ユダヤ人6000人を救った日本の外交官・杉原千畝
第2次世界大戦中、ナチス・ドイツによって殺害されたユダヤ人は、600万人以上とも言われます。その「ユダヤ人狩り」から逃れて来た人々に対して、ビザを発行して命を救った、日本の外交官がいました。杉原千畝(すぎはら ちうね)です。杉原はリトアニアでユダヤ人に日本の通過ビザを発行して、およそ6000人の命を救ったのです。
今年4月7日に、イスラエル中部の町ネタニヤで、スギハラに感謝するセレモニーが行われました。セレモニーには杉原のビザで命を救われた3人が出席し、改めてスギハラへの感謝の意を表しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130408/k10013747701000.html
杉原千畝は、その時のことに関して、次の言葉を残しています。
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」
「私のしたことは外交官としては、間違ったことだったかもしれない。しかし 私には頼ってきた何千人もの人を見殺しにすることはできなかった」
「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」
「恐らく百人が百人、東京の回訓通り、ビザ拒否の道を選んだだろう。それは何よりも昇進停止、乃至、馘首が恐ろしいからである。私も何をかくそう、回訓を受けた日、一晩中考えた。公安配慮云々を盾にとって、ビザを拒否してもかまわないが、それが果たして、国益に叶うことだというのか。苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと今も確信している」
以下、簡単に杉原千畝の生涯をたどってみます。
杉原千畝は、1900年(明治33年)1月1日に、岐阜県加茂郡八百津町で生まれました。父親は税務署の職員でした。小学2年生から名古屋で育ちます。
1918年(大正7年)4月に早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)に入学。その学生時代に早稲田奉仕園の信交協会に所属しており、そこでキリスト教との出会いがありました。
1919年7月に外務省の留学生試験に合格。大学を中退して、その年の10月に官費のロシア語学生として満州のハルビンに留学しました。
1920年(大正9年)9月に陸軍入隊。1921年11月、少尉となりました。1922年に退役して、日露協会学校特修科に通学。杉原のロシア語の能力は非常に高く、1923年には日露協会学校の教員となりました。
1924年(大正13年)2月には外務省書記生として採用され、ハルビン大使館二等通訳官などを経て、1932年(昭和7年)3月に満州国政府外交部事務官となりました。1933年(昭和8年)には、満州国全権団書記長として、満州ソ連間の北満鉄道(東清鉄道)買収交渉を担当しました。1934年9月に満州国外交部政務局ロシア課長兼計画課長となりました。
1924年(大正13年)に杉原は白系ロシア人女性と結婚しましたが、1935年(昭和10年)に離婚して、同年、菊地幸子と再婚しました。満州時代に、杉原はロシア正教会の洗礼を受けています。
1935年(昭和10年)7月に満州国外交部を辞任。1936年に、カムチャッカで日露漁業交渉に参加しました。1937年9月に、ヘルシンキにあるフィンランド日本公使館通訳官として渡欧し、そこで代理公使に任命されました。
そして、1939年8月に、リトアニア国の首都カウナスに新設された日本領事館に、領事代理として就任したのです。その領事館にユダヤ難民が集結したのは、翌年、1940年7月18日です。彼らに日本の通過ビザの発給を始めたのは、7月29日です。
8月2日に外務省から領事館退去命令が下されたため、8月28日に杉原一家は領事館を離れて、ホテルに避難しました。9月9日にカウナス駅から国際列車が離れるまで、杉原はビザを書き続けました。杉原が、6000人以上のユダヤ人に、日本の通過ビザを発行したのは、事実です。
その後、リトアニアはソ連に併合されました。杉原は、ドイツ東プロイセン州の日本総領事やルーマニアの日本公使館一等通訳官などを務めましたが、1945年7月にブカレスト郊外にあるソ連の収容所に入れられました。1946年12月に解放されて、杉原一家はシベリア鉄道を使って、日本に戻りました。
すると、帰国後2か月が経った6月に、杉原は外務省から突然、依願免官を求められたのです。外務省きってのロシア通といわれた杉原でしたが、47歳にして外務省を去ることとなりました。
退官後、杉原は生活のために職を転々としました。語学力を活かして、東京PX(現在の松屋デパート)日本総支配人、貿易商社A/ポンビー支配人、三輝貿易(株)取締役、ニコライ学院教授、科学技術庁、NHK国際局、川上貿易(株)モスクワ事務所長などで活躍。最後に退職し日本に帰国したのは、75歳の時でした。
1986年(昭和61年)7月31日に、杉原は86年7か月の生涯を終えました。
杉原の名が有名になったのは、1994年に映画『シンドラーのリスト』がアカデミー賞を受賞して、ヒットしてからです。杉原は「日本のシンドラー」と呼ばれるようになりましたが、助けた人の数は杉原の方がずっと多いのです。
今日でも、リトアニアやイスラエルをはじめ、世界中に杉原千畝の功績を認めている人々が大勢います。
<参考>
このビデオは話がわかりやすい。
「グッとくるいい話 杉原千畝」
http://www.youtube.com/watch?v=dIHIe15B2Gs
http://www.chiunesugihara100.com/j-top.htm
Wikipedia も詳細に記している。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%89%E5%8E%9F%E5%8D%83%E7%95%9D
これは杉原千畝の夫人がお書きになった本
http://www.amazon.co.jp/dp/4811703073/
敬愛する山本祐策先生も杉原千畝について書いておられます。
http://www.amazon.co.jp/dp/477337389X/
「命つないだ神戸のリンゴ ユダヤ難民4600人支える」