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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

戦争と平和をめぐる諸問題について

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第6回日本伝道会議 神戸アナロギア社会委員会

研究発表「戦争と平和をめぐる諸問題についてレジュメ

金井 望(日本イエス・キリスト教団神戸大石教会 牧師)

日時 2015年7月21日(火)午後4時から

場所 活けるキリスト一麦西宮教会

 

 

  【はじめに】

 

 今回は「戦争と平和」というテーマですが、ちょうど今開かれている国会で、集団的自衛権の限定的な行使を可能にすることや自衛隊の活動範囲を拡大することなどを含む「安全保障関連法案」が審議されています。この法案は7月17日に衆議院本会議で可決されました。「60日ルール」により、参議院で採決に至らなくても、衆議院で再可決ができるため、この法案の成立は確実視されています。戦後70年の節目の年に、日本国の国防・安全保障体制は大きく変わろうとしています。
 「戦争と平和」は巨大なテーマです。今回は30分間というわずかな時間しかありませんので、これに関する諸問題の論点を整理させていただきます。来年9月の日本伝道会議に向けた備えの一端となれば幸いです。

 

 (注)以下、お読みいただくと、すぐにわかることですが、「戦争」と「平和」に関する聖書の解釈やその実践的適用には、プロテスタント福音派にも多様な考えと立場があります。この記事に引用した文章は、鵜呑みにせず、「本当かな」、「これでいいのかな」と考えながら、お読みになられることを、お勧めします。特に、終わりに載せた、日本福音同盟の声明と、その下にある社会委員会の声明には、筆者は賛成しておりません。

 

【1】聖書は戦争と平和についてどのように教えているか

 

■せんそう 戦争(出典:『新聖書辞典』いのちのことば社

 戦争を表すヘブル語はツァーバー,ラーハム等種々あるが,最も一般的で聖書に多く使用されている語が、ミルハーマーである(ヨシ14:15,士21:22等).この語は「戦う」という語と同じ意味で,旧約では頻繁に使われている.新約でも種々の訳語があるが,〈ギ〉ポレモスが一般的である(マタ24:6,ルカ21:9等).

 戦争はイスラエル人にとって自分たちの意志で勝手にできるものではなく,神の主導による聖戦であり,戦いは「主の戦い」(第一サム17:47,18:17)であった.したがって,戦争を始める前はもちろん,戦闘中でも絶えず神意を尋ねた(士1:1,20:23,第一サム14:37,第一列22:6).時にはウリムやエポデでうかがいを立てることもあり(第一サム28:6,30:7‐8),また預言者に聞くこともあった(第一列22:7‐8).

 いよいよ戦争となれば,まず斥候を派遣して敵情視察をした(民13:17,ヨシ2:1,士7:10‐11,第一サム26:4).そして,家を新築したがまだ奉献していない者,ぶどう畑を作ってまだ収穫していない者,婚約しているがまだ結婚していない者は兵役を免除された(申20:5‐7).また,臆病者は退けられた(申20:8).

 戦闘開始や進軍にはラッパや角笛を吹いて神の名を呼び求めた(民10:9,ヨシ6:5,士7:20,第二歴13:12).さらに戦闘中はささげ物や断食をもって神の助けを仰いだ(第一サム7:5‐9,第二歴20:1‐12).

 戦術としては種々あったが,一つは伏兵をもって敵の町を襲う方法であった(ヨシ8:2,士20:29,第二歴13:13,20:22,エレ51:12).また奇襲攻撃をすることもあった(士7:16‐22).また両軍の代表同士が戦って決着をつけることもあった(第一サム17:1‐51).

 さらに兵を前後に分けて挟み撃ちにする戦術もとられた(第二サム10:9‐14).また目標を定めて集中攻撃をすることもあり(第一列22:31‐33),雄たけびによる威嚇戦術に出ることもあった(第一サム17:52,エレ4:19,50:42).

 戦後処理として,戦勝者は敵を捕虜にした(第一サム30:2,第二歴28:8,イザ14:2,エレ41:10).捕虜を殺すことも生かすこともでき(第二サム8:2),時には捕虜の手足の親指を切断することもあった(士1:6).また捕虜を自国へ移住させることもあった(第二列17:6).

 また戦勝者によって略奪が行われた(士8:24‐26,第一サム31:9,第二歴20:25)が,イスラエルの民は,いっさいのものを聖絶することを神によって命じられることがあった(申20:17,ヨシ6:21,8:24).戦勝者は歌と舞踊と楽器をもって勝利を祝った(出15:1‐18,士5:1‐31,第一サム18:6).

 戦争はなぜ起きるか,その原因は何か,それには種々の理由があるが,根本的には「からだの中で戦う欲望」であり,不信仰である(ヤコ4:1‐4).神はイスラエル人が高慢になると彼らに敵を送り(イザ9:11),主の前に行ったに対してはをもって報いた(第二サム12:10).神に頼らず,他国と軍事同盟を結ぶ不信仰を罰し(エレ2:18‐19,ホセ7:11‐12),偶像崇拝によって異なる神々に仕えた刑罰として神は敵を用いて戦争を起させる(エレ5:6‐9,エゼ7:8‐9).神は偶像崇拝や不信仰に対して全世界の人々をさばかれるのである(イザ13:3‐22,34:2,ロマ1:18‐32).また聖書には,神の聖定による戦争についても記されている(申7:1‐26).

 しかし,聖書は戦争を全面的に肯定しているのではない.悲惨な戦争が絶え,地上に永久的な平和が実現することが、預言者たちの祈りであった(ホセ2:16‐19).そしてその永遠の平和をもたらすメシヤが待望されたのである(イザ9:6‐7).

 新約においては直接具体的な戦争についての言及と言えば、再臨の前兆として語られたイエスのことばである(マタ24:6,マコ13:7).しかし,霊的戦いやサタンとの戦いを戦争にたとえて語っている箇所は多い(マタ12:25‐27,ルカ11:17‐19,エペ6:11‐17,第二テモ2:3‐4,黙12:7‐8).キリスト者が戦うべき敵はであり(ヤコ4:4),欲望であり(ヤコ4:1,第一ペテ4:2),悪魔悪霊であり(マタ4:1‐11,エペ6:12,第一ペテ5:8),である(ヘブ12:4).パウロは兵士としてのキリスト者の任務は神の武具を身につけ(エペ6:11),祈り(ロマ15:30,エペ6:18),目を覚して信仰に固く立ち(第一コリ16:13),苦しみやすべてのことに耐えることであると言っている(第二テモ2:3,10).

 イエスの戦争観について,聖書は直接語っていない.戦争の事実は認めているが(マタ24:6),しかし,新約全体を通して「殺してはならない」(マタ5:21,19:18,ヤコ2:11)と教え,弟子の一人に「剣を取る者はみな剣で滅びます」(マタ26:52)と言われたことを見れば,イエスの戦争に対する姿勢が理解できよう.                            (国吉守)

 

■せいぜつ 聖絶(出典:『新聖書辞典』いのちのことば社

 〈ヘ〉ヘーレムあるいはハーラムの訳語として,レビ記,申命記,ヨシュア記などに用いられる.原語は「閉じる」を意味するところから,一般的な用途に当てることを禁じ,神のために聖別すること,あるいは,そのささげられたものを意味した.「すべて聖絶のものは最も聖なるものであり,主のものである」(レビ27:28).

 申7:1‐6において,7つの異邦の民の聖絶が命じられている.それは,主の聖なる民が,入植地カナンの宗教によって腐敗させられないためである.したがって,神への奉納物は,ここでは,「忌みきらうべきもの」(申7:26),のろわれるべきもの,滅ぼし尽されるべきもの,根絶やしにして除くべきものを意味している.

 カナンに入って最初の町エリコを聖絶すべき戦いにおいて,アカンは「主のために聖絶し……聖絶のものに手を出すな」(ヨシ6:17‐18)との命令に背き,全イスラエルに災いをもたらした.そして彼自身が聖絶のものとなった(参照申7:26).

 このような聖絶の目的は,先住民が「その神々に行なっていたすべての忌みきらうべきことをするようにあなたがたに教え,あなたがたが,あなたがたの神,主に対して罪を犯すことのないため」と説明されている(申20:18).

 〈ヘ〉ヘーレムに70人訳が当てた〈ギ〉アナセーマは,新約聖書において,強いのろいの表現,共同体からの除名を意味する用語として用いられている(Iコリ16:22,ガラ1:8‐9).このことばは,誓約において,その誓いを破った場合,どのようなのろいが降りかかってもよいという固い誓いを意味している(使23:14).

 新約時代のもとでは,旧約のような聖絶の戦いはあり得ないが,キリスト者は聖なる神の民として聖なる者となるべきであるという聖別の生活原理は使徒たちによってしばしば勧告されている(第一テサ4:3‐7,第二テモ2:19‐21,第一ペテ1:15‐16等).

 

■せいせん 聖戦(出典:『新聖書辞典』いのちのことば社

 「聖戦」ということばそのものは聖書にはない.しかし,聖戦の思想は旧約聖書の中で繰り返し強調されている.すなわち,聖戦とは,主なるヤハウェの戦争であり,主御自身が戦いの主であり,敵は神の敵なのだという確信に立ってなされるものである(出15:3,民10:35).主御自身が「この戦いはあなたがたの戦いではなく,神の戦いである」と宣言している(第二歴20:15,17,32:7‐8).しかも,神は御自身の民イスラエルのために戦われるのであり(申1:30,3:22),彼らに勝利を与えるのも主である(申20:4,第一サム19:5,第一歴11:14,詩98:1).

 イスラエル出エジプト時の戦い,荒野放浪時代の戦い,カナン侵入時代の戦い,王国時代の戦いもすべて聖戦であった(出14:13‐31,17:8‐16,ヨシ5:13‐6:21,第一サム11:1‐13).しかも,この戦いにおいて主の命令はきびしく,しばしば聖絶が要求された(申20:17,ヨシ6:17,21).しかし,神は無条件にイスラエルに勝利を与えられたのではない.イスラエルが神の選民として,人類救済の器であるという自覚を忘れ,神に対して不服従や偶像崇拝の罪を犯した時には,神はあえて敵を起し,イスラエルをその戦いで敗北させるという形で,彼らをさばかれた(ヨシ7章,エレ5:15‐19,アモ6:14).イスラエルは聖戦を遂行する神の兵士として,神の前に常に謙虚でなければならず,高慢になれば徹底的に打ち砕かれた(イザ10:5‐19).

 このように神が聖戦を遂行されたのは,第1に,神は聖なる神であり,この地上の人類はアダムの罪によって汚れているゆえに,神は御自身の聖と義を示す必要があった,第2に,カナン文明が罪の文明であり,神はイスラエルを用いてカナン文明をさばく必要があった,第3に,神は契約の神であり,神が族長たちに約束した土地をイスラエルに与えるためであった.

 そして聖戦も規定に従って行われた.たとえばある町を攻略しようとする時は,まず彼らに降伏を勧め,それに同意すれば彼らを苦役に服させるだけで許し,同意しなければ,男は一人残らず剣で打ち殺し,女,子供,家畜,すべての略奪物を戦利品とした(申20:10‐15).しかし主が相続地として与える地のカナン人,ペリシテ人などはすべて必ず聖絶しなければならないと命じられている.それは,先住民が行っていた異教的風習から民を守るためであった(申20:16‐18).

 新約には聖戦の思想は見当らない.キリスト者の戦いは「血肉に対するものではなく,主権,力,この暗やみの世界の支配者たち,また,天にいるもろもろの悪霊に対する」戦いであり(エペ6:12),サタンとその策略こそ徹底的に撃退されるべきものである(マタ4:10,16:23,黙12:9).

 

■へいわ 平和(出典:『新聖書辞典』いのちのことば社

 〈ヘ〉シャーロームイスラエル人にとって,「シャローム」は日常生活における代表的なあいさつであり,祝福のことばである.そしてイスラエル人にとって平和は神がつくるものであり(イザ45:7),神こそ平和の根源であった(ヨブ25:2).

 シャロームにはただ戦争の対立概念としての平和という意味だけでなく,政治的な意味を越えたもっといろいろな意味が含まれている.たとえば,平安(創15:15,出18:23,詩4:8,イザ55:12),繁栄(詩73:3),健康(詩38:3),和解(ヨシ9:15,第一列20:18)などである.

 以上のようにイスラエル人にとって平和は人間生活におけるすべての恵みを表し,これこそ神のわざ,神の賜物である(レビ26:6,詩29:11,122:6‐8,イザ26:12).しかし,平和は神との正しい契約関係において与えられるものであり,神との正しい関係が破れると平和も破れる(詩85:8‐10,イザ26:3,エレ16:5,29:11,エゼ34:25,マラ2:5).聖書は義と平和の密接な関係について述べている(詩85:10,イザ32:17‐18,57:1‐2,59:8,60:17).

 新約において平和は〈ギ〉エイレーネーである.これは旧約の〈ヘ〉シャーロームの持つ意味を継承しており,キリストにおいてその意味はさらに強められている(ヨハ14:27,ピリ4:7).主によって与えられる平和は旧約時代から預言されていた(イザ9:6‐7,52:7,60:17,ハガ2:9,ゼカ9:10).人間は罪のためにこのすばらしい真の平和を知らず,暗やみの中を歩んできた(イザ59:8‐9).しかし,キリストの来臨は平和の君の到来であり,旧約時代から待ち望まれていた平和の実現であり,キリストの福音は平和の福音である(ルカ1:79,使10:36,ロマ5:1,コロ3:15,第二テサ3:16).

 「わたしは,平和をもたらすために来たのではなく,剣をもたらすために来たのです」(マタ10:34.参照ルカ12:51)との主のことばを文字通りにとる必要はない.妥協のない真の平和は争いや分裂や迫害を通してやってくる.偽りの平和に惑わされてはならない(エゼ13:10,16,第一テサ5:3).キリストこそ敵意を廃棄してまず神と人との平和を確立させ,そこから人と人との和解,国と国との平和を実現する根源である(エペ2:14‐19).

 今日の国家間の対立や国際的緊張に対しても、キリスト者平和の使者,平和をつくる者(マタ5:9)でなければならない.終末に向けて,サタンはますます強く平和を奪うために働くであろう(参照黙6:4).

 

 

【2】キリスト教は2000年間、戦争と平和についてどのように考え関わってきたか

 

■せんそう 戦争(出典:『新キリスト教辞典』いのちのことば社

 戦争は,常に人類の歴史とともにあった.どの国の歴史をとっても,戦争で色濃くつづられている.

  1.どうして戦争が起るのか.

 普通戦争とは,集団間の武力による闘争のことを言う.戦争の原因は種々ある.領土の地理的拡大を求めて,国境線の拡張を目指す戦争.そこには,侵入と略奪が常に伴う.支配者の名誉のために,ただ支配力の増大を求めてのものもある.バベルの塔以来,人類は異なる人種,民族に分離されてきた.世界統一を目指した王たちもあったが,これまでのところ,そのつど,道半ばにして願望は閉されている.今日のように交通手段が発達し,情報がすぐ手に入り,人道主義的世界観の進展によって国同士の接近があったとしても,世界が一つになるのは至難のわざである.

 また,異なる人種間の争いもあれば,宗教的な是非を巡るものもある.

 さらにもう少し複雑になると,内国に不統一や不穏な動きがあって,国民の目を外敵に向けるため,また名誉を傷つけられたことに対して仕返しをするために,戦争が始められることもある.国と国との勢力均衡が破れ,自国の平和が脅かされるような時や,他国の内部事情が自国の権益にも関係する時等にも,戦争は起る.また,自国を防衛するための戦争もあるだろう.

 しかし,どのような戦争においても,経済的な要因があったことを見逃すことはできない.つまり,食糧資材等の獲得や保護,国土財産の所有,ということがほとんどの場合いつでも戦争を始める動機となり,目算となると言えるだろう.たとい開戦の大義名分が,名誉,正義,自由等の美名におおわれたものであったとしてもである.十字軍を見ても,宗教的に彩られた大義の背後に,権力の拡大という野心が秘められていたことは疑えない.

 先の太平洋戦争も,その背後には植民地の拡大を目指す列強の衝突があったし,直接的には米国に石油を止められたことが,引き金となったと言える.

 今日の局地的に見られる戦争においても,やはり,局所的に産出する金属石油などの獲得が戦争の要因であるし,経済的勢力圏,政治的勢力圏の確保が大きな戦争力学となっている.

 現代はもう少し複雑で,必ずしも戦争による経済的受益国が戦場になっているわけではない.朝鮮戦争ベトナム戦争の戦争特需で豊かになったわが国のようなケースもあるが,いずれにしても,戦争と経済は密接に関係している特定の軍需産業の,武器販売による金もうけが水面下でうごめいている.それによって利益を得ている政府は,武器の製造を容認することであろう.

 

  2.聖書は戦争について何と言っているか.

 それでは,聖書は戦争をどう見ているのだろうか.ある聖句を見れば,戦争を真っ向から否定しているようでもあるし,別の聖句を見ると戦争の存在を容認しているだけではなく,信仰者の参加を命じるところもある.従って,断片的な聖句をもって,短絡的な結論を急ぐのではなく,すべての倫理的な課題の取組がそうであるように,聖書全体と現実の問題を突き合せ,総合的な判断をする必要がある.

 (1)旧約聖書

まず,代表的なところでは,十戒の「殺してはならない」(出エジプト20:13)がある.これは直接戦争に言及することばではないが,戦争が常に相手を殺戮することと背中合せであることを思えば,深いかかわりのある箇所である.バルトも『キリスト教倫理Ⅲ―生への自由』の中で,戦争を,この聖句との関連で論じている.確かに戦争は,殺人との関連で考えられるべきである.

 しかしまた,その同じ律法が,そのすぐ後のところで,この律法に従わない者に死刑を命じているのである.

 旧約聖書には,戦争の記事が多い.イスラエルの民を巡る戦争は,神の明白な意図と命令によって行われた戦争であった,と考えられている.主なる神の命じた戦争であるから,それは聖戦であった.しかし,だからといって聖書がどんな戦争でも肯定している,ということにはならない.なるほど,旧約聖書には戦争の記述が多々あるが,それでもそれは歴史の記録として,事実を記しているのであり,戦争の正当性の擁護のためではないのである.

 その一方で,イザヤなどの旧約の預言者は戦争の絶滅こそ,メシヤ到来のしるしであるとの平和の使信を伝えたのである.

 (2)新約聖書

 新約聖書もまた,山上の説教に見られるように,無抵抗の絶対平和主義を標榜しているようでもあるし,和解の福音に生きるキリスト者は,平和に生きるように勧められていて,平和主義を全面的に支持するかのように見える.

 しかし,それでも,信仰者が戦争と何らかかわりを持たずに生きられる,とは書かれていないのである.かえって終末の時代にあっては,戦争と戦争のうわさはやまない(マタイ24:6)と明記されている.

 また,キリスト者個人の生き方としては,自分で復讐するな(ローマ12:19),と言われているが,同じ手紙に,政府は,悪を行う者に報いを与える剣が与えられていること(ローマ13:4)が記されている.この世の政治的権力者が神のしもべとして剣を帯びており,悪をさばくことが認められていて,その中には戦争への招集の可能性が含まれているのである.

 ここで忘れてはならない一つの大切な視点は,そのみことばがその人個人に言われたことなのか,それとも市民国家の役割についての言及なのか,ということを判別することであろう.

 聖書全体から見ると,戦争は積極的に肯定されてはいないが,他方,考え方一つでなくなるものだとも言われていない.戦争とは,個人が神から離れた罪人であり,生れながらの人が欲望のままに生きることに,端を発する.確かに,冒頭で見たように戦争の原因は欲望,不平等の克服,主義主張の違いによると言える.しかし,究極的な戦争の原因は,正義と不義,神と悪魔,真理と虚偽といった相反する原理がこの世に存在し,調和することのない力が働いていることによるのである.

 

  3.歴代のキリスト者の戦争に対する態度.

 (1)初代及び古代教会.

 初代教会はおおむね,戦争に対しては否定的で平和主義であったと言える.また,キリスト者は社会では少数派であって,迫害を受ける中で,困難ではあったが兵役につくことを拒否した.テルトゥリアーヌス,キュプリアーヌス,オーリゲネース等は戦争に反対する書を書き残している.

 (2)中世.

 コンスタンティーヌス帝の時以来,キリスト教は公認され,国家教会の命運は共通のものとなり,その結果戦争は教会に公認されるものとなった.戦争を真っ向から肯定することはなかったが,正義の戦いとして位置付けるようになった

 アンブロシウスは,周囲の″蛮族″からローマ帝国を守ることは,信仰の防衛であると考えて,キリスト者の参戦に同意した.

 アウグスティーヌスは,地上に完全な平和を期することはできないと考え,キリスト者個人としては,地上で戦争に巻き込まれることは避けられないとした.正義の確立と平和を目指す戦争を,必要に迫られてのものならという条件付きで認めた.天国の永遠性,完全性の前に,地上の国を相対化したのである.

 中世の正義の戦争という考えを具現したのは,何と言っても,8回にわたって挙行された十字軍である.この十字軍を正当化するために,正義の戦いという概念は深められたとも言える.聖ベルナルドゥスは,殺す者はキリストに利益をもたらし,死ぬ者は自分に利益をもたらすとして,勇敢に戦うことを奨励した.

 トマス・アクィナスは,正しい権威,正しい理由,正しい意図,つまり悪を退ける目的を持つという条件付きながら,正義の戦いを肯定した.彼の考え方は,中世の教会の考え方の集大成と言える.

 (3)宗教改革者たちの戦争観.

 ローマ帝国が崩壊し,多くの領邦国家が群雄割拠する時代となっても,教会が国家と密接な関係にあったという点では,中世とあまり変らないと言える.だから,教会が戦争から隔離されるということもなかった.

 ルターは1526年に『軍人もまた祝福されるか』という本で,この問題に言及している.宗教上の戦いは否定したが,政府がこの世の正義を保つための戦争は認めた

 この点では,カルヴァン及び彼の後継者はさらに,正義の戦いを肯定し,その神学においてだけではなく,実際の行動においても戦闘的であったと言える.これは,いつも外敵に囲まれていたジュネーブ等の状況によるところも大きい.

 しかし,アナバプテスト派は,戦争に参加して武器を取り,流血することを拒否し,絶対平和主義を貫こうとした

 宗教改革の時代に続く時代は,血で血を洗う,宗教戦争の暗黒時代となった.正義の戦いは,もともと獲得よりは防衛を目指す性格のものであったが,過剰防衛になる時,その正当性を失っていった.正義の戦いと称しつつも,その実,略奪であるものも少なくなかった.戦争は最後的手段であるべきなのである.

 (4)啓蒙期の戦争観.

 この時代特有の,進歩的で楽天的な人間観によって,戦争は早晩なくなるといったふうな平和主義を唱える者が多く出た.カントの永久平和についての論文は有名である.

 また反面,思想家たちが,教会を超えたところで自由に一人歩きしだしたことから,社会の問題が,信仰と別次元で論じられるようになった.国家主義世俗主義の発芽も見られる.

 ヘーゲルは,この世界を絶対精神の発展過程として,国家をその最高の実現と考え,戦争をその国家の自己実現のための必然的な手段として,積極的に肯定した.それはナチズムの発芽となった.教会もこうして,世俗国家の国家至上主義に直面しなければならなくなっていった.

 (5)現代.

 あらゆる形の,平和のための努力にもかかわらず,戦争はなくならず,ますますその規模を拡大してきた.それとともに国家権力は強大になり,教会は戦争参加を国家から強要された.ドイツ告白教会の人たちのように,戦争反対行動をとる者もいたが,大部分は,参加すること以外に道はないと考えた.日本の戦前・戦中の教会も,戦争を進める国家に対して,一部を除き,反対らしい反対をしなかったばかりか,積極的に教会員が協力するように働きかけた

 また,第2次世界大戦後は,核の時代となり,もはや正義のための戦いなどというものは,実際上成立しなくなっている核兵器の破壊力は度外れていて,平和のための威嚇などということを,とっくに通り越しているのである.キリスト者の間でも,平和運動が盛んになった

 以上,大まかに,キリスト者の戦争に対する姿勢を,時代を追いながら見てきた.まとめれば,平和主義に立って,戦争に参与しないか,正義の戦いもしくは聖戦という限定付きではあるが,戦争に参加するかの,どちらかである.平和主義は数の上では圧倒的に少数派であったと言える.

  4.今日のキリスト者と戦争.

 化学技術の発達は,兵器や戦争自体を変えた.かつては,戦争の倫理の関心は,主として兵士になるべきか否か,ということだった.しかし,ABC兵器(A.原子爆弾,B.細菌爆弾,C.化学兵器)の時代は,国際法の戦争の取決めの範囲を超えるものである.正義のための戦争という概念を意味のないものにする.軍隊と一般市民,戦闘員と非戦闘員とをもはや区別できないからである.キリスト者が積極的ではないにせよ,容認してきた武器による戦争の大義は,せいぜい,(1)武器は威嚇の手段であって,義を守るため,(2)力の行使によって,相手に義の平和を強要することが戦争の目的である,というようなことであった.

 しかし新兵器は相手の威嚇や自らの防衛を飛び越え,殱滅しかもたらさない.防衛戦争は実質的に成立しなくなった.戦争は全体的であり,自分だけをそこから隔絶するというようなことはあり得ない.

 キリスト者が,戦争の問題に関して発言する時,この罪の世に対し,全くの武力の行使なしに正義を保持することができるかどうか,ということを考えておかなければならない.政府・国家は,正義が行われるように行政を行い,人々の放縦を防ぎ,悪の侵害から市民を守る任務を帯びている.また悪に対しては,罰をもって正義の秩序を保つために,を与えられているのである

 戦争が起きる前に,教会とキリスト者は,ありとあらゆる方法で戦争に反対し,また政府の行動を見守り発言しなければならない戦争は,明らかに聖書の戒めに反し,福音的生き方に矛盾する.ぎりぎりのところまでそれに反対すべきである.国家の正常な任務は,自国の中での正しい平和形成と,国家間における戦争回避のあらゆる処置に努めることである.この任務が滞れば,人間ではなく営利資本が政治の対象となり,戦争が起きるのである.

 だから,キリスト者は隠遁者となってはいけない.どんなに微力でも,地の塩・世の光として,社会の中で声を上げ,行動する者でなければならない.また,戦争と悪の問題の根本的な解決は,福音の使信にあることを覚え,日々福音宣教に務め,日頃のあかしを通じて,平和を行い世論の中に道徳的影響力を持たねばならない

〔参考文献〕R・H・ベイントン『戦争・平和・キリスト者』新教出版社,1963;K・バルト「戦争の問題」『キリスト教倫理Ⅲ―生への自由』新教出版社,1964;ゴルヴィツァー『自由の要求』新教出版社,1964;P・C・クレイギ『戦争と聖書』すぐ書房,1990.               (片岡伸光)

  

アウグスブルク信仰告白

(出典:西日本福音ルーテル教会ウェブサイト http://www.wjelc.or.jp/office/credo/augsburg/

第十六条 公民生活について

 公民生活について、われらの諸教会は、かく教える。正当な公民規定は神の善き御業である。すなわちキリスト者が、公職につき、裁判に列し、現行の国法や他の律法によって諸事件を決定し、正しい刑罰を定め、正しい戦争に従事し、兵士として行動し、法定取引や契約をし、財産を所有し、裁判官の要求の際宣誓をし、妻をめとり、或は子女を婚姻させることは正当である。(中略)同時に、福音は国家或は家族の秩序と管理とを破壊しないで神の秩序としてそれを保持し、また、このような制度の中で、を実践することを特に要求する。それゆえ、キリスト者は、その為政者や、法律に従わねばならない。ただし、彼らが、罪を犯すことを命令する時は、この限りではない。なぜなら、その時はキリスト者は、人に従うより神に従わねばならないからである(使徒5:29)。

 

ウェストミンスター信仰告白
(出典:日本基督改革派大垣教会ウェブサイト http://www.ogaki-ch.com/WCF/text/

第23章 国家的為政者について

1 全世界の至上の主また王である神は、ご自身の栄光と公共の益のため、神の支配のもと、民の上にあるように、国家的為政者を任命された。そしてこの目的のために、剣の権能をもって彼らを武装させて、善を行なう者を擁護奨励し、また悪を行なう者に罰を与えさせておられる(1)。

  1 ロマ13:1-4、Ⅰペテロ2:13,14

2 キリスト者が、為政者の職務に召されるとき、それを受け入れ果たすことは、合法的であり(1)、その職務を遂行するにあたって、各国の健全な法律に従って、彼らは特に敬けん正義平和を維持すべきであるので(2)、この目的のために、新約のもとにある今でも、正しい、またやむをえない場合には、合法的に戦争を行なうこともありうる(3)。

  1 箴言8:15,16、ロマ13:1,2,4

  2 詩2:10-12、Ⅰテモテ2:2、詩82:3,4、サムエル下23:3、Ⅰペテロ2:13

  3 ルカ3:14、ロマ13:4、マタイ8:9,10、行伝10:1,2、黙示17:14,16

 

 

  【3】日本のキリスト者=教会は、戦争と平和にどのように関わってきたか。

 

■戦後 70 年にあたっての JEA 声明(出典:日本福音同盟ウェブサイト 

http://jeanet.org/wp/wp-content/uploads/2015/06/5c26620e075b65bfb8cd1cd4d47cc80b.pdf

 

 私たち日本福音同盟(以下 JEA)は、主である神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、戦後 70 年を迎えた日本と世界に福音を証し、平和を造り出す者となるため、以下のように声明します。

 第二次世界大戦後の日本において、聖書を誤りなき神のみことばと信じる、私たち福音派キリスト教会が結集した原点には二つの軸がありました。すなわち聖書の規範性と基本教理をないがしろにする自由主義神学との対峙、そして戦時下でイエス・キリストだけを主とする信仰告白を弾圧懐柔した天皇制・国家神道体制を標榜するナショナリズムとの対峙です。

 1959 年の「日本宣教百年記念聖書信仰運動大会宣言」は「聖書、即ち万物の創造者であり、又人類歴史の支配者である神の誤りなき御言葉によって、我らは…次の宣言をなし…証しの言葉とする。」として、以下のように述べています。

「一、我らは…一切の偶像崇拝を廃棄すべき聖書の命令に応えることに於いて、欠けたところの多かったことを神の前に反省し、痛切なる悔改めを告白する。

二、我らは聖書によって、国家と教会が、共に神の主権の下に立つ、二種の相異なる正当な秩序であることを認め、政教分離の原則に基づき、信教自由の基本的人権を保護する現行憲法を、その点に関して聖書的と認めて支持する。

三、我らは我が国に於いて、右の政教分離の原則が無視され、信仰の自由が甚だしく圧迫された過去にかんがみ、今後国家行事の中に、宗教的要素の混入することのないように監視し、かかる過誤の排除に積極的に努力する。…」

 以上の三点を貫いて、国家と教会との正しいあり方のために、我らは一つの聖書信仰によって協力して信仰のよき戦いを戦うことを誓う」

 翌年の 1960 年、この流れの中から、後に JEA の設立三団体の一つとなる日本プロテスタント聖書信仰同盟(JPC)が成立し、特別委員会として聖書翻訳委員会と伊勢神宮対策委員会が設けられました。前者の働きを受けて 1961 年に新改訳聖書刊行会が設立され、1970 年に新改訳聖書が出版されました。後者は 1967 年以降の靖国神社国家護持反対運動につながっていきました。そして 1968 年、「聖書はすべて誤りなき神のみことばであり、信仰と生活の唯一の基準である。」(JEA 規約第 3 条 1)との信仰によって JEA が設立されたのです。

 私たち JEA は、1995 年の「戦後 50 年にあたっての JEA 声明」の中で、第二次世界大戦時下に、皇国史観ナショナリズムに迎合して神社参拝という偶像礼拝を犯し、皇国の道に従うことを第一としてアジア諸国への侵略加害に加担したキリスト教会の罪責の悔い改めと謝罪を表明しました。2005 年の「戦後 60 年にあたっての JEA 声明」では、その土台の上に第四回日本伝道会議(2000 年)の「沖縄宣言」を引用し、和解の福音の使者として、遣わされた所で福音を宣べ伝え、平和を造り出す者となる決意を言い表し、それぞれの場所で取り組みを進めてきました。しかしながら、この 10 年の歩みを振り返るとき、それらの言葉の内実を問い、具体化することにおいて十分であったとはいえません。そのことを率直に認め、主の御前に悔い改めを新たにします。

 戦後 70 年を迎え、戦時下の生の証言を聞くことが難しくなりつつある今、自国中心の歴史修正主義が台頭し、アジア諸国の人々へのヘイトスピーチ問題などにみられる民族差別が顕在化しています。国旗・国歌の強制、一部の閣僚による神社参拝の常態化など、信教・思想の自由を脅かし、天皇制・国家神道体制の復活につながるような動きもみられます。また特定秘密保護法制定、沖縄の米軍基地問題閣議決定のみによる集団的自衛権行使容認の流れの中で、戦後日本のあり方を大きく変更しようとする安全保障関連法案が国会で審議されています。キリスト教界においては、戦前と同じような日本的キリスト教を標榜し、皇国史観ナショナリズムに迎合するような動きが再びみられるようになってきています。

 このような中で、私たち JEA は、戦時下における日本の教会の罪の歴史と悔い改めの決意を次世代に伝えます。そして戦後日本の福音派キリスト教会結集の原点を改めて心に刻み、現在の日本において、聖書を誤りなき神のみことばと信じる聖書信仰のゆえに、神の似姿として創られた人間の尊厳といのちを脅かし、敵意と争いを生み出すあらゆる力に抵抗し、イエス・キリストの十字架にあらわされた神の愛を人々に伝えると共に自ら生き、家族・地域・社会でその愛による平和と和解が実現していくように努力します。また、国家と社会に対して聖書の規範性とイエス・キリストの主権性を告白し、信教・思想の自由を守り、イエス・キリストだけを主とする信仰に生きることを通して、国家と教会の正しい関係を指し示します。そして、聖書信仰に立つアジアと世界の諸教会と連帯・協力してキリストの福音を世界に満たすと共に、なおも諸外国との和解を妨げている課題に取り組むことを通して和解の福音を生き、さまざまな虐げの中にある人々、社会的弱者、小さくされた人々と共に立ち、平和を造り出す者となることをここに表明します。

 

「見よ。ひとりの王が正義によって治め、首長たちは公義によってつかさどる」イザヤ書 32 章 1 節

 

2015 年 6 月 3 日

日本福音同盟第 30 回総会

理事長 中台孝雄

総会議長 梅田登志

 

 

【4】今、日本と世界で起こっている諸問題をどのように考え、どのように対処するか

 

■安全保障関連法案についての声明 JEA社会委員会(出典:日本福音同盟ウェブサイト)

 

 現在、国会では政府提案による、安全保障関連法制に関する法案審議が始まっています。

 この法案は、これまで憲法解釈上許されないとしてきた集団的自衛権の行使を容認するという、昨年7月1日の閣議決定に基づくものであり、戦後 70 年にわたってこの国が守ってきた平和主義のあり方を 180 度転換するものです

 私たち日本福音同盟は、「戦後 60 年にあたっての JEA 声明」(2005 年 6 月 8 日)において、「私たちは福音的なキリスト者として、戦後間もなく制定された日本国憲法の掲げる《国民主権に基づく人権尊重の徹底した平和主義・国際主義》が、根本において福音の主であるイエス・キリストの理念と精神に合致するものであることを認めるので、それに大きな誇りを抱くとともに、その実践と実現のために力を尽くしたいと念願しています」と表明しました。また同じ声明の中で、「現今の有事法制化に伴う第9条改正(実は改悪)の動きを阻止するため、私たちはあらゆる努力を傾けます。『キリストこそ私たちの平和である』(エペソ2:14)と信じるキリスト者として、私たちは憲法第9条を守るために、キリストにあって『心を一つにし、ともに奮闘』することを誓います」と言い表しています。

 今回の憲法9条の解釈変更による安全保障法制に関する法案は、戦後一貫して厳格に守ってきた「専守防衛」という歯止めを、一内閣の解釈によって覆すことであり、立憲主義の否定です。また、武力による威嚇を紛争解決の手段として用いないとする憲法9条の趣旨を根本から変え、特に自国を攻撃していない相手に対しても攻撃できるという集団的自衛権の行使容認は、日本国憲法の理念の一つである国際平和主義」の放棄であり明確な憲法違反です。第二次大戦後「自衛と平和秩序の維持」の名目で行われた様々な戦争が、平和と秩序をもたらすどころか、激しい混乱と敵意と憎悪を生み出すものでしかなかったことを、歴史が証明しています。自衛隊の海外派兵と武力行使も、紛争のさらなる拡大を助長することになりかねません。私たちは聖書の教えに基づき、まことの平和がによっては実現されず、まことの平和の君であるイエス・キリストによってのみもたらされることを信じ、イエス・キリストから「平和をつくる者は幸い」との言葉を与えられた者たちとして、今、この時の、この国の大きな方向転換と平和主義の放棄を看過することができません。

 私たちはここに、安全保障関連法案について重大な憂慮の念をあらわします。そして、この国が再び戦争の惨禍の中に進むことのないように、武力行使によって誰のいのちも奪い、奪われることのないように、剣による平和でなく、キリストの愛による平和を作り出すために、祈りをあわせ、一致して励むことをここに表明します。

 

「彼らはその剣を鋤に、槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない」イザヤ書 2 章 4 節

「剣を取る者はみな剣で滅びます」マタイの福音書 26 章 52 節

2015 年 6 月 6 日

日本福音同盟社会委員会

委員長 柴田智悦

 

 

【結び】

 

1 帝国主義キリスト教宣教の関係(経済、政治、外交、軍事、宗教)

 

 

2 キリスト教の日本への土着化とナショナリズムの関係

 

 

3 絶対平和主義か積極的平和主義か、あるいは……

 

 

4 「福音主義」における一致と多様性

 「聖書がどのように教えているか」を共に、互いに、学び合う
 聖書解釈、歴史的伝統、実践には多様性が有り得ることを認める