朝日新聞は8月5日付と6日付の紙面で「慰安婦問題を考える」という大特集を組みました。そして、1982年9月2日以来16回も同紙で取り上げてきた「韓国・済州島で、女性たちを慰安婦とするために強制連行した」という吉田清治氏の証言を、虚偽と認め、記事を取り消しました。今日、日韓関係を揺るがしている「従軍慰安婦」問題を引き起こした報道が大誤報であったのです。これは非常に重大な問題です。
参照:「済州島で連行」証言 裏付け得られず虚偽と判断:朝日新聞デジタル
これをきっかけに国内外で、大東亜戦争に関して各方面から様々な意見が噴出しています。大東亜戦争(Greater East Asia War)は1937年(昭和12年)7月7日に勃発した支那事変(日中戦争)と1941年(昭和16年)12月8日に始まった対米英戦争(太平洋戦争)に対する呼称です。この呼称は昭和16年12月12日に東条内閣の閣議において決定され、「欧米諸国によるアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を設立してアジアの自立を目指す」という理念と構想が掲げられました。
歴史について人はそれぞれの立場から経験し、あるいは学んでいますので、多様な見方があって当然です。軍部が国政を支配した軍国主義の時代、昭和20年までに日本の軍隊がアジア・太平洋地域において為した軍事進攻が「侵略」という一面を持っていたことを、筆者は否定しません。しかし、それだけで括れるものではないことも、忘れてはならないと思うのです。以下、筆者の思うところを簡単にまとめてみます。
1.帝国主義の時代
まず、大東亜戦争については、幕末の黒船来襲からひと続きの大きな流れ=帝国主義の時代という歴史的コンテクストにおいて考えるべきです。すなわち、欧米列強によって、アジアも含めて全世界が分割され、植民地化された時代であったのです。帝国主義とは、一つまたは複数の国家権力が他民族や他国の領土を侵略して、強権的な支配や介入を行うことです。英国はアヘンによって中国人を廃人と化して、莫大な利益をむさぼりました。そのような時代において日本が独立を守り、国民の生活と財産と尊厳を守るためには、自衛の戦争をせざるを得なかったという一面もあります。
出典 http://ryotaroneko.ti-da.net/e6498616.html
幕末に日本は、米国や欧州諸国と不平等な条約を結ばされました。日米修好通商条約では米国側に領事裁判権を認めており、日本には関税自主権がありませんでした。明治維新以降、日本政府は富国強兵に全力を注ぎ、外交努力を続けて、その条約改正に尽力しました。日清戦争と日露戦争の勝利によって、日本は欧米諸国と対等に交渉することができるようになり、領事裁判権の撤廃や関税自主権の獲得など国家としての主権を確立することができたのです。
日本は日清戦争の勝利によって、清国から台湾、澎湖諸島、遼東半島を割譲されました(仏独露の三国干渉により遼東半島は手放す)。そして日露戦争の勝利によって、朝鮮半島における日本の権益を認めさせ、樺太の南半分を割譲させて、満州では大連と旅順の租借権と東清鉄道の旅順 - 長春間支線の租借権を得ました。
日本のアジア・太平洋地域への進出は、近代化をもたらして、現地の人々に多くの利益を与えたという面があります。しかし、帝国主義という基本的な性格は否定できません。日本にとって近代の戦争は自衛と侵略、両面の意味があり、それが簡単に批評できない複雑さを生んでいるのです。
2.大東亜共栄圏
大東亜戦争には、欧米列強の支配からアジアの諸国・諸民族を解放する、という大義名分がありました。日本政府は、アジアのリーダーとして「大東亜共栄圏」を築く、というビジョンを掲げました。
大東亜共栄圏構想の成り立ちと国益
https://atlantic2.gssc.nihon-u.ac.jp/kiyou/pdf09/9-17-28-nakao.pdf
ja.wikipedia.org
幕末以来、ロシアの南下政策は着々と進行しており、これは日本にとって大きな脅威でした。ロシア軍が支配していた満州(中国東北部)とその先の朝鮮半島は、日本の国防のためには、どうしても死守しなければならない地域でした。これは明治時代の初めから一貫した日本の立場です。日本は日露戦争と満州事変に勝って、この地に「五族協和」(和・韓・満・蒙・漢)の「満州国」を建て上げたのです。その理想がどこまで実現されたか、という問題はありますが。
ja.wikipedia.orgja.m.wikipedia.org
南滿洲鐵道 特急亞細亞號( あじあ号)特快列車之旅 日本紀錄片
満州国・奉天《前編》The largest city in Manchukuo 1/2
満州国・奉天《後編》The largest city in Manchukuo 2/2
満州国国都・新京《前編》/ The capital of Manchukuo 1 of 2
満州国国都、新京《後編》/ The capital of Manchukuo 2 of 2
その一方で、日本が「脱亜入欧」、すなわち欧米列強と同列の「帝国」を目指して、アジア・太平洋の諸地域で帝国主義的な侵略と支配を行ったことも、否定できない事実です。これは思想的には、福沢諭吉の脱亜論が大きく影響しています。
3.軍国主義
戦前の日本の外交や軍事行動には、関東軍の暴発(1931年満州事変)や国際連盟脱退(1933年)など、戦争へと突き進む大きなミスがいくつもありました。
1932年(昭和7年)5月15日には、海軍の青年将校たちが総理大臣官邸に乱入して、内閣総理大臣・犬養毅を殺害しました(五・一五事件)。これによって政党内閣の時代は終わりました。
さらに、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて陸軍青年将校ら1,483名がクーデター未遂事件を起こし、大蔵大臣・高橋是清、内大臣・斎藤実、陸軍大将・渡辺錠太郎など9名を暗殺して、海軍大将・鈴木貫太郎など数名に重傷を負わせました(二・二六事件)。
クーデターは鎮圧したものの、軍部大臣現役武官制が復活して、軍部の政治的な影響力が強まりました。そして、東条英機が1940年に陸軍大臣、1941年には内閣総理大臣となって、独裁的な戦時体制が布かれ、日本は太平洋戦争へと突き進むことになりました。
4.米国の対日経済封鎖
戦前の米国と日本の国力の差は、大人と子どものようでした。石油をはじめとする鉱物資源が乏しい日本が、米国を相手に戦争を行うなど、あまりにも無謀なことでした。しかし、いかにしても逃れられない、日本を対米開戦へと追いやる大きな濁流があったのです。
米国は、「ABCD包囲網」(アメリカ・イギリス・中華民国・オランダによる経済包囲)を作り、対日資産の凍結、屑鉄・鉄鋼や石油などの対日禁輸を行って、日本を開戦へと追い込みました。当時、日本は石油の大部分を米国からの輸入に頼っていたため、1941年12月8日、真珠湾攻撃よりも前に、日本軍はマレー半島進攻を始め、インドネシアの石油確保に向かったのです。東南アジアの資源の確保が日本の死活問題でした。
5.昭和天皇の人種差別撤廃への思い
昭和天皇の「開戦の詔勅」と「終戦の詔勅」を読めば明白ですが、日本は有色人種に対する白人の人種差別に反対して、その大義のために大東亜戦争を戦ったのです。昭和天皇による「終戦の詔勅」には、日本政府が国際政治において訴えて拒否された「人種差別の撤廃」こそ、対米英戦争の大義であったことが、明確に説かれています。
玉音放送(大東亜戦争終結の詔書)口語訳/現代語訳/ふりがな付
昭和天皇は美濃部達吉の天皇機関説を支持しておられました。「君臨すれども統治せず」を旨とされ、内閣総理大臣や陸海軍両統帥部長(参謀総長、軍令部総長)の決めたことを極力尊重しておられました。昭和天皇が直接権力を行使されたのは二・二六事件と終戦の時だけでした。昭和天皇は対米開戦を避ける道をずっと求めておられました。最後は、東条英機を首相にするという策を用いられましたが、もう開戦の流れは止まらないものとなっていたのです。
村井良太著「昭和天皇と政党内閣制(明治立憲制の変容と天皇の役割像)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nenpouseijigaku1953/55/0/55_0_157/_pdf
米国は在米の日本人移民や日系人に対してひどい人種差別政策を行っていました。米国では日本人移民は市民権が与えられず、あるいは剥奪され、日本人移民も日系アメリカ人も家を借りることさえできませんでした。彼らは強制立ち退きを命じられ、強制収容されました。
今、私たち日本人は、ここアメリカで、ほかの国からの移民や米国人と同じように、好きな場所に出かけ、住み、学び、働き、そして米国市民権をも取得することができます。でも、実はついこの間までそれが許されていなかったことを想像できるでしょうか。
アジアからの移民は1924年に禁じられ、再び門戸が開かれたのはなんと1965年のこと。また1952年まで日本人は市民権を取得することもできず、その上、太平洋戦争中はそうした日本からの移民もその子どもたちも、西海岸に暮らす日本人・日系人はみな、自らの意思とは関係なく収容所へと送られました。そして、その事実すら1980年代になるまで公に語られることはほとんどなかったのです。「自由の国アメリカ」のイメージと正反対にある、日系移民の差別の歴史。それは、アメリカの歴史の一部であり、同じくアメリカで暮らす日本人である私たち自身の現在へと脈々とつながる歴史です。
かつて欧米の一部の白人たちは、有色人種を自分たちと同じ尊厳を持つ人間として認めていませんでした。日本は国際連盟において人種差別撤廃を訴えましたが、認められませんでした。
6.太平洋戦争
1941年12月8日の日本時間午前2時15分(現地時間午前1時30分)に、日本陸軍がイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに上陸して、海岸線で英印軍と交戦しました。
米国領ハワイでは同じ日の日本時間午前3時19分(現地時間午前7時49分)に、日本海軍航空隊がオアフ島にある米軍基地に対して奇襲攻撃を開始しました(真珠湾攻撃)。こうして太平洋戦争は開始されました。
大東亜戦争(日中戦争、太平洋戦争)で失われた日本の戦闘員及び非戦闘員(民間人)の命は、おびただしい数です。日本人の戦没者の数は300万人を超えると言われます。
太平洋では戦線が余りにも長く伸びてしまい、補給艦が米軍によって次々と撃沈されました。そのため食料・燃料・武器弾薬・人員などの補給が甚だ不足し、戦闘もままならず餓死した兵士が何万人もいました。
米軍は沖縄で地上戦を行いました。その犠牲者は18万人以上と言われます。米軍の攻撃は日本本土では空爆と原爆投下のみで、地上戦を行っていません。それは、決死の覚悟で立ち向かってくる日本人を、恐れていたからです。東京大空襲では10万人以上、広島の原爆投下では9〜12万人、長崎の原爆投下では7万人以上が死にました。非戦闘員である日本の民間人を大量虐殺した米国の罪は、恐ろしく大きなものです。それこそ国際法に違反する戦争犯罪です。
没収された原爆フィルム (1990年)-Forfeited atomic bomb film-
ながさき原爆記録全集 第30回 総集編 2017年第54回ギャラクシー賞報道活動部門優秀賞受賞 58分(米戦略爆撃調査団編)ネット版 谷口稜曄(すみてる)さん出演 D:吉村文庫
7.ソ連軍の侵攻
1943年(昭和18年)10月にソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)の首都モスクワで行われた米英ソ外相会談において、米国のコーデル・ハル国務長官はルーズベルト大統領の意向として、ソ連のモロトフ外相に参戦を要請しました。千島列島と樺太をソ連領として容認することが、その条件とされました。
1945年5月からシベリア鉄道をフル稼働させて、ソ連と満州国との国境に集結したソ連陸軍は、巨大な勢力となりました。
1945年(昭和20年)8月9日未明に満州国において極東ソビエト連邦軍の侵攻が開始されました。日本とソ連は中立条約を結んでいましたが、ソ連軍はそれを破棄して、満州・北朝鮮・南樺太・千島列島に侵攻しました。これによって、日本の降伏が早まったと言われます。
当時、満州に居留していた日本人の開拓団はおよそ132万人いると考えられていました。満州鉄道による避難が行われましたが、混乱を極めました。国境付近の居留民の多くは、ソ連兵や暴徒と化した満州民、匪賊などによって暴行・略奪・虐殺の被害に遭いました。日本人の集団自決や玉砕も発生しました。避難した居留民も飢餓・疾患・疲労で脱落する人が多く、収容所に送られた人たちや、満州人の妻となった人たち、孤児となった人たちも出ました。
ja.wikipedia.org
終戦前後に満州や朝鮮に居留していた日本人女性は帰国する途中で、ソ連兵や中国人、朝鮮人等によって度重なる強姦を受けて、妊娠したり、性病に罹ったりしました。その中には、これを苦にして自殺する人たちもいました。
終戦後、武装解除して投降した日本軍捕虜等は、ソ連によってシベリアなどへ労働力として移送され、長期にわたって奴隷的な強制労働に従事させられました(シベリア抑留)。その数は約57万5千人に上ります。厳寒の地で酷使され、栄養不足に苦しんで死亡した人が約5万8千人いました。1947年(昭和22年)から1956年にかけて、抑留者47万3000人の日本への帰国事業が行われました。共産主義の洗脳教育を受けて帰国した人たちもいました。
1945年8月から10月にかけて中国国内の日本の軍隊が全面降伏すると、中国共産党は中国国民党との協力体制=国共合作から方針を転換し、国民政府打倒・共産党政権樹立に向けて動きました。1945年10月10日から第二次国共内戦が始まりましたが、満州を占領したソ連軍の後押しを受けた中共軍が国民党軍を圧倒し、1949年10月1日に中華人民共和国を建国しました。国民政府(中華民国政府)は根拠地を台湾へ移しました。
一方、満洲国に侵攻したソ連軍は1945年8月13日に朝鮮の清津に上陸、8月24日に平壌に進駐して、朝鮮半島北部を占領しました。米国のハリー・トルーマン大統領がソ連に対して、朝鮮半島の南北分割占領を提案したため、朝鮮半島は北緯38度線を境に北部をソ連軍、南部をアメリカ軍が占領することとなりました。
南部では1948年8月15日に大韓民国(韓国)が建国され、北部では翌9月9日に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)が建国されました。金日成率いる北朝鮮は毛沢東とスターリンの支援を受けて、朝鮮半島の赤化統一を目指し、1950年6月に38度線を越えて韓国に侵攻しました(朝鮮戦争)。
韓国側では米軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、カナダ、ベルギーやタイなどによって構成された国連軍が参戦しました。北朝鮮側では中国人民解放軍が参戦しました。ソ連は北朝鮮を後方で支援したほか、戦闘パイロットを秘密裏に参戦させました。旧日本海軍の一部は「海上保安庁特別掃海隊」の名で朝鮮戦争に参戦して、米軍と共に戦っています。
1953年に入ると、アメリカでは1月にトルーマン大統領が退任して、アイゼンハワー大統領が就任、ソ連では3月にスターリンが死去したため、両陣営の状況が変化しました。そのため1953年7月27日に板門店で北朝鮮・中国両軍と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は一時的に終結しました。両者は現在も停戦中です。
9.アジア解放
明治時代から昭和20年までの日本には、愛国心に加えて、アジア・太平洋地域の人々に対する隣人愛を実践する人々が少なからずいました。
戦前から日本の指導層は、アジア・太平洋諸地域の独立運動家を支援していました。事実、大東亜戦争の戦中戦後に彼らは次々と独立を勝ち取ることができました。日本の終戦後もインドネシアでは大勢の日本兵が残って、独立戦争に参加しました。日本陸軍の武器でインドネシアの独立軍はオランダ軍と戦って、独立を勝ち取ったのです。ですから、インドネシアをはじめアジアには親日国がたくさんあるのです。
「アジア独立の真実 犠牲を払いアジア民族の独立を助けた日本」全国日本語学校連合会
http://www.jalsa.jp/kiji/1-51.pdf
『靖國神社 遊就館 目録』靖国神社, 2008, p. 107.
大東亜戦争における日本人の戦没者の死は、決して無駄ではありません。その証拠に、日本独自の民族・国家・言語・伝統・文化・国土が現在に到るまで存続しているではありませんか!
自らの命を犠牲にしてでも守るべき尊厳・価値がある。それは「われわれの国体」、すなわち「日本の文化・歴史・伝統」であり、「われわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴」たる「天皇」であるーー。三島由紀夫は、そのような美学に生きて死んだ人の代表格でしょう(『文化防衛論』10-11頁参照)。天皇制については国民の中にも様々な考え・思いがあるでしょうけれど、祖国日本と同胞日本人を愛する気持ちは、政治信条の如何に関わらず大切なものだと思います。
事実、大東亜戦争では、そのような愛国心を持って殉死した人がたくさんいました。それなのに、米国が都合良く改竄した歴史観(東京裁判史観、自虐史観)を無批判に受容して、戦争で殉死した先人たちの尊い死を、日本語でもって汚す日本人がいることは、大変残念です。
筆者はキリスト教徒ですから、神社参拝はしません。政教分離の原則は重要だと思うので、靖国神社の国営化には反対します。けれども、国体国家国民のために殉死された方々を記念することは、大切なことだと思います。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」
この広島の「原爆の碑」に刻まれた文言が不可解です。誰が「過ちを繰り返さない」のでしょうか? 原爆を投下した「過ち」を犯したのは誰でしょうか。原爆投下は米国の罪であるのに、「自分たち日本人が悪かったのだ」とする。このような考え方や態度を「東京裁判史観」または「自虐史観」と言います。戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は情報統制と洗脳教育によって、日本人の頭と心にこの歴史観を刷り込んだのです。
もう目を覚ますべき時代でしょう。
教育の民主化(墨塗り教科書・仮とじ教科書)http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/ags/6-1-1-010.pdf