KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

なぜ日本はキリスト教を拒むのか

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豊臣秀吉がなぜ、伴天連を追放したのか。
徳川幕府がなぜ、あれほど激しく切支丹を迫害したのか。
明治政府がなぜ、国家神道を創ったのか。
敗戦後のキリスト教ブームが、すぐに去ってしまったのは、なぜか。

それは、キリスト教宣教が、欧米列強の帝国主義的侵略と一体であったからです。キリスト教を受容すれば、「日本」が瓦解することを、為政者たちは悟ったのです。

キリスト教会がそれを自覚して悔い改め、変わらなければ、日本人にキリスト教が浸透することは難しいでしょう。

kanai.hatenablog.jp

キリスト教徒が左翼勢力と共闘して、あるいは左翼そのものとなって、日本の国防に反対するならば、日本宣教にはさらに大きな妨げとなります。

マルクスエンゲルスが説く革命は、既存のあらゆる秩序を転覆するものです。伝統的な国家も民族も文化も破壊されます。

日本人が守ってきた、そして守っていくべき国体とは、日本独自の歴史が生み出し、受け継いできた伝統的な文化です。天皇はその継承者の代表であり、象徴です。

それゆえ、キリスト教と日本人のアイデンティティーがどのように調和するのか。これが根本問題なのです。

戦前の日本のキリスト者は、この問題に真剣に取り組みました。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/57714/1/asia6ashina.pdf

これを理解せずに、反体制運動を行って、これまでの努力を無に帰する左翼キリスト者の運動は、愚の愚です。

もちろん、日本基督教団の代表者が政府に協力して、朝鮮や台湾等でキリスト者=教会に神社参拝や天皇崇拝を指導したことは、大きな過ちです。

https://ir.library.tohoku.ac.jp/re/bitstream/10097/48935/1/1881-0187-2008-4-31.pdf

また、日本の官憲や軍隊が、アジア太平洋の各地で起こした残虐な事件は、我々日本人が忘れてはならない大きな罪です。

提岩里教会事件 - Wikipedia

しかしながら、それでもなお、昭和天皇は、欧米列強の支配からのアジア解放と大東亜共栄圏の建設を、本気で考えておられたのではないか、と思われるのです。満州はそのモデルケースです。それだけに、昭和天皇東条英機と意見が異なり、衝突したのでしょう。

https://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00501987&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

大東亜共栄圏 - Wikipedia

kanai.hatenablog.jp

https://www.aozora.gr.jp/cards/000230/card1154.html

石原莞爾 - Wikipedia

「日本が東アジアの諸地域を侵略した」という見方もありますが、当時、欧米列強の支配から独立していたのは、日本とタイだけでした。侵略や植民地支配を裁く国際法さえ未整備であった帝国主義の時代です。「食うか食われるか」「殺るか殺られるか」という苛烈な生存競争の状況でした。

ABCD包囲網が作られ、日本への鉄くずや石油の輸出が禁じられて、日本は対米開戦へと追い込まれていきました。日本にとって太平洋戦争には自衛の側面もあったのです。

昭和天皇の「開戦の詔書」と「終戦詔書」を読めば、あの戦争の大義がわかります。日本が人種差別の廃止を国際社会に訴えていたのは事実であり、アジア諸国の植民地支配からの独立を支援していたのも事実です。

平和ボケした現代の日本人が、現代の法秩序や感覚で、戦前戦中の思想・政策・事件を裁くのは、ナンセンスでしょう。それこそアメリカのWGIP(War Guilt Information Program)やプレスコードによって刷り込まれた東京裁判史観=自虐史観の作用に他なりません。反日思想に染まった日本のキリスト教会が、日本人への伝道の力を失ったのは当然です。

ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム - Wikipedia

プレスコード - Wikipedia

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アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう>(使徒17:22-23)

<悪を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、患難と苦悩とが与えられ、善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。なぜなら、神には、かたより見ることがないからである>(ローマ2:9-11)

<律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである>(ローマ2:14-15)

ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。……律法のない人には、律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである>(第一コリント9:20-21)

<あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い>(ピリピ4:5)

<最後に、兄弟たちよ。すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべてほまれあること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい>(ピリピ4:8)