「日本が原発を持つのは、その気になれば1年以内に核武装できるように備えるためだ。原発は減らすべきだが、安全保障のために残さなければならない」。これは政界きっての防衛通として知られる、石破茂代議士(自民党)の意見です。
http://www.youtube.com/watch?v=dDCZY9Q9d9U
石破氏はクリスチャン議員としても知られており、誠実な政治家です。20世紀の国際政治学・安全保障政策においては、石破氏の発言は常識的なものと考えられます。しかし、21世紀、とりわけ福島原発事故を経験した我々としては、もう根本的に思想と政策を変えるべきではないでしょうか。
筆者が一市民、一キリスト者としてこの問題について考えるところを、以下、記します。
1986年4月のチェルノブイリ原発事故の後、日本でも原発の危険性について国民的な議論が沸騰した時期がありました。
しかし、バブル経済の崩壊、平成大不況、地球温暖化対策=CO2削減策の推進等、政治的経済的な環境の変化に紛れて、結局、我々は原発の問題から目を背け、大量の電力を消費する生活を続け、より原発に依存する経済社会を造ってしまいました。
政府が悪い、電力会社が悪い、科学者が悪い、マスコミが悪い。そうでしょう。しかし、それだけでなく、我々一般市民=消費者も悪いのです。キリスト教の教職者・神学者・信徒も例外ではない、かと思います(例外の方もおられるでしょうか?)。
同じあやまちを繰り返さないためには、原発を使用することが、
「誰に対して、なぜ悪いのか」
よく考える必要があります。
そして、強力なモチベーションを保持しながら、具体的な方法論を持って、脱原発の新しい社会を建設していかなければなりません。
その作業には、自然科学や社会科学だけでなく、世界観・人生観・倫理観の問題も含まれます。それゆえ、キリスト教の役割は、オプションではなく、中心的なものであるはずです。
例えば、マックス・ヴェーバーの『プロ倫』(プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神)に匹敵する、あるいはあれを超えるくらいの神学的かつ社会学的な作業が必要でしょう。
加えて、マーティン・ルーサー・キング牧師に代表される黒人解放運動や、第二バチカン公会議、解放の神学に勝るくらいの変革のエネルギーが必要でしょう。
すなわち、人々の考えを変え、心を変え、行動を変え、生活を変えて、社会を変える理論と技術とパッションが必要なのです。
ちなみに、E.F.シューマッハーが『Small is Beautiful』(邦訳『スモール・イズ・ビューティフル』)を著して、原発の非人間性・反社会性を糾弾したのは、1973年(原著)でした。
ジョン・ストットが福音派のリーダーとして『ISSUES FACING CHRISTIANS TODAY PART Ⅱ Global Issues』(邦訳『地には平和』)を著して、 地球環境問題に関するキリスト者の社会的責任を訴えたのは、1985年(原著)でした。
遅きに失した感はありますが、中国やインドなど新興国において原発が急増しつつある今、この流れを変えなければ、取り返しのつかないことになるでしょう。
主の御心にかなった世界が実現しますように!