親と子の絆
人間というもの
「人間」という言葉は「人」の「間」と書きます。人は他の人との関係によって生かされるものです。誰も独りでは生きていけません。人は人間関係において喜び、怒り、哀しみ、楽しむものです。そこに人の生きがいがあります。
人は「神のかたち」に創造された、と聖書は始めに教えています。それは、人が神と人格的な交わりを持つことができる存在であることを意味します。神に愛され、神を愛すること。これが人間の根本なのです。
この神との関係を失うならば、人と人の関係も壊れていき、人は本来あるべき姿から離れていきます。獣でもしないような恐ろしいことを人は考え、実行します。その的外れな状態を聖書は「罪」というのです。これはすべての人に関わる現実の問題です。
まことの人イエス
創造主である神は、罪深き人間を救うために、愛するひとり子をこの世にお遣わしになりました。それがイエス・キリストです。
イエス・キリストを知ることによって、私たちは、
①まことの神を知ることができます。
②救いを体験して、新しく生まれ変わることができます。
③まことの人の道を知り、これを歩むことができます。
イエス様は30数年の地上の生涯において、まことの人の道をお示しになりました。
あなたの父と母を敬え。(出エジプト20:12)
旧約聖書の「十戒」では、対人関係に関する戒めの最初にこれがあります。人間関係の根本は親子の関係です。
では、イエス様はご両親とどのような関係を持たれていたでしょうか。ルカの福音書2章41節以下を見てみましょう。
信仰の教育
イエス様の両親は敬虔なユダヤ教徒でした。彼らは毎年、過越の祭りに参加するために、ガリラヤ地方の村ナザレからユダヤ地方の都エルサレムまで片道110キロ余りの旅をしました。
イエス様が一二歳の時に、彼らは少年イエスを過越の祭りに連れて行きました。当時、ユダヤの男子は13歳で「律法の子」となる儀式を行い、成人することになっていました。この旅は、そのための準備の一部でもありました。
7日間の祭りが終わったので、巡礼団はガリラヤに向かって帰り始めました。ところが途中で、両親は息子イエスがいないことに気づき、引き返すことにしたのです
彼らは三日も探し回って、神殿の境内でようやく息子イエスを見つけました。その時イエス様は、ユダヤ教の教師たちと信仰問答をしておられました。教師たちは、少年イエスの深い聖書理解と勝れた返答に驚嘆しました。
古代ユダヤでは、子どもが幼い時から父親が言葉と文字と聖書を教えることになっていました。少年イエスの知的・霊的成長の陰には、両親の敬虔な祈りと努力があったでしょう。
天の父
マリヤは、集団の規律を破ったとして、息子イエスを叱りました。
すると、イエス様は、
「私が自分の父のもとに必ずいることが、わからなかったのですか」
と言われました。すでにイエス様には神の御子としての自覚があったのです。
人は自らが思い描く自己像に近づいていくものです。親たる者は子どもに、神に似せて創られた人間の尊厳を、まず教えなければなりません。そして子どもが天の父なる神を恐れ、愛して、神の子にふさわしく、神の教えに従って生きるように訓練すべきです。
親と子の絆
それからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。
イエスはますます知恵が進み、背丈も大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:51,52)
イエス様はナザレ村で父親から職業訓練を受けて、大工の仕事を継がれました。父亡き後は、大工仕事に精を出して、母と弟妹を養われたのです。イエス様が30歳くらいになってから宣教の旅を始められたのは、その養育の責任を果たし終えたからでしょう。
人は神に愛され、神を愛するために造られました。そして、人は人に愛され、人を愛するために生きているのです。
イエス・キリストの愛と恵みが皆様の上に豊かにありますように!