裁きの目的
人間社会の営みには、不義・不正・悪事が絶えません。それは宗教社会、キリスト教社会においても例外ではありません、残念ながら。
不義、不正、悪事を放っておくと、それは当人たちだけでなくキリスト教共同体全体から祝福を奪います。主は正義を愛するお方であり、罪悪を嫌悪されるからです。
祝福が回復されるためには、それまでに起きた事実を直視して、悔い改めがなされる必要があります。
私たちキリスト者にとって「裁く」という行為は、問題を起こした人や団体を倒すためにすることではなく、その人や団体が悔い改めて救われるため、また、キリスト教共同体全体に祝福が回復されるためにすることなのです。
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あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。
あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。
あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。
あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。
ご覧なさい。
神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。
また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。
(新改訳聖書 コリント人への手紙第二 7:8-11)
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私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと 同じように、そのような行ないをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。
あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエス の権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。
それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
(新改訳聖書 コリント人への手紙第一 5:3-5)