教会史を学ぶ意義
1.教会史とは何か
「教会史」とは何か。端的に言えば、それは「教会」の「歴史」に関する研究である。
「教会」とは何か。教会とは、イエスをキリストと信じる者たちの集団であり、イエス・キリストをかしらとする共同体である。
「歴史」とは何か。歴史とは、この世の事物が時間的に変遷した有り様であり、それを記した文書や記録のことである。
「キリスト教史」は、キリスト教の宗教、文化、社会、思想等、広範な課題に関する歴史的研究を行う。それは、キリスト教内部のみならず、一般(世俗)のアカデミズムにおいても為される。これに対して、「教会史」は、「教会」を課題の中心にすえて歴史的研究を行う「神学」的営為である。教会史は「歴史神学」の一部分であり、その中心である。
「歴史学」は、史料の批判・検証によって歴史的事象とそれらの関連性を追究する実証科学である。「一般歴史」のみならず、「教会史」にもおいても、その方法論が用いられる。
ただし、「教会史」は「神学」であるから、主権をもって歴史を計画的に導いている「神」の存在を前提としている。「教会史」の歴史観は「一般歴史」とは大きく異なるのである。
2.教会史の研究対象
「一般歴史」は、主に国家や文明など人間の社会を研究の対象とする。これに対して、「教会史」は「キリスト教会」を主たる研究の対象とする。
ただし、キリスト教徒は今日、世界中に存在し、世界人口のおよそ3分の1を占めており、キリスト教は最大の世界宗教となっている。二千年にわたってグローバルに拡大したキリスト教は、世界各地の国家や民族、文明、社会、文化に絶大な影響を及ぼしてきた。キリスト教を抜きにして世界の歴史は語り得ず、世俗の世界、一般社会の歴史的変遷を考慮せずに教会史を語ることもできない。
これは、西欧のキリスト教世界を中心とした歴史観、いわゆる「普遍史観」に対する厳しい批判が噴出する現代において、なお、妥当な見方である。むしろ、そうであるから、なおさら、「教会史」あるいは「キリスト教史」の研究が今日、重要なのである。
3.キリスト教の歴史性
キリスト教は最初から歴史に根ざした宗教である。すなわち、キリスト教の起点は、「イエス」という「人間」の歴史的実在にある。「イエス」の歴史的実在と彼の十字架刑による死は、現代の歴史学において、ほぼ疑い得ない事実である。
「歴史的人間イエスは、神が天から遣わした神の子キリスト(救世主)である。[1] 十字架刑によって死んだイエスは、死後三日目に復活した。その復活こそ、イエスが神の子キリストであることの証明である」。このように「信じる」ことが、キリスト教の根本である。
その「イエス・キリスト」の地上における生と死と復活という出来事を、自ら「体験」したイエスの弟子たちの「証言」が、キリスト教会を生み出し、キリスト教の聖典また正典である新約聖書を生み出した。
その新約聖書の諸文書において、イエスの弟子たちとその信従者たちは、この地上におけるイエスの生と死、とりわけ復活が具体的な「事実」であり、彼らの信仰がその「事実」に基づいたものであることを確信し、強調して教えている。[2]
今日、イエスの「復活」を歴史的な「事実」として科学的=歴史学的に証明することは不可能である。「復活」したイエスを「神の子キリスト」と認めることは、信仰に属する事柄である。その信仰は、人間の知恵によって獲得されるものではなく、神の「啓示」と「聖霊」の働きによってのみ、神の「賜物」として人々に与えられる。これが聖書の教えであり、キリスト教の基本的な思想である。[3]
ただし、人間イエスの歴史的実在、キリスト教会の誕生、新約聖書の成立、そして今日に至るまで二千年間キリスト教会が存続していることは、歴史的な事実である。
4.教会史の歴史観
科学としての歴史学では、歴史的事象は、一回限りかつ個性的なものであって、反復が不可能である。それは偶然性に支配される。
これに対して、神学である教会史は、歴史観が根本的に異なる。すなわち、歴史は、創造主なる唯一の真の神「主」の「摂理」によって、計画的に進行するものである。すべての事象が「主」の支配下にあり、必然性を有する。これは、キリスト教神学が、そのような歴史観を持つ「聖書」に基礎づけられた営為だからである。
「罪」という人間の本性は、最初の人アダムの堕落以来、今日に至るまで、根本的に何ら変わるところが無い。それゆえ、人類は、いつの時代も同様の過ちを繰り返しており、神による救済を受けなければ、滅びる他ない存在である。
神は、このような人類を救うために、御子イエス・キリストを遣わし、その死によって人類の罪を贖われた。そして、彼の復活によって、イエスの信従者に永遠の命を与え、永遠の御国の希望を与えてくださった。キリスト教会はこの福音を全世界に宣教する使命を神から託されている。それゆえ、教会史には「宣教の歴史」という基本的性格がある。
5.教会史を学ぶ意義
古代イスラエルの宗教は、「トーラー」(モーセ五書)を基礎として発展した。トーラーは、イスラエル民族の起源を教えている。起源論すなわち本質論である。これを学ぶことによって、イスラエルの人々は、自分たちが神「主」に選ばれ、贖われた民であることを知った。その自己理解を基礎として、イスラエルの共同体は存立し、独自の歴史を織りなしたのである。
キリスト教会は、神が選び、召された、新しい「イスラエル」である。[4] それゆえ旧約聖書と新約聖書、そして教会史が教える歴史は、キリスト者=教会のルーツを示し、本質を教えるのである。
どのような歴史観を持つかということは、個人、家族、社会、民族、国家、国際政治など、あらゆるレベルにおいて、そのあり方や活動の方向性に決定的な影響を与える。
ドイツの大統領であったヴァイツゼッカーは、1985年5月8日の連邦議会で『荒れ野の40年』と題する演説を行った。その中で語られた、次の一節は有名である。
「過去に眼を閉ざす者は、未来に対してもやはり盲目となる」
過去のキリスト教会の営みには、現代の我々にも良き模範となることが、たくさんある。しかし、逆に、反面教師とすべき間違い、失敗、罪もまた数限りなくある。
我々の直面する現実と照らし合わせながら、問題意識をもってキリスト教会二千年の歩みを学ぶならば、適切な警告と豊かな慰めと確かな希望を見いだすことができるであろう。
[2]ルカ1:1-4、使徒1:1-3, 2:32, 3:15, 4:20, 5:30-32, 10:37-42, 13:30-31、ローマ1:3-4、Ⅰコリント15:3-8、Ⅱペテロ1:16-18、ヨハネ1:14, 19:35, 21:24、Ⅰヨハネ1:1-3, 3:24
[3]ローマ16:25-27、Ⅰコリント1:21, 2:4-10, 12:3、Ⅱコリント4:3-6
[4]ガラテヤ3:7-9, 29, 6:16、Ⅰペテロ2:9
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- 作者: リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー,永井清彦
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