カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

改革派・ルーテル 合同神学シンポジウム(報告)

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昨日11月6日(金)、「第18回 神戸改革派神学校・神戸ルーテル神学校 合同神学シンポジウム」が神戸ルーテル神学校で開催されました。その一部分ですが、報告をさせていただきます。

発題者は神戸ルーテル神学校から二名立てられました。

橋本昭夫教授「N.T.Wright の義認論」

正木牧人校長「ルターの義認論とカルヴァンの義認論」

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■橋本先生の発題は、神学生対象ですから、NPPとは何か、N.T.ライトはどのようなことを説いているのか、といった入門的な話が中心でした。

  1.New Perspective[s] on Paul

ヴレーデ、シュヴァイツアー、ケーゼマン、ステンダール、サンダース、ダン、ライト

  2.ライトの義認論のスケッチ

ルターにおける「神の義」の意味の発見について
伝統的プロテスタント神学における「罪の赦し」について
「代償的贖罪死」について
アンセルムス
アウレン
終末的「成義」宣言の先取りとしての「いま・ここ」での義の宣言
半ペラギウス主義について
パウロ的義認論の内実
「改革派」神学者としてのライト

  3.ライトの義認論に対するルター神学からの批判の一部

ライトは宗教改革的神学をどの程度まで理解していたのか
律法の三つの用法
カトリック的神人協力説
ガラテヤ書およびローマ書におけるパウロの問題
歴史的実証主義からの聖書釈義は真に学問的と言えるのか
ルター的宗教改革の「しるし」である「恵みのみ」「信仰のみ」「聖書のみ」「キリストのみ」

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■問題とされるN.T.ライトの義認論のポイント

a) パウロが述べる「神の義」は神の属性であって、他者に転嫁できるものではない。

b)「罪の赦し」は、個々の人間の罪責に対応するものではなくて、捕囚からの解放・帰還=神の王国の実現という、神の民に対する集合的な扱いである。義認論は救済論ではなく教会論である。

c)パウロは「代償的贖罪死」、すなわち神が誰かの代わりにイエスを罰した、と言っているのではない。人間の内に宿る力・可能性としての「罪」がさばかれたのである。イエスの十字架は、サタンとの戦いにおける勝利である。

d)終末の審判では、為されたわざによって人は義とされる。

e)人が実質的に義であると宣言する、という意味でパウロは義認という用語を使っている。

f)「イエスは主であり、神はイエスを死人の中からよみがえらせた」という公的宣言=福音を信じて、従うことによって、人は義とされる。

g)ルター的図式によれば、律法は悪いもので、キリストによって廃棄されたものである。

h)ルター神学において、律法は常に責めるだけである。

■これは筆者の理解したところですが、ルター派のN.T.ライトに対する根本的な批判は、次のようなことかと思います。

NPPの主張は欧米で精査されつつある。ルター神学に関するN.T.ライトの誤解は明らかである。

ライトは、ルターの著作や一致信条書をあまり理解しないまま、ルター派プロテスタントの義認論を批判しているのではないか。

サンダースが、聖書学のアカデミズムにおいて仮説を立てて、それを論証するのは結構である。

しかし、キリスト教会において司牧に関わる者が、義認論のごとき根本的な教義について批判するのであれば、その影響は重大である。

N.T.ライトはもっと慎重に、丁寧に教義の問題を扱うべきではないか。

ルターの義認論のパースペクティブは非常に広い。宗教改革以来プロテスタントが保持してきた義認論が揺らぐことはない。

我々と違う聖書の読み方にも耳を傾けるなら、より豊かな洞察が得られるであろう。

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■筆者の感想

近代に発展した聖書批評学は、例えばブルトマンのように、「歴史のイエス」と「信仰のキリスト」を分離する方向へと進みました。そこでは、アカデミズムの聖書学と教会の信仰の間に距離があって、伝統的な教義はそのまま存続しました。

それに対して、NPP(New Perspective on Paul)に代表される現代の聖書学は、その「成果」によって、キリスト教の根本的な教義に、その本質的な変換を要求するようになりました。

聖書学から教義に至るまでのプロセス・手順という基本的な問題が、現代の神学に問われているのでしょう。私見では、その作業はまだまだ発展途上であり、方法論が確立しているとは言い難い状況です。

例えば、N.T.ライトのルター的義認論批判の問題では、同じ語句を論じていても、聖書学と教義学という書き手の「場」の違いが大きく影響して、話が噛み合わないことがあるように感じます。

我々読み手の側でも、その違いを理解して双方の主張を読めば良いのでしょうけれど、なかなかそこが難しくて、議論百出となるのでしょうか。

ちなみに、ルターはあくまで聖書学者であって、教義学者ではありません。

ルターは牧会者としての必要があって、大・小の教理問答を作りました。しかし、アウグスブルク信仰告白をはじめ信条の作成はメランヒトンに任せており、ルターは組織神学的な作業をあまりしませんでした。

メランヒトンカルヴァンに傾倒していき、メランヒトンの弟子が中心となって和協信条が作られました。

和協信条はバランスがとれた綿密な組織体系となっていますが、ルターの思想はそこにも収まりきらない大きさ、豊かさを持っています。

ルターの著作の分量は膨大です。コンピュータの無い時代に、比肩なき綿密なコメンタリーや説教を聖書全体にわたって書き残しています。まだ和訳されていないものが多数ですが。

なお、現代の代表的な聖書学者であるN.T.ライトの著作も60〜70くらいあって、膨大な量です。主要な著作だけでも10〜20冊あるそうです。

2年後の2017年10月31日は、宗教改革500年の記念すべき時です。ハロウィンでどんちゃん騒ぎをしていないで、こうした聖書・キリスト教の根本問題について、世界中のプロテスタントが共に学び、考え、祈ることができたらいいですね。

  <参考>

「現代のパウロ解釈を考える」(福音主義神学会 西部部会 秋季研究会議 の感想)
http://kanai.hatenablog.jp/entry/2012/11/23/083835


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■正木牧人校長は発題で、ゴードン・コンウェル神学校がYouTubeで公開している、Ryan Reeves師による「ルターの義認論」と「カルヴァンの義認論」のビデオについて批評をされました。

Martin Luther on Justification - YouTube

https://m.youtube.com/watch?v=CBThrN4QH14

Calvin on Justification

https://m.youtube.com/watch?v=grN_9XhQ7qU


「ルターは聖化について語らない」

「(ルターによれば)キリスト者には律法は要求されていない」

これは大ウソです!

ルターって、ほんと誤解されていますね!


  <参考>

キリスト者の聖潔について」(マルティン・ルターの著作より)
http://kanai.hatenablog.jp/entry/2012/10/13/112925