KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

主の御言葉に従う(ルカ5:1-11)


2020年8月30日「主の御言葉に従う」ルカ5:1-11

日本バプテスト同盟 西岡本キリスト教会 主日礼拝

 

■聖書 ルカによる福音書5章1-11節 <新共同訳>


1 エスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
2 エスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
3 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
4 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
5 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
6 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
7 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
8 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
9 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
10 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブヨハネも同様だった。すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
11 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

 

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■説教 「主の御言葉に従う」

  1.主と出会う場所


 時は紀元後27年の年が明けて間もない早春と思われます。主イエスガリラヤ地方で宣教を始めて間もない頃です。〈イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて〉来ました。「イエスは特別な権威をもって聖書を説き明かし、悪霊を追い出し、病を癒して、人々を救っている」という評判は、ガリラヤ地方一帯に広まり、大勢の人がイエスの話を聴こうとして、集まってきたのです。

 ゲネサレト湖というのはガリラヤ湖の別名です。南北20キロメートル、東西12キロメートル、166平方キロメートルの広さです。琵琶湖の4分の1、霞ケ浦博多湾と同じくらいです。水深が44メートルの淡水湖で、40種類の魚が棲息しています。ここは南北に続く大地溝帯に位置しており、湖の水面は地中海の水面よりも210メートルほど低くなっています。肥沃な平原と丘陵に囲まれた美しい湖です。ここで獲れた魚は塩漬けや干物やピクルスにされて、輸出されていました。

 イエスは〈二そうの舟が岸にある〉のを御覧になりました。そこで漁師たちは、舟から上がって網を洗って〉いました。そこにいた漁師、シモン(ペトロ)とアンデレとヨハネはすでに、べタニアでイエスの弟子となっていました(ヨハネ1:35-42)。それ以前は、アンデレとヨハネバプテスマのヨハネの弟子となっていましたが、そのバプテスマのヨハネがイエスを「見よ、神の小羊だ」と証ししたので、彼らはイエスの弟子になったのです。シモンとアンデレはベトサイダ村出身の兄弟です。この兄弟と、ゼベダイの子ヤコブヨハネの兄弟は、いつも共に漁をする仲間でした。

 イエスは〈シモンの持ち舟に乗り〉、岸から少し漕ぎ出したところから、〈腰を下ろして〉群衆に福音を教えました。4章44節に記されているように、イエスユダヤ教のラビ(教師)として会堂(シナゴーグ)で説教をされることも多々ありましたが、このような湖畔でもどこでも人々に福音を説いておられました。

 コロナ禍で集まることが難しくなりましたが、私たちは教会ではもちろんのこと、それ以外の場所でも、日常生活の中でどこででも主と出会い、お交わりをすることができるのです。

 

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  2.主の御言葉に従う


 イエスは〈話し終わったとき、シモンに〉仰せになりました。
「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」
 ペトロは答えました。
「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」
 彼らは夜通し漁をしたのに何も獲れず、心身ともに疲れていました。網を洗ってきれいにしたところであり、これからまた漁をするなんて面倒な話です。まして、イエスは大工であり、漁に関しては素人です。シモンは困惑しつつも、こう言いました。
「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」

 〈漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうに〉なりました。そこで、〈もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように〉頼みました。〈彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった〉のです。

 私たちも、一生懸命に努力したのに成果があがらず、失望するときがあるでしょう。それでも、主の御言葉を信じて従うならば、主は私たちにも大きな祝福を与えてくださいます。

 

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  3.主に用いられる人


 〈これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して〉、言いました。
「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。
〈とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたから〉です。

 この出来事を通して、シモン・ペトロは、「イエスはただの人間ではない。神聖なお方である」と悟りました。そして、自らの罪深さを感じ、御前にひれ伏しました。

 人は、神と向き合う時に初めて、自らの真相を悟ります。自分は何と罪深く、聖なる神から遠く離れたものであることか、と。「私はクリスチャンになってから、さらに自分は罪深い人間だと思うようになりました」とおっしゃる方がいますけれど、それはクリスチャンとして健全な認識です。神の光に照らされているからです。私たちが神に近づけるのは、ただ神の一方的な恵みによって罪を赦され、きよめられたからです。

 ペトロはパウロのように専門教育を受けた学者ではありません。けれども主は彼をリーダーに選ばれました。神は高ぶる者を退けて、へりくだる者に恵みを与えてくださいます。

 イエスはシモンに言われました。
「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」。
〈そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った〉のです。

 その後もペトロの家は宣教の拠点として用いられており、ペトロは夫人同伴で宣教旅行をしていたようです(第一コリント9:1)。主イエスの復活の後、弟子たちはガリラヤ湖で漁をしていますから、(ヨハネ21:3)舟も手放してはいなかったようです。おそらくペトロたちの舟は、主イエスガリラヤ湖周辺での宣教活動にも用いられていたでしょう。

 ここで「捨てる」というのは、主イエスに従うことを最優先にするということであり、そのために余計なことをできるだけ削減して、弟子の道に専念するということです。

 主が大切に見ておられるのは「人間」です。魚のことで頭がいっぱいだった彼らが、それからは人のたましいに目を向けるようになりました。

 私たちは何を大切にして、何を得ようとしているでしょうか。主の御言葉によって、私たちの進むべき道を照らしていただき、主に従ってまいりましょう。 

 

新型コロナウイルス未だ恐るべし!

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新型コロナウイルスとインフルエンザの違い

連休初日の今日、7月23日に確認された新型コロナウイルスの新規感染者数
全国で981人に上り、2日連続で過去最多を更新しました。
東京都で366人、愛知県で98人、福岡県で66人と過去最多となり、
大阪府では104人で、過去最多だった22日の121人に続いて100人を超えました。
全国の感染者数の累計は2万7524人になりました。

www.asahi.com


新型コロナウイルス(病名はCOVID-19、ウイルス名はSARS-CoV-2、以下「新コロ」と略す)感染拡大の問題について、私は以下のように認識しています。「新コロをむやみに恐れ過ぎてはいけない」。そのとおりですが、まだ「正しく恐れなければならない」段階だと私は思っています。


最近、次のような意見を見聞きします。

【A】発表されている「感染者数」はPCR陽性者判明数だが、PCR検査では、感染していない人が陽性とされ、感染している人が陰性とされる確率が小さくない。

【B】PCR検査数が増加したのだから、PCR陽性者判明数が増加するのは当然だ。

【C】4月まではPCR検査の対象は有症状者のみであったが、現在は無症状者も含めて全員検査をしているのだから、統計上、感染者数が増加するのは当然だ。

【D】感染者数だけでなく、むしろ重症化した人数死亡者数の方が重要だ。

【E】日本では、自然免疫によって新コロ感染者の98%無症状または軽い風邪程度で済んでおり、重症例は少数だ。

【F】日本での新コロによる死亡者数約1000人で(7月20日現在)、欧米の100分の1程度だ。

【G】日本は医療・保健・介護の体制が優良であり、国民の衛生・健康の意識が高いので、クラスター対策に成功している。

【H】最近の感染者は若者が多いので、重症化や死亡に至る人は少ない。

【I】日本国内で、例年のインフルエンザの感染者数は推定約1000万人、インフルエンザによる年間死亡者数は214人(2001年)~1818人(2005年)、インフルエンザ関連死の年間死亡者数は約1万人いる。新コロを特別視する必要は無い。

【J】新コロの感染者数の増加だけを声高に発表して、報道するのは、必要以上に国民の不安を煽っており、不適切だ。

toyokeizai.net


特番『衝撃!日本では既に”集団免疫が達成”されている!?』ゲスト:京都大学大学院医学研究科特定教授 上久保靖彦氏

これらのご意見の多くは、現時点では正しいと思います。しかし、まだ「油断はできない」と思います。そして、新コロの感染は、インフルエンザの感染とは大きく異なる、と思います。その理由は次のとおりです。


【理由1】まだワクチンができていないから。

【理由2】広く有効性が確かめられた特効薬がまだ無いから。

【理由3】基礎疾患を有する高齢者重症例が多くて、を中心に多臓器の重篤な障害により死に至るケースがあるから。

【理由4】インフルエンザのウイルスは毒性が強くてすぐに症状が出るのに、新コロは毒性が弱い。インフルエンザのウイルスは潜伏期間が2日間と短いのに対して、新コロは潜伏期間が最長で14日間に及ぶ。そのため、感染した本人が気づかないまま、他人に感染させてしまうから。

【理由5】感染した若者たちが動き回って、高齢者や持病のある人などに新コロを感染させる可能性があるから。

【理由6】新コロが変異することによって、これまでの「中国・武漢型」や「イタリア・アメリカ型」とは異なり、日本でも重症化する人や死亡する人が急増する可能性があるから。

【理由7】新コロは、東南アジアや南アジアでも大勢の感染者・死亡者が出ており、気温や湿度の変化に関係なく夏でも流行する可能性があるから。

【理由8】東京圏人口密度が極端に高いため、「3密」を形成する条件が揃っている場所が多いから。

【理由9】東京圏・大都市圏・地方圏で状況が大きく異なっているため、社会的な分断混乱が生じやすいから。

【理由10】クラスタが発生した場合に生じる社会的影響が非常に大きいため、事業者は信用失墜につながりかねないから。

【理由11】「インフルエンザで1万人が死亡」というのは「関連死」であって、同じ期間では新コロの方がインフルエンザよりも死亡者数が多くなる可能性があるから。

今、非常に多くの事業者が経営危機に瀕しており、非常に多くの国民が生活に困窮しています。日本経済を回していくことは緊急の超重要な課題です。
それゆえ全国一律で「All or Nothing」の緊急事態宣言を発令する必要は、もはや無い、と思います。状況に応じて、地域ごとに対応を変えていく必要があります。
よって、自治体の首長の賢明なリーダーシップが期待されるでしょう。もちろん、それを支える専門家や地域の人々の知恵と力の結集が必要です

smart119.biz
www.mhlw.go.jp

【Go To トラベル事業】国土交通省観光庁

https://www.mlit.go.jp/kankocho/content/001351403.pdf 

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新しい旅のエチケット



中共はなぜ、閻麗夢氏を恐れているのか?中共ウイルスの「ファイアウォール」を覆す前哨戦


疫病の黒幕を明らかにするために米国に亡命した閻麗夢氏 テドロスの涙は嘲笑の的


疫病感染スピードは驚くほど速い 正しいことをする



緊急提言・エピセンター新宿を制圧せよ~まずは30万人PCR検査から【新型コロナと闘う 児玉龍彦×金子勝】20200717ためには時間が足りない

 

自分らしく生きるために(マタイ11:28-30)


2020年7月19日「自分らしく生きるために」マタイ11:28-30


■聖書 マタイによる福音書11章28-30節

<新共同訳>
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
 そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。 

<金井試訳>
28 疲れ果てているのに、
 ずっと(律法の)重荷を負わされている人は皆、

 私のところに来なさい。
 休ませてあげます。
29 私は優しく謙虚な心で生きていますから、
 私のくびきを(一緒に)かついで、私から学びなさい。
 そうすれば、あなたがたのたましいは休息を見出します。
30 なぜなら、私のくびきはピッタリと合っていて、
 私の(教えは)荷が軽いからです。

Matthew 11:28 Interlinear: 'Come unto me, all ye labouring and burdened ones, and I will give you rest,

 

■説教 「自分らしく生きるために」


 イエス・キリストは私たちにとって、どのようなお方でしょうか。もちろんイエス・キリストは、天地万物を創造した永遠におられる神であり、贖いのわざを成し遂げた私たちの救い主です。これ以上ない偉大なお方です。私たちはイエス・キリストを尊び、礼拝しています。

 けれども、イエスは天の最も高いところに君臨する王であるのみならず、霊的にはいつもこの世で私たちと共に歩んでくださる教師であると、聖書は教えています。それは具体的には、どういうことでしょうか。今日は、よく知られているマタイによる福音書11章28-30節の御言葉から、このことについて学びたく思います。ギリシア語の原文にできるだけ忠実な訳文を書きましたので、参考にしてください。
 このテキストには、主イエスが語られた三つの命令が記されています。
 第一は「私のところに来なさい」、
 第二は「私のくびきを一緒にかつぎなさい」、
 第三は「私から学びなさい」です。
 この三つに分解して、お話しします。

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ユダヤ教会堂シナゴーグ


  1.私のところに来なさい


 紀元1世紀にユダヤガリラヤの各地にあるユダヤ教会堂シナゴーグ)で指導者となっていたのは、ファリサイ派と呼ばれる人たちでした。「ファリサイ」という言葉は「分離した者」という意味だと思われます。穢れたものから自分たちを分離する、いわば清め派といったところでしょう。

 その中でも旧約聖書の律法を専門的に学んだ人たちは律法学者と呼ばれ、会堂の礼拝だけでなく、会堂に付設された学校でも律法を教えていました。そのルーツは、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還したユダヤ人が主の神殿を再建した(紀元前515年)後に、宗教改革を断行した偉大な祭司エズラである(紀元前458年以降)と考えられています。

 主イエスが地上で宣教をなさった紀元27年から30年頃には、律法学者やファリサイ派の人々は、民衆に膨大な数の戒律を課しました。口伝律法と言いますが、それは聖書に記された律法の何倍、何十倍にも増えていきました。そして彼らは、戒律を守らない人々=守れない人々を、「罪人」として社会から排除したのです

 これに対して主イエスは断固として反対して、彼らの律法主義を厳しく批判されました

あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。(マタイ15:6)

彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。(同15:14)

  たとえば、安息日にイエスの弟子たちが麦畑を通った時に、彼らはお腹が空いていたので、麦の穂を摘んで食べました。すると、ファリサイ派の人々は「あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている」と言って、イエスを批判しました(マタイ12:1-2)。麦を摘んだことは「収穫」、麦の実を殻から取り出したのは「脱穀」、実を手で揉んだのは「調理」で、安息日に禁じられた労働だ、というわけです。
 律法学者やファリサイ派の人々は〈背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない〉のです。(マタイ23:4)。主イエスは、そのような律法の〈くびき使徒15:10)から人々を解放されました
 貧しい人や罪人、病人、障がい者、女性、子どもなど、ユダヤ教会で軽んじられた人々は、イエスのもとに集まりました。幼な子のように無心に主を求める彼らに福音が啓示されたのは、父なる神の御心にかなったことでした(マタイ11:25-26)。

 主イエスは今も招いておられます。

疲れ果てているのに、
ずっと律法の重荷を負わされている人は皆、
私のところに来なさい。
休ませてあげます。

 私たちも様々なルールや慣行によって「しなければならないこと」が山積しており、できないことを責められている、あるいは自分で自分を責めているのではないでしょうか
 疲れ切った時は、無理せず休むしかありません。〈安息日の主〉(マタイ12:8)であるイエスは、私たちの霊も心も体も理解しておられ、必要な休息を与えてくださいます。主イエスは、みもとに来る人を、だれでも受け入れてくださいます。私たちも主イエスのみもとに近づきましょう

 

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軛(くびき)

https://unsplash.com/photos/1rMHZ-omK9Y

  2.わたしのくびきを一緒にかつぎなさい


 続いて主イエスはこう言われました。

私は優しく謙虚な心で生きていますから、
私のくびきを一緒にかついで、私から学びなさい。
そうすれば、あなたがたのたましいは休息を見出します。
なぜなら、私のくびきはピッタリと合っていて、
私の教えは荷が軽いからです。

 くびき〉は二頭の雄牛の首にかけて、車や鋤(すき)を引かせる道具です。イエスは青年時代にナザレで大工をしておられました。当時の大工は、木工に関わる仕事は何でもしました。「私が作るくびきは、あなたにピッタリと合っていて楽だよ。私の大工の腕は一流だから」とイエスは言っておられるのです。

 くびき〉が体型に合っていないと、雄牛は首がくびきに擦れて痛み、疲れてどうしようもなくなります私たちは、自分に合わない仕事や生活のスタイルを続けて、無理をしていないでしょうか? 心や体が痛みを訴えていないでしょうか? あるいは解決していない罪のために、あなたの霊が痛んで、叫び声をあげていないでしょうか?

 私たちの霊と心と体を創造した主は、私たちの不具合を理解しておられ、必要な休息と治療を勧めてくださいます。疲れた時は静かに休んだら良いのです。痛んだら、サインが出ているのですから、ちゃんと治療をしましょう。

 元気が回復したら、また歩き出しましょう。自分にピッタリと合った新しい〈くびき〉を付けて!
   
  3.私から学びなさい


 この世で生きていく以上、人は誰でも、負わなければならない〈荷物〉があります。私たちがキリスト者になったからといって、〈荷物〉が無くなるわけではありません。私たちは自分の家庭や職場、地域社会、親族、教会、交友関係、社会的立場、役割から離れることが、容易にはできません。けれど、〈私の荷は軽い〉と主イエスは言われます。キリスト者旧約聖書の律法から自由にされました。キリストによって与えられた真理が、私たちを自由にしたのです

真理はあなたがたを自由にする。(ヨハネ8:32)。

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)

  そして、もう私たちは独りで荷物を負うことがありません。〈くびき〉は二頭で負うものです。主イエスがあなたのパートナーとなり、あなたの荷物を共に負って歩んでくださるのです。主イエスはこう言っておられます。

私は優しく謙虚な心で生きていますから、
私のくびきを一緒にかついで、私から学びなさい。

 主イエスは、私たちの人生の最高のコーチです。主はあなたのペースに合わせて一緒に歩きながら、良い手本を見せてくださいます。そして、いろいろな局面で一つ一つアドバイスを与えてくださいます。私たちが聴く耳を持っているなら、主イエスはいろいろな方法で私たちに語りかけてくださるのです。私たちキリスト者はキリストの弟子として、キリストを見習いながら、キリストに聴いて、成長していきます
 旧約聖書の律法は〈キリストの律法〉によって完成されます。

兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、その自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤ5:13-14)

互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(ガラテヤ6:2)

 主イエスのごとく〈優しく謙虚な心で〉生きていく者となりたいですね。