「主のまなざし」ルカ22:31~34、54~62
【金言】しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)
私たちは人間関係の中で自分自身の評価を決定して、喜びもし、悩みもする。
しかし、聖書は、神と私たちの関係が第一の問題だ、と教えている。
人間は元来、神に愛され、神を愛する者として造られている。
その関係にこそ幸福と解決とがある。
主の私たちに対する愛の深さを悟りたい。
1.主の赦し
愛するとは第一に、赦すことである。
イエスは私たちに対する神の愛を具体的に表された。
ペトロはイエスの筆頭弟子であるが、彼は三度も主を知らないと言って否む。
しかし、イエスはそのような彼の弱さを予め知りつつ、彼を赦し、彼の信仰が無くならないように祈り、彼に弟子たちの牧会を託された。
それは、多く赦された彼こそ人を多く愛し、包み、励ますことができるからである。
2.主のまなざし
イエスが捕らえられていくと、弟子たちは師を見捨てて逃げ去った。
ペテロは遠く離れてついていくが、大祭司の家の中庭でそこにいた人たちに「この人も一緒だった」と言われて、3度これを否定した。
その時、主が予言されたとおり鶏が鳴いた。
主は振り向いてペテロを見つめられた。
そのまなざしには、深き憐れみがあった。
主はすでに彼を赦しておられたのだから。
私たちは実に過ち多き者であるが、ただ主に赦されて生きていく。
主の愛が闇を駆逐するのである。
3.主の十字架
主イエスは、私たちを赦すために、御自分の命を十字架に献げて下さった。
自分がいかに赦されている者であるかを知る時に、私たちは他人を赦せるようになる。
否、他人を裁く資格すらない自分自身であることに気づくのである。
私たちは弱く、愚かで、罪深い者である。
しかし、主イエスは今も、私たちの信仰が無くならないように、私たちひとり一人のために祈って下さっている。
私たちは主に赦され、主に愛され、主に支えられて生きている。
互いに赦し合い、共に十字架の道に従って行こう。