カナイノゾム研究室

聖書のメッセージや社会評論などを書いています。

ルターと神の母マリア

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11月6日(月)から8日(水)までお茶の水クリスチャンセンターで日本福音主義神学会 第15回全国研究会議が開催されました。今回のテーマは『3つの「のみ」の再発見 ~宗教改革500年によせて~』というものでした。

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日本福音主義神学会部会研究資料

マルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に「贖宥の効力を明らかにするための討論」、いわゆる「95か条の提題」を貼り付けたのは、1517年10月31日であったと言われます。今年は、それからちょうど500年になります。

我々が持っている信仰は、誰かがこの極東の地まで伝えてくれたものですから、歴史的な信仰の流れを確認することも大切でしょう。そういった意味において、今回の全国研究会議は意義深いものだったと思います。最初の内田和彦先生のご発表は、500年に及ぶプロテスタントの歴史的信仰について、実に見事にまとめておられました。

示唆に富んだ興味深い講演や研究発表などが続きました。しかし、一つ、そのまま学会誌に掲載したらヤバイのではないか、と思うものがありました。それは、ルターの「神の母」理解に関する問題提起でした。

◆出典: 神の母 - Wikipedia

神の母(かみのはは:ギリシア語 Θεοτόκος  英語Theotokos テオトコスもしくはセオトコスと転写)とは、キリスト教の用語でイエス・キリストの母マリア(聖母マリア)に対する称号。 マリアが神の母であるとは、キリストの神的位格(υπόστασις)を生む母であることを意味し、キリストを神の本性(φύσις)において生んだ母という意味ではないとしている。ここでいう位格(自立存在ともいわれる)とは、他の存在に依存することなく存在するものをいう。

アレクサンドリアアタナシオスはマリアをロゴス(λόγος:神の御言葉)の母と称していた。つまり、マリアは神の位格のひとつロゴス(子なる神、神子:かみこ)の母であるとの意味である。
これに対して、コンスタンディヌーポリ総主教ネストリオスは、この称号を否定して人的位格を生んだクリストトコス(Χριστοτόκος:救世主(Χριστός)を産む者(τόκος))という新たな称号を提唱し、聖人ではあるが神の母ではないと主張した。この争いを調停するため、エフェソス公会議が召集され、ネストリオスの教義は異端と宣告され、マリアが神の母であることが宣言された。
正教会の一員たる日本ハリストス正教会日本正教会)では生神女(しょうしんじょ)と呼ばれる頻度が多い。ギリシャ語のテオトコス(Θεοτόκος)は神(Θεός)を産む者(τόκος)の意味であり、直訳すれば「神産み」という称号であるがゆえに男性形語尾を保つ女性名詞であるが、スラヴ語に訳されたときに「神を産む女」(教会スラブ語:Богородица)という言葉になった。「生神女」という訳語はスラヴ語の流れを汲むものである。
日本正教会の祈祷文においても「神の母」の語は用いられ、イエスの母マリアを指す正式な訳語のひとつであるが、"The Mother of God"には「神の母」の訳語を当て、"Theotokos"には「生神女」の訳語をそれぞれ当てる定訳として基本的に使い分けられている。
ローマ・カトリック教会は、1931年エフェソス公会議1500周年に際し、教皇ピウス11世により1月1日「神の母」の祝日と制定した。尚、1月1日は降誕祭の8日目にあたり(ユダヤ教の律法は、生後8日目に男子に割礼を施し命名することを規定している)、キリストの割礼日を祝する日(主の割礼祭)でもある。

ギリシア語新約聖書ルカによる福音書1:43に次の表現が見られます。

ἡ μήτηρ τοῦ κυρίου μου
the mother of my Lord
わが主のお母様が

http://biblehub.com/interlinear/luke/1-43.htm

ルカ1:43の「キュリオス」(主)が、へブル語の「アドナーイ」(主)=「ヤハウェ」(YHWH)を意味するものかどうか。そうだとすれば、「神の母」(Θεοτόκος)という表現も認められるかと思います。
ただし、マリアの「無原罪」「永遠の処女」「被昇天」といった教説は、聖書に根拠を求められるものではない、と思います。

カトリック教徒は、「神の母」マリアに恵みを求めて祈るのか、あるいは、マリアに主へのとりなしをお願いするのか。これが一つの問題でしょう。

ルターは「マグニフィカート(マリアの讃歌)訳と講解」(1521年)で次のように述べています。

彼女を賜物や助けを与えることのできる偶像としてはならない。彼女は何も与えない。与えてくださるのは神のみである。(『ルター著作選集』p.339)

ルターは「神の母」マリアについてどのような思想を持っていたのか。カール・ヴィスロフが『マルティン・ルターの神学』(鍋谷堯爾訳、いのちのことば社1984年)で述べていることを、要点だけかいつまんでご紹介します。

ルターはカトリックの司祭であった時には、マリヤが女性の心によって自分をあわれみ、御子にとりなしてくださるように、祈っていた

1530年にルターは聖人礼拝のすべてを断罪した。聖人に祈ることは、「キリストのみ」によって救われるという主要信条を直接攻撃する「反キリスト的乱用」である、と説いた。

ルターは終生マリヤに深い尊敬の念を抱いていた。ルターも古代の教会会議と同様に、マリヤを「神の母」と呼んだ

マリヤは生涯、処女であった」とする当時の教会の伝統的な教えを、ルターは終生信じていた。新約聖書に記されたイエスの「兄弟」とは、いとこのことだ、とルターは考えていた。「マリヤの永遠の処女性」は、和協信条の中にも残されている。

ルターは、マリヤの無原罪懐胎説を、最初は信じていた。しかし、1527年の聖書日課で、聖書はこのことについて沈黙しているので、すべての人は自由に考えてよい、と述べている。

ルターはマリヤの被昇天について何回も説教をしたが、最終的にはこれを否定するようになった。

ルターは最初、罪人とキリストの間に仲保者としてマリヤがいる、と信じていたが、これを否定した。

マルティン・ルターの神学

マルティン・ルターの神学

 

青年ルターが雷におびえた時に、マリアの母・聖アンナに助けを求めて、聖職者への道を進むことになったのは、有名な逸話です。マルティン・ルターは生来、ローマ・カトリック教会の信徒であり、アウグスティヌス会の修道士でしたから、「神の母」マリアを崇敬するルターの文書があるのも当然です。ーー宗教改革において、ルターの理解・信仰・神学がどのように変わり、ローマ・カトリック教会のそれとどのように線引きがなされたかーー。それが重要なのです。

ところが、これを考慮せずに、

宗教改革者たちは誤って、カトリックが持っていた大切な宝物を捨ててしまった。

ルターは神の母マリアを崇敬し、マリアに祈っていた。

「三位一体」というよりも「四位一体」ではないか。

日本のプロテスタント教会は、カトリックの伝統に戻るべきだ。

といったことを説く人がいます。

純粋なアカデミズムの世界なら、思想・信条・言論・表現・出版は自由でしょうけれど、教会に直結しているこの学会で、これはいかがなものでしょうか。

あるいは、「ここまではローマ・カトリック教会の教説で、ここからはルターの教説です」という区切りが無かったから、皆が発表者の真意を誤解したのでしょうか。

徳善義和師は、ーールターの文献は少なくとも初期(1517-1522年)中期(1522-1530年)後期(1530-1546年)に分けて扱うべきだーーと述べておられます。(『ルター著作選集』pp.652-653)  

ルター著作選集

ルター著作選集

 

ヴィッテンベルク版「ラテン語著作全集」第一巻序文(1545年)でルターは以下のように述べています(抜粋)。

私の書物、いや、もっと正確に言えば、私のまとまりのない労作を出版したいと望んでいた人たちの願いを、私は長い間拒んできた

私の書物は……あいにく情勢の動きがまとめるひまをなくしてしまったために、荒けずりで、手のほどこしようもない乱雑な状態にある。いまとなっては、これを整理することは、私自身にとっても容易ではない。

このような理由に動かされて、私は、自分の書物全体が、永遠に忘れ去られ、もっとよいものに場所が与えられるようにとねがったのである

なによりもまず、忠実な読者にねがうのは……これらのことを思慮分別をもって、むしろ多分に同情をもって読んでいただくようにということである。そして、知っていてもらいたいことは、私がかつて修道士であって、あの運動をはじめたとき、私は最も熱狂的な教皇派であったことである。

私の初期の著作のなかでどれほど多くの重要なものを、謙虚に教皇に譲り渡したかを、あなたは知るであろう。その後いまでは、私は、これを最も冒瀆的でいまわしいものと思い、いみきらっている

(『ルター著作選集』pp.637-638)

プロテスタントが絶対的な真理の基準とするのは「聖書のみ」です。信条は聖書によって「規範される規範」であって、完全でも絶対でもありません。ルターの教説を絶対視することもまた、ルターの宗教改革と矛盾します。

会議2日目の晩(11月7日)に筆者はお仲間と、聖イグナチオ教会のミサを見学しました。この教会オリジナルの『典礼聖歌』を見ると、歌詞に「ルルド」や「ファティマ」があるのに気がつきました。聖母マリアが出現して預言をした、とされる土地の名です。「ルルド」や「ファティマ」に関わるムーブメントは、キリスト教をゆがめる危険なものだと思います。

カトリック麹町 聖イグナチオ教会
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