。
ローマ・カトリック教会では、実質変化の教え(化体説)によって、キリストはパンの中に局所化された。見えないものが見えるものとされ、霊的物質、地上的神とされた。そして、教会はキリストの現在を自由に扱うことができたのである。
これに対してルターは次のように教えて、反対した。「というのは、一般のパンはいつまでも同じパンであって、キリストと弟子たちがこれを祝福しても天の賜物とはならないことをわれわれは知っているからである。ヨハネ6章でキリストは、民衆の中でパンを配分し、そのパンのために神に感謝し、さんびされたが、それでもパンはありきたりのパンとしてとどまり、天のパンとはならなかった」(WA,XXⅢ,231)。
聖壇においてもパンとぶどう酒はそのままである。しかも、みことばが共になると、パンとぶどう酒はそれ以上のもの、すなわちキリストのからだと血となり、それはわれわれのために与えられるのである。
3 神の賜物の分与としての牧師職
礼拝は神の愛のみわざである。礼拝によって神はイエス・キリストにおける贖いの実をわれわれに分与される。このみわざは、みことばとサクラメントを媒介としてなされる。みことばは説教する人を必要とし、サクラメントは執行する人を必要とする。その必要を満たす役職が牧師職である。牧師職は機能であって、階級ではない。牧師職の唯一の目標は、他者に奉仕することである。
(続く)