出典 http://s.ameblo.jp/hirai-h/entry-11739223730.html
参議院選挙が近づくにつれて、憲法改正をめぐる議論が盛んになっています。
筆者の見方では、「自民党憲法改正草案」(2012年決定)には「改正」の部分と「改悪」の部分の両方があると思います。
筆者は「第九条改正」には賛成ですが、国民の自由と権利を制限しすぎる他の条項「改悪」には、賛成しません。自民党改憲草案には、思想信条の自由、信教の自由を侵害する危険性があるので、私はその部分に反対しています。特に第20条の改正案は、キリスト者として認めるわけにいきません。
この草案は全体的に、「国家が」国民の権利を「保証する」となっており、戦後民主主義との違いを際立たせています。
憲法改正に関しては、その法案の具体的な内容を冷静に判断して、是々非々で対応するのが良いでしょう。
第20条の問題を記します。
ーー現行ーー
第20条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。
第20条(信教の自由)
1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。
Q23
(1)国等による宗教的活動の禁止規定の明確化(20条3項)国や地方自治体等による宗教教育の禁止については、特定の宗教の教育が禁止されるものであり、一般教養としての宗教教育を含むものではないという解釈が通説です。そのことを条文上明確にするため、「特定の宗教のための教育」という文言に改めました。さらに、最高裁判例を参考にして後段を加え、「社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないもの」については、国や地方自治体による宗教的活動の禁止の対象から外しました。これにより、地鎮祭に当たって公費から玉串料を支出するなどの問題が現実に解決されます。
ーー金井注釈ーー
◆1項で、信教の自由の保障について「何人に対しても」という文言が削除されています。
◆宗教団体による政治上の権力の行使が禁止されなくなりました。
◆一般教養としての宗教教育は行うことができるようになります。
◆地鎮祭で公費から玉串料を支出することが違憲とはならないことになります。
◆社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を越えなければ、国や地方自治体が宗教的な活動を行っても良いことになります。
特定の宗教と政治が癒着すると、ろくなことが起こりません。少なくとも近代史においては、そう言えるでしょう。自民党憲法改正草案においては、神道が一番の問題です。
筆者が属している日本伝道隊系のきよめ派は、英国との関係が強いグループです。この群れの牧師や牧師夫人は、大東亜戦争の時には「鬼畜米英」の手先・スパイのごとく見なされ、官憲や民衆から厳しい差別・迫害を受けました。
戦後日本は親英米となりましたが、この第20条の適用対象が誰であれ、国家が宗教に介入したり、宗教が国政に介入したりすることには、私は反対します!
ただし、正確に言いますと、行政は宗教法人の事務に関わっています。それゆえ宗教団体は政治と全く無関係では有り得ません。宗教に直接関わる問題については、宗教団体もある程度、政治的な運動をせざるを得ないかもしれません。
しかし、第20条が問題としてきた「宗教団体が政治上の権力を行使すること」、「社会的儀礼」や「習俗的行為」だと言って国家が神道の儀礼を国民に強制することは、許してはなりません! それは地方自治においても同様です。
神道や仏教(創価学会を含む)の政治への介入に反対するなら、キリスト教の場合も反対しなければ、フェアではありません。宗教における公共性は、神学的、歴史的、実践的に非常に複雑な難問ですから、また、場を改めて論じたく思います。
なお、私も、戦前からの歴史を受け継ぐ教団・教会の一員として、御真影や宮城遙拝など「偶像崇拝」が教会の中にまで入ってきたことを、忘れるわけにはいきません。
私どもの群の牧師や信徒は昔から、政治的には比較的保守的で、国家に対して従順な人が多い傾向があります。国民としての義務は、戦中も忠実に果たしました。それに関する苦く重たい悔い改めの思いがあります。
我々昭和世代は、自民党の黒々とした部分も、うんざりするほど見てきました。その体質は今も残存していて、時々顔をのぞかせます。私もやはり自民党政権に対する警戒感を保持しています。
「日の丸は太陽神=天照大御神だ。だから日の丸の掲揚や日の丸への敬礼は偶像崇拝だ」と、ある福音派の有力な牧師が主張しています。
私は「それは行き過ぎた考え方であって、現代の日本人は、そんなことを思って国旗掲揚や国旗への敬礼をしてはいない」と思っています。
日本人はやたらと「拝」を使います。「拝啓、拝読、拝聴」など。「敬礼」と「拝礼」の距離は遠くないのかもしれません。「あいまいな日本のわたし」たちでございます(^_^;) そのあいまいなグレーゾーンを攻め込まれて、気づいたら「真っ黒」ということにならないように、気をつけたいものです。
=====追記=====
小生のこのブログの記事に、明石清正先生がレスポンスをして、素晴らしい論説を書いてくださいました。感謝!
https://m.facebook.com/kiyomasa.akashi/posts/957986857613158
「逆利用」、「発想の転換」、まさに、まさに!!
真剣にキリストに従って生きるならば、それは十字架を負ってゴルゴタの丘に向かうが如きである。迫害されて殺される覚悟が必要であるーーと主イエスは、また聖書は教えています。
しかしながら、それは敗北の道ではなくて、勝利の道です。初代教会は300年もの間、ローマ帝国でマイノリティーであり、迫害を受けましたが、ついに公認宗教となり、国教となりました。
わが国では、キリシタン時代、幕末明治維新、大東亜戦争と3回にわたって厳しい迫害の時期がありました。その迫害の前後には著しくキリスト信者が増えました。
ところが、日本人一般がキリスト者に対して寛容となり、迫害が少なくなったポストモダン=宗教多元主義の現代では、キリスト信者は増えません。
この同胞が救われるためには、我々キリスト者自身が霊的に覚醒する必要がありましょう。そして、イエごと、ムラごと、クニごと回心する、あるいはキリスト者が新しいイエ、ムラ、クニを創っていくことが必要ではないかーーと小生は夢想しています。
それができなければ、もしかしたら、神は路傍の石ころからでも新しいキリスト者の群れを起こされるかもしれません。
キリストの再臨までに、この国も必ずや霊的なキリストの王国に変えられる、と小生は信じております。