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カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

日本の伝統宗教をどのように理解するか

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私は子供の頃、神社でおみくじを引いたことがあります。どんなものかな、と好奇心が湧きまして。何本か引いたら、やっぱり出てくるものは違っていました。今でも日本の伝統宗教に興味があり、時間があったら「見学」したい寺社仏閣仏像が、たくさんあります。

私は時々仏像を見学しながら、ーー製作者はどのような思いでこれを作ったのかなーーと考えます。「偶像」=「穢らわしい」という単純な考えで片付けられないものが、あります。

我々日本のキリスト者は、神道仏教が歴史的に果たしてきた、社会的・精神的・文化的な役割についても、正当に評価すべきでしょう。キリスト教が伝えられるまで、神=主はこの国と民族を精神的・宗教的に放置しておられたのでしょうか? 否、一般恩恵の範囲内では、主は異教をさえ用いておられた、と私は考えます。

アテネのアレオパゴス(評議所)で、使徒パウロは次のように語りました。

 

アテネの人たちよ、あなたがたは、あらゆる点において、すこぶる宗教心に富んでおられると、わたしは見ている。

実は、わたしが道を通りながら、あなたがたの拝むいろいろなものを、よく見ているうちに、『知られない神に』と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。

 

そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、いま知らせてあげよう。

 

この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、手で造った宮などにはお住みにならない。

また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。神は、すべての人々に命と息と万物とを与え、

また、ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに時代を区分し、国土の境界を定めて下さったのである。

 

こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。事実、神はわれわれひとりびとりから遠く離れておいでになるのではない。

われわれは神のうちに生き、動き、存在しているからである。あなたがたのある詩人たちも言ったように、

 

 

『われわれも、確かにその子孫である』

 

 

このように、われわれは神の子孫なのであるから、神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫り付けたものと同じと、見なすべきではない。

神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。

神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17章22~31節)

 

我々キリスト者は、福音を知らない異教徒の信仰を、頭ごなしに否定するよりも、その信仰心を肯定して、真の神こそそれを満たすものだ、と伝えると良いでしょう。

一般啓示/特別啓示、一般恩恵/特別恩恵の区別は、日本の宗教に対する過少評価や過大評価を防止するために、便利な概念です。

02−02啓示論 一般啓示すなわち被造物啓示 - 神を愛するための神学講座 II(未決定稿・順次増補)

02−05 啓示論 特別啓示としての聖書(1) - 神を愛するための神学講座 II(未決定稿・順次増補)

 

例えば、「ハレ・ケ・ケガレ」には、旧約聖書レビ記に通じるものがあるように思われます。直接的な関係の有る無しは別として。むしろ現代のキリスト教が失いつつある「聖なるものへの恐れ」、信仰の根幹に関わるこの心性について、我々日本人には大切にすべき伝統があるように思います。

digitalword.seesaa.net

 

ただし、我々はすでに本物を知っているので、偶像に惑わされませんが、偶像に対する我々の「自由な」態度が、不信者や求道者、信徒のつまずきとならないように配慮することも必要でしょう。これについては、パウロ書簡の次のテクストが参考になります。

 

さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。

というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、

わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。

 

万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。

 

 

しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。

食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。

 

 

しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。

なぜなら、ある人が、知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合、その人の良心が弱いため、それに「教育されて」、偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。

するとその弱い人は、あなたの知識によって滅びることになる。この弱い兄弟のためにも、キリストは死なれたのである。

(コリント人への第一の手紙8:4~11)

 

 

 

偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。

そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。

 

わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。

主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。

それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。

 

 

すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。

だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。

 

すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。

地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。

もしあなたがたが、不信者のだれかに招かれて、そこに行こうと思う場合、自分の前に出される物はなんでも、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。

しかし、だれかがあなたがたに、これはささげ物の肉だと言ったなら、それを知らせてくれた人のために、また良心のために、食べないがよい。

良心と言ったのは、自分の良心ではなく、他人の良心のことである。(コリント人への第一の手紙10:19~29)

 

偶像崇拝を悪魔・悪霊が利用している、という面もあります。「自分は大丈夫だ」という過信は、まずいかもしれません。

例えば、仏式の葬儀での焼香はどうでしょうか。

焼香はそもそも消臭が目的でした。インドの気候は高温で、体臭など悪臭が甚だしく、香木の産地であったことから、香料を焚く習慣があったのです(『岩波 仏教辞典』第二版p.519)。

三回お香を入れるのは「仏・法・僧」に対する敬意を表し、仏教徒のしるしとも言われます。筆者は、故人とご遺族に敬意を表して、1回だけお香を入れます。3回入れたら、仏教徒かと誤解されますので。

焼香は死者を拝むことになる、と危惧するキリスト者もいます。日本人が死者を崇拝するのは、中国の宗教と日本古来の祖先崇拝が影響したものでしょう。

sougi-soushiki.beauty-box.tokyo

memories-in-time.net

古代や中世の日本でも、貴族は香料を日常的に多用しました。現代人のようにお湯に浸かる入浴の習慣が無かったので、体臭を消す必要があったからです。

仏教には著しい多様性がありますけれど、インドでも中国でも日本でも、「焼香は死者の崇拝だ」という考えは、仏教の本旨に反するものです。

葬儀で香を焚くのはむしろ、古代ユダヤ教や東方キリスト教に見られる風習ではないでしょうか。

<そこで、人々は、彼が自分のためにダビデの町に掘っておいた墓に彼を葬り、香料の混合法にしたがって作ったかおりの高い香油や香料に満ちたふしどに彼を横たえた。そして、彼のために非常にたくさんの香をたいた>(歴代誌第二16:14)


福音書では、イエス・キリストの葬りにおいて、香料に関係する物が出てきます。なぜかというと、古代のユダヤ人、特に、シナゴーグの担い手であったパリサイ派には、「肉体の復活」の信仰があったからです。出来る限り体を生前のまま残すために、彼らはミイラの技術と香料を発達させていました。その思想と技術のルーツは古代エジプトにあります。


民俗学文化人類学の視点で聖書を読んだら、従来とは違う見方・考え方が生まれるのではないでしょうか。大雑把に言うと、日本人クリスチャンも西洋人のパースペクティブで聖書やキリスト教文書を読み込んできたきらいがあります。しかし、古代イスラエルの宗教はオリエント世界で生まれたものであり、東洋的な性格も多分にあるはずです。

 

なお、現代の日本人が「これは仏教だ」「これは神道だ」と思っていることでも、実は戦後に生まれた習慣だったりすることも少なくありません。

 

ちなみに、焼香についてわが妻に意見を求めたところ、
「私は焼香しないけど、焼香しないからって、誰も気にしないよ。葬儀に参列することで、遺族の方々は慰められるし。焼香しても、それが死んだ人を礼拝していることになるなんて思っている人はいないし、いいんじゃないの。焼香っていうのは、三宝といって。。。(知っとるわい!)」
だそうです。

 

実践神学やキリスト教倫理では、答が一つでないことも、多々あるかと思います。

「イエス様なら、どうなさるかな?」

と筆者は考えております。


<愛が無ければ、何の役にも立ちません>(第一コリント13:3)


葬式仏教は全く形骸化しており、消滅しつつあるようです。本来の仏教精神から外れた焼香の意味付け=死者崇拝もまた、時代と共に変わっているのです。

Wikipediaでは「焼香(しょうこう)とは、仏教において、を焚くこと。特に、や死者に対して香を焚いて拝むこと。焚香ともいう。塗香に対する言葉」と定義がなされています。しかし、脚注を見ると、参照の文献はすべてキリスト教の書籍です。これを書いたのはクリスチャンでしょう。「焼香は死者を拝むことになる」という俗説にこだわっているのは、案外、キリスト教関係者かもしれません。

焼香 - Wikipedia

では、逆の立場から見たら、キリスト教の葬儀はどうなのでしょうか? 異教徒の人たちにも讃美歌を歌い、祈りに心合わせ、献花をしてもらっているのではないでしょうか? 「讃美歌を歌うのはキリスト教の神への礼拝行為ですから、あなたの神に対しては裏切りになります。歌わなくていいですよ」と助言して、配慮を示しているでしょうか?

教会こそ同調圧力が強くて、キリスト教こそ独善性が強い宗教だということは、我々が自覚すべきことだと思います。これは一神教の必然です。その自覚の無いことが、日本人にとって大きなつまずきとなっているでしょう。

「伝統宗教」は奥深いテーマですね (^_^;)

  

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