「聖霊のバプテスマ」について
1.キリスト教用語としての「聖霊のバプテスマ」
19世紀から20世紀にかけて、欧米のリバイバル運動やホーリネス運動、ペンテコステ運動で「聖霊のバプテスマ」という表現がよく用いられ、その体験が重視されました。日本のきよめ派(ホーリネス派)や聖霊派(ペンテコステ派、カリスマ派、第三の波)と呼ばれる教会では、今日でもそのような表現が用いられる場合があります。
きよめ派では、それは新生の後に経験する「第二の恵み」とされ、信者の心を全くきよめるものとされます。「全ききよめ」「全的聖化」とも言われます。聖霊派では、異言を語ることをそのしるしとみなします。
はたして、それらは聖書の教えと合致しているのでしょうか。この問題について以下、簡単に考察します。
2.「聖霊の中に沈められる」
まず、ギリシア語新約聖書には、「聖霊のバプテスマ」という2つの名詞を組み合わせた形での表現は無い、ということに注意すべきです。直訳すると、「聖霊の中にバプタイズする(沈める)」あるいは「聖霊の中にバプタイズされる(沈められる)」となります。英語で直訳すると、「baptism(バプティズム)」という名詞の形ではなく、「baptize(バプタイズ)」という動詞の形になっているのです。
3.神の怒りによる粛清? キリストによる救い?
四福音書と使徒行伝では「水の中にバプタイズする(沈める)」ことと「聖霊の中にバプタイズする」こととが関係付けられ、対比されています。では、それらの意味は皆同じかというと、文脈を比較すれば明らかなように、同じとは言いがたいものです。
たとえば、マタイ3章ではバプテスマのヨハネが語った相手は「パリサイ人やサドカイ人」であり、神の怒りによる粛清という文脈で「彼は聖霊と火の中にあなたがたをバプタイズする」と語られています(11)。
これに対して、ルカ3章では、バプテスマのヨハネが語った相手は「民衆」であり、キリストによる救いという文脈で「彼は聖霊と火の中にあなたがたをバプタイズする」と語られています(16)。
ルカが救済という肯定的な意味でこれを語ったことは、ルカ福音書の続編である使徒行伝の1:5や11:16を見ても明らかです。
すなわち、聖書釈義・聖書神学においては、「聖霊の中にバプタイズする」という表現に複数の異なった意味がある、と考えられます。
4.水と聖霊による新生
では、教義学や実践神学の視点で考えると、どうなるでしょうか。
ヨハネ3:5を見ますと、「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません」とあります。
新生は、水と聖霊の両方によって実現するものです。これは、キリスト教の教義や実践においては、水を用いる儀式としての洗礼に、聖霊の臨在と祝福が伴うことを意味する、と考えることができます。
古い伝統を保持する教派では洗礼式において、受洗者を水に沈めた後に(あるいは水を受洗者の頭に注いだ後に)、司式者が指をオリブ油に浸し、その指で受洗者の額に十字を書きます(塗油といいます)。
ヨハネの手紙第一2:20、27を見ると、聖霊は「油」にたとえられています。
テトスへの手紙では次のように教えられています。
「神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです」(3:5〜6)
5.キリストとの合一
洗礼者ヨハネは水だけで人々に洗礼を授けていましたが、イエス・キリストは水と聖霊の両方で人々に洗礼を授けます(ヨハネ1:31-33)。
イエスご自身が最初に水と聖霊の両方による洗礼を受けて、すべてのキリスト者のモデルとなられました(マタイ3:15-16)。
ローマ人への手紙第6章では、バプテスマにおいて受洗者のうちなる古き人はキリストと共に十字架の死にあずかる、と教えられています。
6.聖霊体験の多様性
以上の教えは、救済論や洗礼論において重要な意味があります。
ただし、実際には人の数だけ経験は違うものです。使徒行伝を見ると、水のバプテスマと聖霊のバプテスマの順序が異なる事例が示されています。
信仰告白と水の洗礼に聖霊の注ぎが伴っているのがノーマルです(10:47、11:16、19:2)。けれども、事情によっては、入信と洗礼式と聖霊の注ぎに時間的なズレが生じることもあるようです(19:5-6)。「第二の恵み」「第二の転機」という教説は、このタイムラグに起因するものではないでしょうか。
また、聖霊がキリスト者に与えてくださる賜物(能力)も人それぞれに違うものです(コリント第一12:4〜11)。「私は異言を語れないから、聖霊を受けていないのではないか」などと悩む必要はありません。異言も賜物の一つに過ぎません(コリント第一12:30)。
7.聖霊による一体化
聖霊によって洗礼を受けたことによって、すべてのキリスト者は一体とされています。
「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのか
らだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」(コリント第一12:13)。
パウロはエペソ人への手紙でこう説いています。
「御霊の一致を熱心に保ちなさい。
からだは一つ、御霊は一つです。
主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです」(4:3〜5抜粋)
これは教会論において重要な真理です。
19世紀から20世紀にかけて欧米で盛んであったリバイバル運動やホーリネス運動、ペンテコステ運動では、「聖霊」や「バプテスマ」について個人的、救済論的に説くことに偏りがちだったように思います。
それらの運動では、教派的な分裂が著しく進みました。この21世紀、現代においては、「聖霊のバプテスマ」について教会論や洗礼論の視点から再考し、「聖霊による一体化」を進めることが必要ではないでしょうか。