カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

この会はどこへ行くのか

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特定秘密保護法に反対する牧師の会」という団体があります。筆者は加入していません。この会が近々、『緊急セミナー』という集会を開催するそうです。「この国はどこへ行くのか 日本と宗教ナショナリズムを巡って」というテーマのようです。
その会のFBページでの「告知」に疑問を感じる部分がありました。その一部を引用します。
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参議院選挙の結果次第で、憲法改悪が現実となる中で、戦争へと突き進む状況、伊勢神宮のサミットでの政治利用に見られるように、国家の宗教化の流れがつくられています。安保法制や秘密保護法は、単なる政治課題ではありません。「宗教・信仰」の問題であるという現実をしっかりと捉え、ご一緒に学び、考えるときを持つことにしました。
日本の福音派の皆様には、彼らの主張を鵜呑みにしないで、「それは本当かどうか」考えて、賢明に対処していただきたく願います。
 
【A】「参議院選挙の結果次第で、憲法改悪が現実となる」。これは本当でしょうか? 「憲法改悪」という表現は明らかに、特定の政治的な立場と判断を表明しています。すなわち、政府与党が推進する「憲法改正」に反対する立場です。国論を二分するような政治の問題で、一方に偏った立場を「正しい」と断定し、他方を「悪い」と断定することは、「牧師の会」として適切でしょうか?
 
【B】「戦争へと突き進む状況」という認識は正しいでしょうか? 政府の説明によれば、中国や北朝鮮などの軍拡は著しく、この国際情勢の変化に対応して、日本の安全保障を確かなものとするために、「特定秘密保護法」や「平和安全法制」(安保法制)は整備されたのです。これらがあると、戦争へと突き進むのでしょうか? これらが無い方が、戦争勃発のリスクは軽減されるのでしょうか?
 
【C】「伊勢神宮のサミットでの政治利用に見られるように、国家の宗教化の流れがつくられています」。これは本当でしょうか? 伊勢志摩サミットで伊勢神宮は「政治利用」されたのでしょうか? 具体的に政府は、どのように「伊勢神宮」を「政治」に「利用」したのでしょうか?  その出来事は「国家の宗教化の流れ」の一部だという認識は正しいものでしょうか? その証拠は何でしょうか?
 
【D】「安保法制や秘密保護法は宗教・信仰の問題であるという現実」の認識は正しいでしょうか? 「安保法制や秘密保護法は宗教・信仰の問題」でしょうか? そのように断定する場合、その「宗教・信仰」とは、どのようなものでしょうか? このテクストの文脈を見ると、安保法制や秘密保護法に賛成するクリスチャンは、その「宗教・信仰」に属していないことになります。それで良いのでしょうか?
 
【E】日本福音同盟(JEA)社会委員会がこのセミナーの「後援」団体になることは、誰がどのように決定したのでしょうか? 「JEA」の名を使用することを、加盟している諸団体に事前に諮り、承認を得たのでしょうか? JEA社会委員会だけで決めたのでしょうか? JEA理事会の承認は得たのでしょうか?
ちなみに、日本福音同盟の公式サイトにおいて、社会委員会のページに掲載されている「安全保障関連法案についての声明」は、JEA総会では認めていない、と聞いています。
戦後70年間、日本が戦争に巻き込まれなかったのは(正確に言うと朝鮮戦争には参戦していたのですが)、米軍のプレゼンス=圧倒的な軍事的優位性によって日本列島が守られてきたからです。しかし、米国も日本も、財政事情の悪化により、今後は防衛費の支出を伸ばすことは困難です。ですから、集団的自衛権を行使して、東アジアで同盟関係を強化し、中国の軍事的な膨張政策を抑止しようとしているのです。

中国と北朝鮮がどんどん軍拡を進めているのに、それに対する防衛努力を怠って、隙を作ったら、戦争勃発のリスクが高まります。このパワーバランスの理解は、一般社会においては常識でしょう。なぜキリスト教の牧師・ジャーナリストには、この常識を理解しない人が多いのでしょうか。
 
その一つの要因は、左翼の偏向した世界観がキリスト教に侵入したことにあるようです。日本基督教団をはじめNCC系の諸教団に学生運動崩れの左翼活動家が牧師になって入り込み、内部からキリスト教解体工作をしてきたことは、明らかな事実です。
日本基督教団 実録教団紛争史

日本基督教団 実録教団紛争史

 

 その人たちはもう結構なお歳ですが、彼らの播いた種が福音派でも芽を出し、大きく育っているようです。前者は確信犯ですが、後者には共産主義の何たるを知らずに染まっていく純粋無垢な牧師たちもいるようです。いわゆる「なんちゃって左翼」です。

 
後者はその歪んだレンズの色眼鏡が「聖書」「キリスト教」の教えだと思い込んでいて、教会の信徒やKGKの学生たちにそれをどんどん複製して与える始末。余計にやっかいな状態です。福音派は長年にわたり、そのような社会派=リベラル派に反発して、警戒していたのですが、こんなに侵蝕していたんですね。
 
この「緊急セミナー」の講師のおひとりである岡山英雄牧師のご著書を紹介します。
 
富岡 幸一郎 岡山 英雄 共著『キリスト者の戦争論』 [地引網新書] 2006年
キリスト者の戦争論 [地引網新書] (地引網新書 1)

キリスト者の戦争論 [地引網新書] (地引網新書 1)

 

この本の途中までは皆様賛成なさることが多い、と推測します。このお二人の論者は大変賢明で、良い観察眼をお持ちです。しかし、具体的な実践論に入ると、岡山英雄先生は「絶対平和主義」にこだわっておられます。

<たとえ自分は殺されても相手を殺さない>(P.66)

<家族を守るためであっても人を殺さない>(同)
 
非暴力・無抵抗を実践することがキリスト者の道だ、と言うのです。
 
岡山師の戦争論・平和論では、旧約聖書の神「主」と新約聖書の「主」イエス・キリストは、別の人格者のように思えます。しかし、聖書の教えるところは、そうではありません。
 
旧約聖書では、主はイスラエル人に軍隊の編成を命じ(民数記1~2章)、彼らにカナンの町々を攻撃させて、住民を絶滅させておられます。時代が下ってペルシャ帝国の時代にも、ユダヤ人は敵対する人々を大勢殺しました(エステル記9章)。旧約聖書はこれらを肯定的に記しています。
 
新約聖書も、神はこの世の権威者に「剣」を帯びさせて統治させておられる、と教えています(ローマ13:4)。ヨハネの黙示録では、キリストは<鋭い、両刃の剣を持つ方>であり、異端者に対して「わたしの口の剣をもって彼らと戦おう」と仰せです(2:12, 16)。また、キリストの<二人の証人>について、このように仰せです。「彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される」(11:5)。<この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。(中略)また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。 (中略)残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた>。(19:15,19,21)
 
岡山師の戦争論・平和論の根本的な誤りは、キリスト再臨前の現世においてキリスト再臨後の来世を実現しようとする「来世主義」にあります(p.77)。彼らはーーキリスト再臨後に成就する完全平和を、再臨前の今ここでめざすべきだーーと主張しています。すなわち、絶対平和主義です。
 
岡山師はそれが、ーー内村鑑三が言う「内的再臨」によって、キリスト者はその行動が可能となる。ただし、外的には再臨はまだ起きていないため、非暴力を貫いて殉教する他ないーーということを認めておられます。それがわかっていながら、「剣をとらず、非暴力・無抵抗・非戦を貫くべきだ」と言うのです。
「自分が殺されても、相手を殺さない」
「家族を守るためであっても、人を殺さない」
美談のように見えますが、これは、この世の秩序を破壊し、混乱をもたらす独善的で危険な思想です。
 
再臨前の現世についてキリストはこう仰せです。
 
「わたしの国はこの世のものではない」ヨハネ18:36)。
 
「牧師の会」の中心的なメンバーには、岡山師と同様に「非戦非暴力の絶対平和主義こそ、キリスト者の採るべき態度だ」と主張する人が多いように、見受けられます。これは聖書のいくつかのテクストを強調し、それに反する聖書の教えは無視して、こじつけた極論です。
 
彼らは、その思想を憲法第9条に結びつけて、「再軍備反対」「日米安保反対」「戦争法廃止」「米軍基地撤去」を訴えています。自衛隊まで縮小・廃止する方向のようです。それは世界の現実から遊離した政策です。正当防衛さえ否定するのなら、国防は成り立ちません。武力を持たず、平和的手段で問題解決を図ろうという運動は、宗教的には美談かもしれませんが、社会的には無責任だと言わざるを得ません。
 
ご受難の前にイエス・キリストは弟子たちにこう仰せでした。
 
「剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい」
「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」
「それでよい」
(ルカ22:36,38抜粋)
 
地上を歩まれた主イエスが持っておられた世界観は、福音書の端々に現れています。主イエスは、終末期の世界では紛争・戦争が減少し、起こらなくなると、言われたでしょうか? 逆です。
 
「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」(マタイ24:7)
 
極端な絶対平和主義は、その意図とは逆に、暴力を許す結果になります。警察が無ければ、犯罪が増えます。軍隊が無ければ、侵略が増えるのです。
 
「家の主人は、泥棒が夜のいつ頃やってくるのか知っていたなら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしない」(マタイ24:43)
 
 実際に、フィリピンから米軍が撤退したら、すかさず中国は南シナ海の実効支配を進めました。そのため再び米軍はフィリピンに駐留することになりました。 
 
日本の領海と領空は、中国や北朝鮮、ロシアの武装した船舶や戦闘機によって、日常的に侵犯されています。その緊張にさらされている海上保安庁航空自衛隊等、関係者の苦労も慮るべきでしょう。
 
「強い人が武装して自分の屋敷を守っている時には、その持ち物は安全である」(ルカ11:21)
 
 筆者が最近強く感じているのは、どの位置・立場・視座で考えているか、という問題です。社長なら、社員とお客様に対する責任をいつも意識して、あるいは無意識に自覚して、物事を考えているでしょう。
 
筆者は行政マンだったので、どうしても行政の立場・責任で社会問題を見て、解決策を考えてしまいます。加えて、筆者は牧師ですから、羊飼いの心で羊を守り、正しい道に導かなければならない、という責任感が染み込んでいます。
 
「良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(中略)雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる」(ヨハネ10:11-12抜粋)

羊飼いは、我が身の危険を承知で、杖を取り、狼を追い払います。そうしながら、羊に牧草を与え、水を飲ませて、守り養います。政治や行政、国防の役割はまさに、これではないでしょうか。もし、羊が無防備で群から離れて行き、狼に狙われているとしたら、羊飼いはその羊を追いかけていき、安全な石囲いの中へ連れて行くでしょう。
 
では、近年盛んに政治的な運動をしている福音派の牧師や神学教師、ジャーナリストは、どのような立場・視座で考えて意見を述べているでしょうか? 為政者や経営者、すなわち自分が政府与党ならどのような政策をとるか、という考え方をしているでしょうか? 彼らは「野党」的な、しかも「万年野党」的な考え方・判断・行動をしているように思うのです。
 
それが国民の気持ちに寄り添うことだとしても、必ずしも国民のために良いとは限らないということを、彼らは理解しているでしょうか? 世論が間違った選択をして、国を滅ぼすことも、大いに起こり得ることです。
 

どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く場合には、まず座して、こちらの一万人をもって、二万人を率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、使者を送って、和を求めるであろう。(ルカ14:31-32)

 

政府与党は私利私欲のため(だけ)でなく、国民の保護・利益を考えて、官僚や学者、有識者と政策を練り上げています。それをやたらに疑って、何でもかんでも否定し、批判する、対案も持たずにーー。これは無責任が過ぎやしませんか。「米軍も自衛隊も要らない。中国でも北朝鮮でもロシアでも、我々日本人は軍隊の侵攻を受け入れて、従えばいい」というのが対案でしょうか?
 
 極端な絶対平和主義を福音派のスタンダードなポリシーにしたら、日本宣教のつまずきになります。政治にからむ運動は、計算が重要です。運動の戦略としても、何でもかんでも政府与党に噛みつくのは、愚策です。「狼が出た」って、あんまり言い過ぎると、肝心な時に人々は信じてくれなくなります。直接関係のない問題を絡めるべきではありません。
 
議会制民主主義においては、政治は数、数は力、世論の支持がすべてです。世間一般の人たちに理解できない運動は、長続きしません。キリスト教徒が国家神道に反対するのは良いのです。わかりやすいですから。キリスト教徒が特定秘密保護法や安保法制に反対するのは、日本の国民には理解しづらいことでしょう。なにしろ日本のキリスト教の多数は、欧米の帝国主義と一体的にやってきたのですから。
 
日本の福音派が「戦争と平和」の問題に取り組んできた歴史は、すでに数十年に及ぶと思います。しかし、これほど左傾化して、日米安保体制に反対する行動をしているのは、ここ数年の現象です。キリスト者共産党と手を結んで共闘するとは、いったいどういう道理でしょうか! 我々の為すべき「戦い」は何であるのか、我々の「敵」は誰であるのか、彼らは全く忘れてしまったのでしょうか? なぜ羊飼いが羊を、狼の群の中に連れて行くのでしょうか?
 
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:11-12)
 
政治に関しては今も、福音派には多様なスタンスと多様な意見があります。しかし、日本の福音派の超教派宣教団体、神学教育、出版事業、そして日本福音同盟(JEA)は完全に東京中心になっています。日本の一般社会もまた然り。 そのため、福音派の中枢部に関わっている人たちの「偏り」が、実力以上に大きく見えるのですが、その運動の実態もそれに合わせて大きく成長しつつあります。
 
けれども、インターネット、とりわけSNSは、この状況に劇的な変化をもたらしつつあります。すなわち、インタラクティブな公共性を持つ言論の「場」が創出されているのです。今は主にFacebookをその場として、新しい展開が切り開かれつつあるようです。
 
グーテンベルクの印刷機発明によって、宗教改革に必要なメディア社会が準備されました。それから500年経って、根本的に革新的な新しいメディア社会が出現しました。これは我々プロテスタントにとっても、大きなチャレンジの時機であると思います。
 
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 「特定秘密保護法に反対する牧師の会」FBページに筆者が書かせていただいた意見を以下、転載します。
 
【F】右傾化の危険性について
自民党憲法改正草案が危険なものであることについては、私も警告を発しております。自民党の中に、国家神道国家主義的な教育を復活させようとする動きが、一貫して存続してきたことも、キリスト者として警戒すべきであり、反対すべきでしょう。これは直接的に宗教・信仰に関わる問題であり、国民一般にもわかりやすい問題です。
しかし、黙示録を根拠に自民党政権あるいは自公政権を「獣」と断定するようなことがあれば、行き過ぎではないかと思います。これは責任が問われる重い問題になりかねませんので、ご注意ください。

【G】秘密保護法と安保法制
特定秘密保護法と安保法制については、イデオロギーや宗教・信仰が本質的な問題ではなく、国際政治・安全保障政策においてテクニカルに必要性が認められるものと、私は理解しております。日本のキリスト者や国民一般にも、そのように考える人が多数であると思います。
特定秘密保護法と安保法制は宗教・信仰の問題だ」と主張することは、国民一般には理解しがたく、「キリスト教」や「福音派」に対する誤解・偏見・つまずきになりかねません。
できるだけ「キリスト教」や「福音派」に関して誤解を招かない運動をしていただけると、幸いです。

【H】左傾化の危険性について
特定秘密保護法に反対する牧師の会」に所属されている皆様は、共産党員あるいは過激派のメンバーやシンパでない限り、共産主義を支持しておられるとは、思っておりません。
しかし、こちらの会の指導者が共産党幹部と関わった記事をクリスチャン新聞やしんぶん赤旗などで見て、ショックを受けたクリスチャンが少なくありません。ソ連、中国、北朝鮮等の共産主義者キリスト教徒に、また日本の国民に加えてきた暴虐は、先生方もご存知でしょう。
世間一般に「日本のキリスト教は左翼だ」という「誤解」が広がっています。「教会に行けなくなった」という方々の悩みもお聴きしています。ご配慮のほど、よろしくお願いいたします。
 
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(1)社会倫理においては、「発言の内容が正しくても、発言する行為それ自体は正しくない」という場合があります。発言するタイミングや状況、立場、方法等によって、その効果・逆効果が変わるからです。内容的に正しい発言であっても、悪い結果を生み出すことが、少なくありません。

(2)また、社会倫理においては、同じ内容の言動であっても、それが正しいとされる場合と、誤りとされる場合があります。我々が生きる社会においては、基準が相対的である事象が多いからです。

(3)特に政策に関しては、100パーセント良い結果になるとか、100パーセント悪い結果になるといったことは少なくて、多くの場合、プラスとマイナスの両面があります。その正誤・善悪は相対的です。

(4)宗教とりわけ一神教は、絶対的な存在である神を信じるため、信者は自分たちの判断・信条を絶対化しがちな傾向があります。しかし、神が絶対者でもあっても、神の言葉を受け取り、それを解釈して実行する人間は相対的でしかあり得ません。
 
(5)ですから、私たちキリスト者は政治的判断において、聖書の教えとキリスト教の歴史に学びつつ、自分(たち)とは異なる見方・考え方・実践をする人(たち)にも謙遜に学んで、共に御心を求めていくことが大切でしょう。
 
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政治というのは社会的合意形成の作業であり、良く言えば「調整」、悪く言えば「妥協」です。結論がどうあれ、まずは異論・反論もちゃんと受けとめなければ、その社会(ソサエティー)は成り立ちませんし、政治はできません。
 
この「牧師の会」は、特定の政治的意見に同意する人を集める、あるいはそれに同意するよう啓蒙しているようですが、異論・反論は削除・ブロック・排除しています。
 
特定の政治的意見を「神の御心」だと断定し、絶対視して、それに同調することを要求する。これはまさに共産党のごとき「前衛主義」です。聖書解釈において特定の人間に絶対的な正しさを認めるのであれば、それは「プロテスタント」ではありません。 これこそ「政治の問題ではなく信仰の問題」です。
それゆえ、この「牧師の会」は、いかなる形においても、日本のキリスト教プロテスタント福音派というソサエティーを代表するものとは、認められません。これは一部の私的な集団とみなすべきです。そうでなければ、日本の福音派の信仰に狂いが生じます。
 
皆様におかれましては、この問題の取り扱いについて、よくよくご注意くださるよう、ご忠告申し上げます。