KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

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「救いの条件」使徒の働き15章1~12節

<金言> 私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。 (使徒1511

 

 新しいことを始める時にはトラブルが付きものである。しかし、それを恐れていては何事も進められない。初代教会に起こった「ブレイク・スルー」について学びたい。

 

1.古い皮袋である割礼と律法

 

 パウロとバルナバの伝道旅行が成功して、アンテオケ教会はますます盛んになった。

 そこにユダヤからある人々が下ってきて、「モーセの律法に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教え始めた。

 

 ディアスポラ(離散民)のユダヤ人信徒は、エルサレムから追放された後、異邦人にも宣教して独自の歩みを始めていた。アンテオケ教会がこの人々の一大拠点となり、彼らは「キリスト者」と呼ばれていた。

 

 一方、エルサレムを中心とするユダヤの信徒たちは、ユダヤ教の枠組みからまだ出ていなかった。彼らは、「異邦人は割礼を受けてユダヤ人となり、律法を遵守しなければ、我々の仲間になれないし、救われない」と主張した。

 ディアスポラ=ヘレニスト(ギリシア語を日常的に使う人たち)のユダヤ人信徒が迫害を受けて、エルサレムから追放された後も、ヘブライスト(ヘブル語とアラム語を日常的に使う人たち)のユダヤ人信徒は、そのユダヤ主義ゆえにエルサレムに残ることができたのである。

 

 自分たちは「キリスト者」なのか、ユダヤ教「ナザレ派」なのか? これは大問題である。パウロやバルナバとユダヤ主義者=律法主義者は、激しく対立して、論争した。

 

 福音の真理を保持するためには議論も必要であり、妥協は許されない。

 

2.新しいぶどう酒であるイエスの福音

 

 そこで、パウロとバルナバ他数名の代表者がエルサレムに上り、使徒や長老たちと協議した。48年春に開催された「エルサレム会議」である。これが無ければ、両者は分裂したままで、今日のキリスト教会は無かったかもしれない。彼らはキリスト教会の一体性と秩序を重んじたのである。

 宣教は個人プレイではなく、教会のわざである。

 

 使徒の筆頭格ペテロは、ローマの軍人コルネリオの回心によって、新しい福音理解に目が開かれていた。神は、あのペンテコステの時と同様の聖霊体験を、コルネリオたちにもお与えになった。それによって、イエス・キリストを信じる者は、どの民族・国籍の人であっても差別なくみな救われることが、明らかに示されたのである(10:44-48、11:15-17)。

 

 ペテロはこう述べた。「それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです」。

 

 律法は、一点でも破るならば、その人を罪人として断罪する。律法を完全に守り行って、自分の義を神に認めてもらえる人は、ひとりもいない。ただおひとり、神の御子イエスだけが、人として律法の要求を完全に満たされたのである。


 このお方が我々の身代わりに十字架に死なれたおかげで、我々の罪は無いものとされ、我々が神に義と認めていただけるようになった。それなのになぜ今さら、律法の行いを救いの条件として課すのか。そのような律法主義は、キリストの福音に反するものである。

 ペテロは、このような主張を明確に述べた。

 

3.新しいぶどう酒は新しい皮袋に

 

 続いて、バルナバとパウロは、アンテオケや伝道旅行で行った各地で、神が彼らを通して行われた「しるしと不思議なわざ」について会衆に話した。それによって、神が彼らの福音宣教のわざを認めておられるということを、証ししたのである。

 

 割礼を受けてユダヤ人にならなくても、神の民になることができる。律法で禁じられた汚れたものを食べている、あの異邦人たちが我々と同じ信仰の仲間……。ユダヤの信徒たちは、それまで彼らが守ってきた枠組みを吹っ飛ばされた思いがしただろう。まさに新しいぶどう酒が発酵して、古い皮袋を破ったのである。

 

 では、我々は今、どうだろうか? 律法そのものが悪いのではないが、自分の行いを誇りとして高慢になったり、他人に自分のスタイルを強要して福音から遠ざけたりしていないだろうか? 

 

 キリストの福音は変わることが無いが、人間の文化には多様性があり、変化がある。それゆえ、宣教のスタイルや礼拝の形式などにおいては、ある程度、柔軟に対応することも良いだろう。ただし、それがキリストの福音にふさわしいものであるかどうか、吟味することは必要である。

 

 キリストの福音が持つ生ける力によって、私たちも新たにされ、日本の宣教の壁が打ち破られて、リバイバルのわざが進むことを信じ、共に前進しよう!