カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

ハデス(よみ)とゲヘナ(地獄)

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フラ・アンジェリコ『黄泉へ下るキリスト』、1437-1446年頃、サンマルコ美術館

聖書の世界観によれば、人の意識は、死によって消滅するのではなくて、死後も存続します。肉体という「外なる人」が滅びても、霊魂という「内なる人」が、それぞれに固有の人格を保持し続けるのです(第二コリント4:16, 5:8)。他の人や動物に生まれ変わるという「輪廻転生」はありません。

聖書的な世界観では、天と地と地下(よみ)の三層構造があると考えられています(マタイ16:18-19、ピリピ2:10)。

今の世で死んだ人の霊魂は、その最後の審判の時まで中間的な場に置かれます。イエス・キリストによる贖いを信じて洗礼を受け、神に義と認められた人は「パラダイス」、いわゆる「天国」に迎えられます(ルカ23:43)。それ以外の人は「ハデス」という場に置かれます(黙示録20:13)。「ハデス」には慰められるところと刑罰が課されるところがあるようです(ルカ16:19-31)。

「ハデス」の語源はギリシャ神話にあり、それは人が死んだ後に眠りにつく地下の世界です。ところが「ハデス」を「hell」と訳した英訳聖書があります。そのために、これを「地獄」と呼ぶ人もいますが、今日では「よみ」(黄泉、陰府)と訳すのが一般的です。

悪魔・悪霊は、神に反逆して天から地に落とされた堕天使です(イザヤ14:12-15)。彼らは、よみを根城として、反抗してはいるものの、やはり神の支配下にあります(ヨブ記1:12、創世記6:1−4)。

キリストのハデス(よみ)への降下は、悪魔悪霊に対する征服・勝利という意味を持っています。「勝利者キリスト」として知られるこの贖罪論は、古代からある重要な教説です。(コロサイ2:14-15、エペソ1:20-22、4:8-10、ヘブル2:14-15、第一ペテロ3:19-22、4:6、ヨハネ黙示録1:18、マタイ28:18)

「罪人の魂はすべて、死後すぐに地獄に行って、刑罰を受ける」という教理は問題がある、と筆者は考えます。

ウエストミンスター信仰告白
第32章 人間の死後の状態について、また死人の復活について

1 人間のからだは、死後、ちりに帰り、朽ち果てる(1)。しかし彼の霊魂は(死にもせず、眠りもせず)不死の本質をもっているので、直ちにそれを与えられた神に帰る(2)。義人の霊魂は、その時に完全にきよくされ、最高の天に受け入れられ、そこで、彼らのからだの全きあがないを待ちながら、光と栄光のうちに神のみ顔を見る(3)。また悪人の霊魂は、地獄に投げこまれ、大いなる日のさばきまで閉じこめられ、そこで苦悩と徹底的暗黒のうちにあり続ける(4)。聖書は、からだを離れた霊魂に対して、これら二つの場所以外には何も認めていない。

  1 創世3:19、行伝13:36
  2 ルカ23:43、コヘレト12:7
  3 ヘブライ12:23、Ⅱコリント5:1,6,8、ピリピ1:23、行伝3:21、エペソ4:10(*)
     *ピリピ1:23を行伝3:21、エペソ4:10と比較
  4 ルカ16:23,24、行伝1:25、ユダ6:7(*)、Ⅰペテロ3:19
     *ユダ6,7が正しい。

出典:ウェストミンスター信仰基準

イエス・キリストがこの世に再臨される時に、すべての死者がよみがえり、最後の審判を受けます(マタイ25:31-46、黙示録20:11-15)。

最後の審判で罪人が投げ込まれる「火の池」は「ゲヘナ」「地獄」と同一視されます(黙示録20:15)。「ゲヘナ」はヘブライ語で「ヒンノムの谷」を意味する「ゲーヒンノム」から生まれたギリシャ語です。そこはゴミ捨て場であり、処刑場でした。

フランシスコ・ザビエルの来日以来ずっと日本人宣教の大きな障害となってきたのは、日本の祖先崇拝の慣習とキリスト教の地獄の教えでした。

ザビエルが書いた報告書によると、当時の日本の人々は、彼の教えに対して次のような反論をしました。

ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)

ザビエルの見た日本 (講談社学術文庫)

人間をそれほど厳しく罰する神はあわれみ深い者ではない。(中略)神はいったいどういうわけで神を礼拝するために人間を世界に送り出しておきながら人間が悪魔に誘われたり苦しめられたりするのを許したのか。神が善なら、神はどうして人間をこれほど弱くて、罪に傾きやすくて、すべての悪を逃れることができない者にしたのか。そしてまた、神がこれほど恐ろしい責め苦を永遠に耐え忍ばなければならない者に対して何らかのあわれみも持たずに地獄という牢獄を創造したとすればそれでも神は善だと言えるか。(p.88)

これに対してザビエルは次のような感想を述べています。

 私たちが説教する神を拝まなかった者は地獄で永遠の刑罰を受ける運命にあり、神は彼らの先祖たちを救うのを忘れたり軽んじたられたりして救いの真理を知る機会をとり上げ、永遠の死に向かってまっさかさまに突進していくことを許されたかのように思われたからです。ほかのことよりこの嘆かわしい考えのために彼らはまことの神の教えから遠ざかっていたのです。(p.90)

 日本人を悩ますことの一つは、地獄という獄舎は二度と開かれない場所で、そこを逃れる道はないと私たちが教えていることです。彼らは亡くなった子どもや両親や親類の悲しい運命を涙ながらに省みて、永遠に不幸な死者たちを祈りによって救う道、あるいはその希望があるかどうかを問います。それに対して私は、その道も希望も全く無いとやむなく答えるのですが、これを聞いたときの彼らの悲しみは信じられないほど大きいものです。そのために彼らはやつれ果ててしまいます。(中略)神は祖先たちを地獄から救い出すことはできないのか。また、なぜ彼らの罰は決して終わることがないのかと彼らはたびたび尋ねます。私たちは彼らに納得のいく返事をするのですが、でも彼らは親族の不運を嘆かずにはいられません。(p.98)

一たび地獄の火の中に落ちた者は親族がいくら犠牲や施しや祈りをささげてみてもしょせん救われることはないとはっきり宣言すれば.必ずあらしのような激しい反感を買うでしょう。特に賢明な人々でさえ、今は亡きいとしい者たちの霊魂が過酷に取り扱われていることに腹を立て、この新しい宗教は不完全で、無力で、一たび死の宣告を受けた霊魂を救うことはどうしてもできないのだと言います。みんなそのことで頭がいっぱいなのです。なぜかというと、この国の書物や伝説には地獄の話はたくさん出てきますが煉獄の話は全然出てこないからです。(p.105)

ザビエルはローマ・カトリックイエズス会に属する修道士ですが、地獄の刑罰とイエス・キリストによる救済については比較的プロテスタントに近い思想を持っていたようです。人は死んだ後には回心の機会は無くて、地獄に落ちた者は救いの可能性が無い永遠の罰を受ける、と彼は説きました。

これに対して、仏教の僧侶は釈迦か阿弥陀の名を呼べば、地獄の底にいる極悪人にも救いが与えられると説いていました。病人が死ぬと、死者の罪の許しを乞いながら読経をして葬ったのです。

日本人の宗教を偶像崇拝として裁くだけでは、日本宣教は進んでいきません。イスラエル民族、ユダヤ人、聖書も系図を継承し、祖先から受け継いだ宗教的な遺産を大切にしています。両者に重なる美点には、肯定して良い部分も多々あるのではないでしょうか。

仏教が檀家制度によって日本の家族に対して行ってきた宗教的・社会的な「サービス」に代替し得る霊的ケアと社会的なサービスを、キリスト教会は提供しなければなりません。

聖書的・キリスト教的な死生学を確認して、その探究と実践を続けていきたく思います。