正統的キリスト教とは何か。その基準はどのようなものか。この問題について議論することが教会会議の重要な目的の一つであり、この問題に答える文書が「信条」である。アリウス主義とニケア正統主義の闘い、原ニケア信条とニケア・コンスタンティノポリス信条(NC)の成立に、その具体例を見ることができる。
1.ニケア公会議
「ニケア」は小アジア・属州ビティニアの都市で、コンスタンティノポリス(現在のイスタンブール)の南側に位置する。交通の要衝であり、首都防衛の拠点とされた。今日の名は「イズニク」である。ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(大帝)は、ここに夏の離宮を設けていた。
コンスタンティヌス大帝は325年5月20日に、帝国各地の教会を代表する300名余りの司教をニケアに召集して会議を開いた。これが「ニケア公会議」(ラテン語Concilium Nicaenum、英語Council of Nicea)、最初の世界教会会議(Ecumenical Council)である。
この会議では、棄教者を教会に復帰させるための基準、司教や長老の選出方法と按手の方法、司教管区の優先順位等、多くの議案が処理されたが、最も重要な問題は、アリウス主義のキリスト論であった。この会議の結論として出されたのが「原ニケア信条」であり、これによってキリスト教の根本である「三位一体」の教理が確立したのである。
ニケア公会議の背景には、政治的な事情と神学的な事情がある。
紀元後30年頃にユダヤで生まれたキリスト教は、急速に帝国の全域に広められた。ローマ帝国は1世紀から4世紀まで、断続的にではあるが、キリスト教徒を迫害した。ローマ帝国は基本的に諸宗教に対して寛容であったが、ユダヤ教とキリスト教は例外であった。それは、ユダヤ教徒とキリスト教徒が、皇帝礼拝を固く拒否したからである。
その他の諸宗教の自己理解は、ワン・オブ・ゼム、多神教的であって、相対的なものであった。それゆえ、人々は複数の宗教を掛け持ちすることに違和感がなかった。帝国治下の諸民族は、皇帝礼拝を受け入れることができた。しかし、ユダヤ教とキリスト教は、「天地万物の創造者である主は、唯一の神である。主の他何ものも神としてはならない、拝んではならない」と教えており、偶像崇拝や人間崇拝を厳しく禁じていたのである。
広大な地中海世界を統治するローマ帝国は、諸民族のアイデンティティーを尊重しつつ、帝国の統一性を確保する方法を必要としていた。歴代のローマ皇帝は、皇帝礼拝こそ、その統一原理であると考えたため、皇帝礼拝の命令に従わないユダヤ教徒やキリスト教徒を重刑に処したのである。
3.コンスタンティヌス体制の始まり
ところが、古代の偉大な神学者オリゲネス(182年?~251年)は、キリスト教の真の神礼拝こそ帝国を強め得るものだ、と主張した(ケルソス反駁論)。その大転換が、コンスタンティヌス大帝の治世(在位306年~337年)において、実際に起こったのである。
2世紀の終盤から3世紀の終盤までローマ帝国は弱体化して、危機的な状態に陥った。政治が混乱して皇帝が次々と代わり、内乱や外敵の侵入が相次ぎ、疫病やインフレに民衆は苦しんだ。ディオクレティアヌス帝(在位284~305年)は立法・司法・軍事の最高権を一手に握り、専制君主となって、帝国の再建に取り組んだ。彼は、キリスト教徒に対して迫害政策をとった。
ディオクレティアヌス帝の死後、ライバルを打ち破って皇帝の座を手にしたのが、コンスタンティヌス1世(272年~337年)である。312年10月28日、ローマの北、ミルヴィウス橋での決戦で、彼は、ギリシア語でキリストを意味する「クリストス」の最初の二文字、「X」(キー)と「P」(ロー)を組み合わせたしるしを掲げて戦い、勝利を得た。
コンスタンティヌス大帝が313年に出したミラノの勅令によって、キリスト教はローマ帝国の公認宗教となった。大帝の宗教政策は「一つの帝国、一つの教会」というものであった。コンスタンティヌスは、キリスト教を用いてローマ帝国を再編し、立て直そうとしたのである。彼が325年にニケアで公会議を開いたのは、まさにそのためであった。
330年に、大帝は帝国の首都をローマからコンスタンティノポリスに移した。古い宗教や伝統にとらわれるローマの元老院から離れて、キリスト教が盛んな東方に重心を移したのである。ただし、コンスタンティヌスは、そもそも不敗の太陽神の崇拝者であり、臨終の床まで洗礼を受けなかった。
ともあれ、コンスタンティヌス大帝が皇帝権によって教会会議を召集した時から、キリスト教会は、時の政治支配者によって信仰の内容まで介入されることになったのである。
4.アリウスのキリスト論
コンスタンティヌス大帝は、キリスト教をローマ帝国の統一原理として利用しようと、もくろんだ。それゆえ、大帝がキリスト教会に一致を要求したのは、当然である。
ところが、318年以降、アレクサンドリアの教会の司祭であったアリウス(256年頃~336年頃)が司教アレクサンデルに対して主張したキリスト論の問題によって、帝国内のキリスト教会は、二つに大きく割れてしまった。アレクサンドリアの司教アレクサンデルが319年頃に全司教に送った回覧状によれば、アリウスの主張は次のようなものである。[1]
「神は常に父であられたのではなく、父でなかった時があった」
「神の言葉(ロゴス)は永遠からあったのではなく、無から造られたのである」
「子は被造物であり、作品である」
「彼はその本質(ウーシア)に関しては父と同様ではない」
「彼は神の言葉と神のうちにある知恵によって存在となったのであり、この知恵によって神は万物を造るとともに、彼をも造りたもうたのである」
「彼はその本性上、変化するものであって、他の理性的被造物と同様である」
「言葉は神の本質の外なるもの、他なるもの、離されたものである」
「子は父についてすべてを語ることはできない。なぜなら、彼は父を完全に見ることはできず、彼の父を知る知識は不完全・不正確だからである」
「子は自分自身の本質についても知らない。というのは、父は彼をいわば道具として我々を創造しようとし、我々のために彼を造られたからである。もし、神が我々を創造しようと欲したまわなかったならば、彼も存在しなかった」
アリウスが320年頃に司教アレクサンデルに宛てて書いた手紙には次の記述がある。[2]
「神はよろず世の先に独り子を生みたまい、これによって世々(アイオーン)と全宇宙を造りたもうた」
「彼は神の御旨によって時間と世々に先立って創造され、生命と存在を父から受け、また栄光をも存在とともに与えられた」
「それゆえ三つの存在(ヒュポスタシス)がある」
「神は万物の原因であって、初めを持たぬ唯一のものである。しかし、子は時間の外で父から生まれ、よろず世の先に創造され、建てられたのであって、生まれる前にはなかったのであるが、時間の外で、他の全てのものの先に生まれ、父によって存在する唯一のものである」
「子は永遠ではなく、父と永遠をともにするのでなく、父とともに生まれざる者であるのでもない」
「神は単一者(モナス)であり、万物の始源であったから、万物の先にいましたもうた。したがって、子よりも先にいましたもうた」
「子は、存在することと栄光と生命とを父から受けて、万物が彼に渡された。そのように、神が彼の始源である」
アリウスの教説を簡単にまとめると、次のようになるだろう。
a) 神は単一者として子よりも先におられた。子は永遠ではない。(子の相対的先在性)
b) ロゴスは時間の外で神によって創造された。子は一被造物である。(子の被造性)
c) 神はロゴスによって世々(アイオーン)と全宇宙を創造された。(子の従属性)
d) 子はその本質(ウーシア)に関しては父と同様ではない。(子の異質性)
e) 厳密に言えば、子は神ではない。(子の限定的神性)
アリウスが取り上げている聖書テキストで特に重要なのは、箴言8章22節である。
【口語訳】
主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
【新改訳】
主は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。
【新共同訳】
主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。
アリウスの教説には、単一神論とロゴス・キリスト論の影響が見られる。それはアリウスだけではなくて、初期キリスト教に広く見られる傾向であり、オリゲネスをはじめ教父たちが論じてきた問題であった。
東方教会において三位一体論の形成に重要な役割を果たしたのは、オリゲネス(185年頃~254年頃)である。彼のロゴス・キリスト論は大きな影響力を持った。ロゴス・キリスト論は、父なる神のロゴスとしてのキリストに神性を認めていた。[3] ただし、オリゲネスの三位一体論には、父に対するロゴスの従属性が認められる。
2世紀から3世紀にかけて、ロゴス・キリスト論は二神論に道を開くものだ――として、神の単一性を強調するモナルキア主義が現れた。これには二つの種類がある。
その一つは、「イエスは単なる人間であったが、洗礼の時に聖霊を通して神の力(デュナミス)を受けて、神の養子とされた」と説く「動態的モナルキア主義」、「養子説」である。これを説いたサモサタのパウロスは、260年~272年までアンティオキアの司教をしており、アリウスが師事したアンティオキアの司教ルキアヌスはパウロスの弟子である。この教説はアリウスに直接、影響を与えている。
もう一つは、「神のペルソナは単一であり、父、子、聖霊は様態表現にすぎない」と説くサベリウス派の「様態的モナルキア主義」(様態論)である。これは「天父受難説」として知られている。[4]
テルトゥリアヌス(150/160~220年頃)は、モナルキア主義の異端と戦って、三位一体論の形成に大きく貢献をした。彼は、一つの実体(スブスタンティア)に父と子と聖霊という三つの位格(ペルソナ)がある、と主張した。[5]
アレクサンドリアの司教ディオニュシオス(在任260年~264年または265年)は、サベリウス主義に反対して、従属説を明確に示した。
アリウスは、神の単一性を堅持しようと努めた。アリウスにおいては、完全な超越者である神が、その本質において被造世界と直接関わることはありえない。十字架で苦しみ死んだ「子」が、「父」と同じ神ではありえないのである。[6]
神の存在のあり様は、神秘に属する事柄であって、人間の言葉で完全に表現することは不可能である。しかし、正しい教えと誤った教えを区別する基準は、実際に必要である。
5.ニケア公会議の開催
司教アレクサンデルは、エジプトとリビアの司教をアレクサンドリアに召集して教会会議を開催し、自分が作った「信仰告白」をアリウスに提示した。アリウスはそれに署名することを拒否し、自説を撤回しなかった。そのため、教会はアリウスを破門にした。
そこで、アリウスの一派は、他の司教たちの支援を求めてパレスチナに行き、さらに小アジア・属州ビティニアの都市ニコメディアに逃れて、当地の司教エウセビオスを頼った。
アリウスはアレクサンドリアで最も人気のある司祭であった。彼は流行歌や讃美歌を利用して彼の教義を広めた。アリウスは、ニコメディアのエウセビオスなど、かつてルキアノス門下で学友だった各地の司教たちに支持を求めた。そのため、アリウス主義をめぐる論争は各地に広がっていき、東方教会全体を分裂させる問題にまで発展した。
この頃、コンスタンティヌス大帝は、政治的に東西に分裂した帝国の統一を回復するために軍隊を進め、東方にある諸州を制覇しつつあった。大帝はローマ帝国の統一性を重視していたため、アリウス論争による東方教会の分裂を重大な問題と考え、危惧した。大帝はコルドバの司教ホシウスに調停をさせたが、不調に終わった。そこで大帝は325年3月20日に、皇帝権によってキリスト教会の公会議をニケアで開催したのである。
アリウスは、司教ではなかったため、ニケア公会議の座に就くことが許されなかった。そこでニコメディアの司教エウセビオスが、アリウス主義の代表者として公会議で論述を行った。それに対抗する正統派にはアレクサンデル、その秘書アタナシオス、エウスタティウス、ホシウスなどがいた。正統主義の勝利に大きく貢献したのは、この若き司祭アタナシオス(299年~373年)であった。教会史家として有名なカイザリアの司教エウセビオスは、オリゲネスの従属説に従っていたので、アリウスに同情的だった。
ニコメディアの司教エウセビオスは、自分たちの教理を詳しく説明すれば、公会議全体がこれを受け入れてくれると確信していた。しかし、「子は被造物以外の何ものでもない」とするアリウス主義の教説を聞いた司教たちは、激しく怒り、「嘘つき」、「冒涜者」、「異端者」と叫んで彼を非難した。
6.原ニケア信条
ニケア公会議では、カイサリアの司教エウセビオスが提示した「カイサリア信条」[7]を基として、「父」と「子」を「同質」(ホモウシオス)と定義する信条が作られ、正統的な信仰告白として公式に採択された。381年にコンスタンティノポリス会議で採択された「ニケア・コンスタンティノポリス信条」(NC)が一般的に「ニケア信条」と呼ばれるため、325年の信条は「原ニケア信条」と呼ばれる。以下が、その信条である。[8]
われらは信ず。唯一の神、全能の父、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。
われらは信ず。唯一の主イエス・キリストを。
主は神の御子、御父よりただ独り生まれ、すなわち御父の本質より生まれ、神よりの神、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と同質(ホモウシオス)なる御方。
その主によって万物、すなわち天にあるもの地にあるものは成れり。
主はわれら人間のため、またわれらの救いのために降り、肉をとり、人となり、苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ねる者とを審くために来り給う。
われらは信ず。聖霊を。
御子が存在しなかった時があったとか、御子は生まれる前には存在しなかったとか、存在しないものから造られたとか、他の実体(ヒュポスタシス)または本質(ウーシア)から造られたものであるとか、もしくは造られた者であるとか、神の御子は変化し異質になりうる者であると主張する者を、公同かつ使徒的な教会は呪うものである。
この信条の教説を簡単にまとめると、次のようになるだろう。
a) 子は永遠に存在する。(子の永遠性)[9]
b) 子は父から生まれたのであって、創造されたのではない。(子の絶対的先在性)[10]
c) 天地万物は子によって創造された。(子の主権性)[11]
d) 子の本質(ウーシア)は父と同質(ホモウシオス)である。(父と子の同質性)[12]
e) 子は異質なものに変化することはない。(子の不変性)[13]
f) 子は完全な神である。(子の完全な神性)[14]
「ホモウシオス」(同一本質的)という語は聖書に無いが、その思想は聖書に明らかに認められる。[15] オリゲネスが使用したため、この言葉は三位一体論のキーワードとなった。これは、二つの物が同じ素材から作られたことを意味する言葉である。同じ金属から作られた二枚の硬貨、といった場合である。この言葉の用法があまりにも物質的であるため、抵抗感を持つ司教たちが多かった。
しかし、コンスタンティヌス大帝は、「ホモウシオス」の一語を信条に含めることを求めた。アリウス派は、これでは「父」と「子」の区別が存在しないかのように受け取ることができると考えて、強く抵抗した。大帝としては、これによってアリウス主義を明確に否定して、キリスト教会を分裂させる争いに決着をつけることができると考えて、強行したのだろう。教会ではなじみのない、この哲学的概念が、混乱を招くのだが。
ともあれ、原ニケア信条の採択は、三位一体論が確立した画期的な事件であった。
7.アリウス主義の反撃
ニケア公会議に出席した司教たちは、アリウス主義に対するアナテマ(呪いの言葉)を含むこの信条に署名して、合意を示すよう求められた。アリウスと2名の司教が、この署名を拒否して、追放された。3か月後には、ニコメディアの司教エウセビオスと彼に近い2名の者が、署名の撤回を望んだため、追放された。
しかし、エウセビオスは間もなく、ニコメディアに帰還を許された。ニコメディアには皇帝の夏の宮殿があった。エウセビオスは宮殿付の司教であるため、皇帝に取り入って、アリウスを呼び戻すことに成功した。けれど、アリウスは間もなく死んだ。
ニコメディアの司教エウセビオスは反撃を始め、アタナシオスらニケア正統主義の指導者たちのほとんどを追放することに成功した。337年、コンスタンティヌス大帝に臨終の床で洗礼を授けたのは、ニコメディアの司教エウセビオスであった。
大帝の死後、帝国は三人の息子たちによって分割された。東方の統治者であったコンスタンティウス2世は353年に帝国の再統一を果たし、単独皇帝として君臨した。彼はアリウス主義者であった。コンスタンティウス帝の治世には、脅迫や実力行使に屈して、アリウス主義を受け入れる司教が増加していった。356年に、アタナシオスが牧会していたアレクサンドリアの教会は、軍隊に包囲され、部隊が聖餐の場に突入してきたと伝えられる。
361年にコンスタンティウスが死ぬと、いとこのユリアヌスが皇帝となった(在位361~363年)。彼は、キリスト教への優遇政策を廃止して、異教の復興を進め、自ら古代の神々の祭儀を行った。そのため、彼はキリスト教徒から「背教者」と呼ばれた。
その後、ウァレンス帝の時代(在位364年~378年)に再びアリウス主義が力を持った。皇帝とアリウス主義者は、あらゆる権力と手段を用いて、ニケア正統主義者を弾圧した。アリウス派は国家から全面的な支援を受けていた。コンスタンティノポリスでは、ニケア正統派の教会が皆無となった。
ニケア公会議(325年)以降、コンスタンティノポリス公会議(381年)までに作られた諸々の信条や声明では、「ホモウシオス」(同一本質的)という用語を避けて、「ホモイウシオス」(相似本質的)を用いる傾向が見られた(半アリウス主義)。そして、「父」と「子」の「相似」(ホモイオス)を主張するホモイオス派(相似説)や、「父」と「子」は「異なる本質の者」(アノモイオス)であると主張するアノモイオス派(非相似説)が現れた。
しかし、この困難な時代にも、ニケア正統主義を守り、神学を発展させた勇士たちがいた。ニケア派の筆頭格であった、アレクサンドリアの司教アタナシオス(295年~373年)は5回も追放されて、その期間は通算で17年半に及んだ。
カパドキアのカイザリアの司教バシレイオス(330年~379年)は、「子」はあらゆる面で「父」と同じである――と教えた。また、彼は『聖霊論』を著して、聖霊の神性を否定する者たち「プネウマトマコイ」に反論した。バシレイオスと彼の弟であるニュッサの司教グレゴリオス(335年頃~394年)、そして友人であるナジアンゾスのグレゴリオス(329年~389年)は協力して働いた。彼らは「カパドキア三教父」として知られる。彼らは、「同一本質」(ホモウシオス)と父・子・聖霊の三つの「存在」(ヒュポスタシス)を同時に受け入れることが可能であると説いた。
アタナシオスを中心としたグループを前期ニケア派、バシレイオスを中心としたグループを後期ニケア派と呼ぶ。
8.ニケア正統主義の勝利とキリスト教の国教化
378年にウァレンス帝が戦死した後、グラティアヌス帝はテオドシウスを東方の共同統治者に任命した。テオドシウス帝(在位379年~395年)は379年の冬、大病を患った時に、ニケア正統派のテサロニケ司教アコリウスから洗礼を受けた。ニケア正統主義の信仰を持ったテオドシウス帝は、380年11月、コンスタンティノポリスに入城すると、ただちに大主教デモフィリスをはじめアリウス派の者たちを追放した。後任のコンスタンティノポリス大主教に就任したのは、ナジアンゾスのグレゴリオスである。
381年2月に、ローマ帝国の共同統治者であるテオドシウス、グラティアヌス、ウァレンティアヌスは、「三位一体の神を信仰しない者は、異端と認定し、罰する」という勅令を出した(テサロニケ勅令)。
同年、テオドシウス帝は、コンスタンティノポリスで公会議を開催し、司教たちを召集した。この時に議長を務めたのは、ナジアンゾスのグレゴリオスである。公会議は、原ニケア信条を再承認し、これに聖霊に関する条項を加えるなど修正をして、三位一体の教理を明確にした。「使徒信条」の影響もある。これが「ニケア・コンスタンティノポリス信条」(NC)である。「原ニケア信条」にあったアナテマ(呪いの言葉)はNCでは削除された。以下がその信条である。[16]
われらは信ず。唯一の神、全能の父、天と地、すべて見えるものと見えざるものとの創造者を。
われらは信ず。唯一の主イエス・キリストを。主は神の御独り子、よろず世に先立って、御父より生まれ、光よりの光、真の神よりの真の神、造られずして生まれ、御父と同質にして、万物は主にあって成れり。主はわれら人間のため、またわれらの救いのために天より降り、聖霊により、おとめマリアより肉体をとり、人となり、われらのためポンテオ・ピラトのもとに、十字架につけられ、苦しみを受け、葬られ、聖書に従って三日目によみがえり、天に昇り、御父の右に座したまえり。生ける者と死ねる者とを審くために、栄光をもって再び来たり給う。その御国は終わることがない。
われらは信ず。主にしていのちを与える聖霊を。聖霊は御父[と御子と]より出で、御父と御子とともに礼拝せられ、あがめられ、預言者を通して語られる。われらは信ず。唯一の、聖なる、公同の使徒的教会を。われらは、罪の赦しのための唯一の洗礼に同意を表す。われらは、死人のよみがえりと来たるべき世の生命とを待ち望む。
この「ニケア信条」(NC)は、東方正教会と西方のローマ・カトリック教会、聖公会、プロテスタントの一部が採用する、唯一のエキュメニカルな世界信条である。ただし、聖霊が「父のみから」出るか、「子からも」(フィリオクェ)出るか、東方と西方で見解が異なる(フィリオクェ問題)。西方の理解は、御霊の「二重発生」と呼ばれる。
テオドシウス帝はさらに、異教の神への犠牲を禁じ、ミトラ教の集会場を破壊した他、女祭司制度を廃止するなど、異教に対して厳しい政策をとった。388年にテオドシウス帝は元老院に古代ローマ宗教廃絶の決議を提起し、これが可決されたため、ニケア正統主義のキリスト教が事実上、ローマ帝国の国教となった。
9.アリウス派の衰退
アリウス主義は、この決定的な敗北の後も、400年近く命脈を保った。
アリウス派は、早い時期から北方のゲルマン民族に宣教していたため、ヴァンダル王国、東ゴート王国、西ゴート王国、ランゴバルド王国などで多数派を占めた。そして、ゲルマン民族が帝国内に定住するようになると、アリウス主義がガリア、イタリア、スペイン、北アフリカに持ち込まれた。
コンスタンティノポリスでは5世紀初頭までアリウス主義者が強い勢力を保っていた。中東にもアリウス派の信者が多数いたが、彼らは激しく迫害された。
496年に、フランク王国のクローヴィス1世(在位481年~511年)は、ゲルマン民族の諸王の中で初めてアタナシオス派に改宗した。
皇帝ユスティニアヌス1世(在位527年~565年)は、533年に北アフリカのゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服した。そして、540年には東ゴート王国を征服した。ユスティニアヌス帝は異端・異教の信者を厳しく迫害した。
589年には西ゴート王国の王レカルド1世がアタナシオス派に改宗したため、アリウス派は国教としての地盤を失って衰退し、8世紀までに消滅した。
ただし、イギリスの詩人ジョン・ミルトン(1608年~1674年)はアリウス主義者になったと言われる。近代科学の先駆者アイザック・ニュートン(1642年~1727年)は、アタナシオスら正統派教父を批判し、三位一体説はヒエロニムスによる改竄だと主張した。彼がアリウス派の信仰を持っていたことは明らかである。また、英国ウェストミンスターの聖ヤコブ教会司祭サミュエル・クラーク(1675年~1729年)はアリウス主義者である。
アリウス主義はその後、ユニテリアン(反三位一体論者)に伝わって、今日に至る。
エホバの証人(ものみの塔)もアリウス主義に類似した教説を持つが、アリウス派との歴史的連続性は無い。
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[1] 渡辺信夫『古代教会の信仰告白』新教出版社、2002年、112-113頁引用
[2] 同上、116-117頁引用
[3] <初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。(中略)そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。(中略)神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである>。引用:『口語訳聖書』ヨハネによる福音書1:1~4、14、18
[4] スウェーデンの神秘主義者エマヌエル・スウェデンボルグ(1688~1772年)の思想は、この様態論である。
[5] <それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ>。引用:『口語訳聖書』マタイによる福音書28:19~20
[6] <聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです>。引用:『新改訳聖書』使徒の働き20:28
[7] カイサリア信条は、エウセビウスが前任者から受け継いだ、洗礼準備教育のテキストであった。
[8] 引用:関川泰寛『ニカイア信条講解』-キリスト教の精髄-、教文館、1995年、64-65頁
[9]<それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです>。引用:『新改訳聖書』ヨハネの手紙第一5:20
[10]<御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです>。引用:『新改訳聖書』コロサイ人への手紙1:15~16
[11]<天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています>。引用:『新改訳聖書』コロサイ人への手紙1:16~17
[12]<神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました>。引用:『新改訳聖書』ヘブル人への手紙1:2~3
[13]<主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。あなたはこれらを、外套のように巻かれます。これらを、着物のように取り替えられます。しかし、あなたは変わることがなく、あなたの年は尽きることがありません>。引用:『新改訳聖書』ヘブル人への手紙1:10~12
[14]<キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです>。引用:『新改訳聖書』ピリピ人への手紙2:6~11
[15]<キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています>。引用:『新改訳聖書』コロサイ人への手紙2:9~10
[16] 関川泰寛、前掲書、8頁
japanesebiblewoman.hatenadiary.com
<参考文献>
フスト・ゴンサレス(石田学訳)『キリスト教史』上巻、新教出版社、2002年
フスト・ゴンサレス(石田学訳)『キリスト教思想史』<Ⅰ>、新教出版社、2010年

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関川泰寛『ニカイア信条講解』-キリスト教の精髄-、教文館、1995年
J.N.D.ケリー(津田謙治訳)『初期キリスト教教理史』上・下、一麦出版社、2010年
有賀文彦『アタナシオスの救済論』(大森講座Ⅷ)新教出版社、1998年
D.クリスティ=マレイ(野村美紀子訳)『異端の歴史』教文館、1997年

- 作者: D.クリスティ‐マレイ,David Christie‐Murray,野村美紀子
- 出版社/メーカー: 教文館
- 発売日: 1997/10
- メディア: 単行本
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H.R.ボーア(塩野靖男訳)『初代教会史』教文館、1977年、1994年(6版)
ヘンリー・ベッテンソン『キリスト教文書資料集』聖書図書刊行会、1962年
K.アルスボーグ『教会の歴史』神戸ルーテル神学校、2002年
丸山忠孝「ニカイア総会議」『新キリスト教事典』いのちのことば社、1991年
永井修『地の果てまで』―歴史と永遠の切点に生きる―、一麦出版社、2008年
デーヴィッド・F・ライト「教会会議と信条」『カラー キリスト教の歴史』いのちのことば社、1979年
他