読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

変えられた人生 pyutaの経験

f:id:nozomu-kanai:20170501201207j:plain

 

 幼いころから私は、他の人となにかがちがう、と感じて生きてきました。周りが普通にできることができない私でした。また人間関係を保つことがほとんどできませんでした。

 

 17歳の時にそれが統合失調症という脳の障害であることがわかりました。そのときは受け入れることもできず、この先もほかの人のような人生を送ることを望んでいました。ただ必死で治すということを考えて生きていたような気がします。

 

 そんなときにインターネットで知り合った牧師にS市の教会を紹介されました。そのころは本当の神様を知らずに深く考えずわらにもすがる思いで洗礼をうけました。

 なんとなくクリスチャンになったけどはっきりいってすぐになにかが変わったわけではありませんでした。私が本当の意味で神様を求めて信じたのは、最近のことです。しかしそれまでの人生と信仰生活があるからこそ、今の恵みのなかに生かされていることを日々感じます。

 

 洗礼をうけてすぐに、ここH町に引っ越してきました。それを機に、こちらの教会の群れに加えていただきました。

 そのころの私は、生きていることがいやでいやで仕方ありませんでした。しかし死ぬ勇気もなく、毎日なんとなく生きていました。教会に通ってはいたけれど、神様がわかりませんでした。


 大学を卒業して、同級生やキリスト者学生会の仲間たちは、就職していきました。しかし、私はそのころまだ自分の障害を受け入れず、必死でその人たちと似たような人生を送ることにこだわり続けました。就職活動をしたり学校へ行ってみたりしました。しかし、なにも決まらず入院しました。

 

 その後約1年病院で生活しました。精神科病棟という場所は、他の病棟とは違い、患者を人間として扱わない風潮が昔からあります。残念ながら現在もそういう病院があります。

 そこに入院中つらい毎日の中で聖書を読みました。教会に行くことは許されませんでした。この絶望的な状況の中にたしかに神様が共にいてくださることを、みことばから悟っていきました。


 退院しても日常生活を送ることは難しく、ほとんど寝て過ごしていました。そのころは、日曜の朝起きて教会に通うということもつらい時期でした。

 

 半年が経ったころ、病院の紹介で、ある福祉施設に就労訓練に通うことになりました。そこは全国でも1番規模の大きい施設であり、身体障害・知的障害・精神障害の三障害受け入れており、障害者が様々な作業をしながら入所と通所で生活をしている施設です。

 そこに行き始めて1週間で辞めたくなりました。私は見た目ではどこが悪いのかわからないため、健康な人だと扱われ、ずいぶんとひどいことを言われたからでした。

 

 そのころ教会に通うことがとても楽しくて、もっと神様を知りたいと祈りました。

 祈ったことがどんどん叶えられていた時期だったので、私は施設をあまり重要に考えず、将来は神様のために働きたい、自分は牧師になることがふさわしいのでは、と考えていました。

 東京で行われた青年宣教大会にも参加しました。主のために命を捨てるほどのものをもとめていると聞き、自分は自分を救ってくださったイエス様にすべての時間をささげよう、とその場で決心しました。

 

 しかし、この障害特有の問題が再発しました。季節の変わり目で調子を崩すということが、その直後に起こったのです。今、思えば、それが神様のときでした。

 私は、私にしかできない方法で神様に仕えよう、と思いました。そのときに、「私が遣わされている場所は今の施設なのでは」と思いました。施設に入所している人は、子供の時から病院や施設で生活をしている人が、大半でした。その人たちに福音を伝えることができるのは、同じ立場にある私しかいない、と神様からはっきりと示されました。

 

 そのときに、自分がそれまでにもっていた生まれつきの障害者に対する偏見や差別を、神様の前に悔い改めました。

 みんな神様に愛されている一人の人間ですが、神に裁かれるべき罪人でもあります。それなのに私は、その人たちとかかわることをしてこなかった。1年も一緒にいるのに、その人たちが傷ついているなどと考えたことがなかったのです。

「もし神様がこの人たちを救ってくださるなら、私はここに遣わされていると感じます」と祈りました。

 

 それから私は人が変ったように熱心に働き、様々な人と関わってきました。施設にたくさんのクリスチャンが生活していることを知りました。「ひとりでもふたりでもわたしの名においてあつまるところには、わたしも共にいる」というイエス様の言葉を思い出しました。

 

 そして、ある人との出会いをとおして、私は神様に本当の意味で出会うことができました。今まで人と比べて生きていた私ですが、本当に大事なのは神様の目から見たかけがえのない私です。誰かに好かれるとか嫌われるとかではなく、神様がどう思うかなのです。

 そう思うと、聖書の言葉ひとつひとつが宝物でした。今までなんとなく読んでいた聖書を、自分に与えられたみことばとして受け取れるようになりました。

 私はそれまで、自分のことが世界で一番嫌いでした。しかし障害があったとしても、今生かされていることが恵みであり、障害という弱さがあったからこそ、神様にもたくさんの愛する仲間たちにも出会えた、と今は感謝しています。

 

 なんで自分には障害がついてまわるのだろう、とたしかに思います。しかしこれからは、人と比べるのではなく、神様が与えてくれたこのからだと人生を、自分らしくつくっていくことができるといいな、と祈っています。

 どのようなからだに生まれるのかは神様が決めるのかもしれないけれど、神様はその人の人生に責任をとられるかたであり、その人の苦しみを放っておかれる方ではありません。本当の痛みにふれてくださる神様です。

 私の過去も現在も未来もすべて、イエス様の十字架で赦されています。私が、「障害があるから不幸だ」と思ってしまえば、そこまでです。でも、もしそのことを神様のみこころだと受け止めるなら、神様は最高のものを私に下さいます。

 

 クリスチャンではない人を用いて、神様は私と神様を真に出会わせてくれました。今、その人がイエス様に出会うために、私は祈っています。その人のルームメイトと友人もクリスチャンです。それで、現在4人で礼拝のメッセージをわかちあったりしています。

 このようなことができて、本当に神様は私の人生を、否定の人生から肯定の人生に変えてくれました。

 

 最近、あるビデオに出会いました。両手両足のない宣教師の話です。彼は世界中に、そのからだで神様を伝えています。

 ある日、彼は神様に両手両足を求めて祈っていました。すると、それがあたえられた夢を見ました。夢の中で彼の両親は喜んでいました。彼も喜びました。

 しかし、そのことを知った手足のない人や体が不自由な人は、「自分は健常者になることができないのに、この人だけに手足を与えるなんて、神様はおかしい。神様など信じない」と思いました。

 彼の人生が終わったとき、彼は神様に言いました。「神様、健常者にならせていただき感謝します。僕の人生になにか間違いはありましたか?」

 すると、「君が神を求めるよりも健常者になることを求めたので、君は障害者のままで福音を伝えることができなかったのだよ。君は大事なものを失ってしまった」と神様は言われたそうです。

 夢から覚めて、彼は自分に手足がないことを確認して、神様に感謝しました。

 このビデオを観て、私も神様の計画があって生かされていることを、感謝しました。

 

 ヨハネ福音書9章に次のようなイエス様の言葉があります。

「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。わたしたちは、わたしを遣わした方のわざを、昼の間に行わなければなりません。だれも働くことのできない夜が来ます。わたしが世にいる間、わたしは世の光です」。
 神様が命と障害、そして信仰を私にあたえてくださったことを、心から感謝します。