1.宗教改革の4大人物
ドイツの宗教改革において中心となったのは、ルターやメランヒトンなどルター派の人々であった。
スイスの宗教改革においては、ツヴィングリやカルヴァンなど改革派の人々が中心となった。
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マルティン・ルター(1483年頃-1546年)
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フィリップ・メランヒトン(1497年−1560年)
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フルドリッヒ・ツヴィングリ(1484年-1531年)
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ジャン・カルヴァン(1509年−1564年)
ルターとツヴィングリは多くの論点で一致したが、聖餐論では一致することができなかった。
メランヒトンは、ルターが強力に支持した同労者であり、「アウグスブルク信仰告白」(1530年)などルーテル教会の基礎となる重要な文書を書いている。
メランヒトンの神学思想はルターよりもカルヴァンに近い、とも言われる。
2.宗教改革者の聖餐論
宗教改革者の聖餐論については、簡単に述べると、以下のような違いがある。
ローマ・カトリック教会「パンとぶどう酒の実体が、キリストの肉と血の実体に変化する」(実体変化説、化体説)
ルター 「パンとぶどう酒のもとに、キリストの体と血が隠されている」(実在説)
ツヴィングリ 「パンとぶどう酒はキリストの肉と血ではなく、象徴に過ぎない。キリストは信じる者たちに臨在される」(象徴説)
カルヴァン 「パンとぶどう酒の中にキリストが霊的に臨在している」(霊的臨在説)
では、メランヒトンとカルヴァンは、どのようなつながりを持っていたのだろうか。以下、簡単に追ってみる。
1539年2月の終わりから3月の初めにかけて、カルヴァンはフランクフルト・アム・マインで初めてメランヒトンに会った。彼らは教会の置かれた状況、聖餐の一致、教会の規律について話し合った。
1540−41年、カルヴァンはヴォルムスとレーゲンスブルクで宗教会談に出席し、そこで再びメランヒトンと会い、新しく改訂されたアウグスブルク信仰告白に署名した。
メランヒトンとカルヴァンは何年にも渡って手紙のやり取りをしていた。最初はカルヴァンが1538年、シュトラースブルクからメランヒトンに宛てて手紙を書き、教会財産の使用に関する問題について助言を求めている。
1543年、カルヴァンはメランヒトンに自著『人間の意志の奴隷と解放から理性的で正統的な教えを擁護する』を献呈した。
1543年にメランヒトンはカルヴァンに、彼の予定説に賛同しないことを伝えた。
1544年、カルヴァンはメランヒトンに、ツヴィングリに対するルターの継続的な非難を抑えるように要請した。その中心的な内容は、聖餐の理解をめぐる問題である。
1545年、カルヴァンは、ルターとは異なる彼の聖餐論を公に支持してほしい、とメランヒトンに要請した。その数か月後にルターは死んだ(1546年)。その後もメランヒトンとカルヴァンは、聖餐論についての意見を手紙でやりとりした。
メランヒトンは1560年4月に死んだ。カルヴァンは1564年に死んだ。
1574年に、フィリップ派と呼ばれていたメランヒトンの弟子たちが、ザクセンで突然「隠れカルヴィニスト」の烙印を押されて、迫害された。
(未完=続く)
【参考文献】
マルティン・H・ユング(菱刈晃夫訳)『メランヒトンとその時代−ドイツの教師の生涯−』知泉館、2012年