ルドルフ・イェーリン「シュヴァルツバルトの山上の説教」
【比較研究】
マタイによる福音書5章3節の和訳について
https://biblehub.com/interlinear/matthew/5-3.htm
http://www.bbbible.com/bbb/bbbmt05a.html
<Greek>
Μακάριοι οἱ πτωχοὶ τῷ πνεύματι, ὅτι αὐτῶν ἐστιν ἡ βασιλεία τῶν οὐρανῶν.
<KJV, RSV, ASV, NIV, ESV>
Blessed are the poor in spirit, for theirs is the kingdom of heaven.
<繁體中文和合本>
虛 心 的 人 有 福 了 . 因 為 天 國 是 他 們 的 。
<明治訳>
心の貧しき者は福(さいはひ)なり 天國は即ち其(その)人の有(もの)なれば也
<大正改訳>
幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。
天國はその人のものなり。
<口語訳>
こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
<新改訳第3版>
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
<新改訳2017>
心の貧しい者は幸いです。 天の御国はその人たちのものだからです。
<新共同訳>
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
<聖書協会共同訳>
心の貧しい人々は、幸いである
天の国はその人たちのものである。
(注)霊において貧しい人々
<岩波訳>
幸いだ、心の貧しい者たち、天の王国は、その彼らのものである。
<フランシスコ会新訳>
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
<塚本虎二訳>
ああ幸いだ、神に寄りすがる「貧しい人たち」
天の国はその人たちのものとなるのだから。
<前田護郎訳>
さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。
<田川建三訳>
幸い、霊にて貧しい者。天の国はその者たちのものである。
★ポイント
(1) 主要な英訳、大正改訳、岩波訳、塚本訳、前田訳、田川訳は、ギリシャ語テクストの始めにある「Μακάριοι」(マカリオイ)の訳語を始めに置いている。詩文の始めに倒置法で「Μακάριος」(マカリオス)を置く用法は、70人訳聖書の詩篇でたびたび見られる(詩篇1:1, 32:1, 112:1, 119:1, 128:1)。大正改訳がせっかく詩文調にして語順を工夫したのに、口語訳は散文調に戻してしまった。
(2) 「Μακάριοι」はここでは、神の「祝福を受ける」という意味である。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。
(3) 和訳聖書では明治訳から新改訳第3版、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは「霊」(プニューマ)、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。そもそもこれを「心」と訳したのは、モリソンの漢訳聖書(1814年、新約聖書)であり、中国や日本ではそれを今日までひきずってしまった。フランシスコ会新訳、塚本訳、前田訳、田川訳は「心」としない工夫を凝らしている。
(4) 福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。「ἡ βασιλεία」(へー バシレイア)は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。岩波訳はこれに配慮している。
【釈義】
<金井試訳>
恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから。(マタイ5:3)
「天の王国」とは何か。「霊において貧しい人たち」とは何か。これを、マタイによる福音書のコンテクストと、紀元1世紀前半のユダヤ社会というコンテクストから考察した私見を、以下に述べる。
1.神の王国の福音
主イエスは、ヨルダン川で洗礼をお受けになった(マタイ3:13-17)。その時、<天から>御声が聞こえた。
「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」
これは、イエスの存在とわざと言葉が、神に由来することを証しする、公的な宣言である。この<神の子>イエスが、霊の戦いである宣教と十字架の死を経て、復活し、完全な勝利者となる。イエスは、<天においても、地においても、いっさいの権威が与えられている>王となる(マタイ28:18)。
「ἡ βασιλεία」は「王国」が正確な訳であり、その原意は「国家」や「国土」ではなくて「王権」や「王の支配」である。これは、一般的な日本人が持つ「天国」の概念とは異なるのではないか。
さて、洗礼の後、<神の子>イエスは<荒野>で<40日40夜>、<悪魔の試み>を受けて、それに打ち勝たれた(4:1-11)。この場所と期間の設定は、シナイの荒野を旅して、シナイの<山>で<40日40夜>を過ごし、神から<律法>を授かったモーセと、イエスを関係付ける役割を担っている(出エジプト24:18)。
その後イエスは、ガリラヤ湖畔の町カペナウムを拠点として、宣教を開始された(マタイ4:12-17)。その使信は次のものであった。
「時は満ちた、神の王国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)
「悔い改めなさい。天の王国が近づいたから」(マタイ4:17)
福音書記者マタイは「天 τῶν οὐρανῶν」(トーン ウーラノーン)を「神」の代名詞として用いている。
2.律法と福音
漁師であったペテロやヨハネなどを、イエスは<弟子>となさった(マタイ4:18-22)。
そしてイエスは、ガリラヤ全土を巡って、人々に神の<王国の福音>を伝え、<あらゆる病気>をいやされた(マタイ4:23)。そのうわさがシリヤ全体に広まって、人々は<さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者など>をイエスのみもとに連れてきた。イエスは彼らを癒された(マタイ4:24)。
この病の癒しと悪霊からの解放は、神の恵みに満ちた直接的な<支配>が、すでに現実的に始まっていることを、証しする(マタイ12:28)。古代ユダヤ教では<律法>の規定に従って、病人や障がい者、悪霊に憑かれた人は「穢れ」を持つものとして、神殿やシナゴーグから排除されていた。ここで重要であるのは、彼らが宗教的・霊的に回復されたということである。それはまた、宗教と社会が一体化した古代ユダヤにおいては、社会的交わりへの復帰でもあった。
イエスの驚くべきみわざのうわさは、ガリラヤ、ユダヤ、その他の地方に広まり、大勢の群衆が集まってきた(マタイ4:25)。
この群衆を見て、イエスは湖畔の小高い<山>に登って、<弟子たち>に教えを説かれた(マタイ5:1-2)。1300年(後期説)あるいは1500年(前期説)ほど前に、<主>はシナイの<山>でモーセを通してイスラエルの民に<律法>=<契約の書>をお与えになった(出エジプト24:1-8)。この「山上の説教」は、<主>が、その<律法>を<成就する><福音>を説き明かされたものである(マタイ5:17-18)。
3.霊において貧しい人たち
イエスは、この「山上の説教」の冒頭で、八つの<幸い>について語っている
その第一(マタイ5:3)。
<心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである>(新共同訳)
<恵まれている、霊において貧しい人たちは。
天の王国は彼らのものだから>(金井試訳)
和訳聖書では明治訳から新改訳第3版、新共同訳まで「心が貧しい」という訳が続いている。原文で問題とされているのは、「霊において τῷ πνεύματι」(トー プニューマティ)、すなわち神との関係である。これを「心」と訳すのは、読者に誤解を与える。「あなたは心が貧しいわね」と言われて、喜ぶ人がいるだろうか。日本語では「心が貧しい」と言う場合、十中八九、悪い意味ではないか。逆説的な教えだとしても、それが「幸いです」となるだろうか。
「幸いです」と訳された「Μακάριοι」は、ここでは、神から「恵みを受ける」「祝福される」という宗教的な意味を持っている(参照 マタイ6:26,32-33, 7:11)。「幸い」では読者に誤解を与えるかもしれない。主要な英訳はみな「Blessed」と訳している。「恵まれている」が適切な訳ではないか、と筆者は考える。
自らが神の御前に立つにふさわしくない<罪人>であり、霊的に<貧しい者>であることを認めて、へりくだる者に対して、神は憐れみ深くあられる。
4.神の王国に入るのは誰か
マタイによる福音書に登場するユダヤの王、祭司長、学者など権力・財力・知力を持つ者たちは、イエス・キリストを受け入れなかった。エルサレムの神殿を拠点として活動した貴族=「サドカイ派」や、各地のシナゴーグ(会堂・会衆)で民衆を指導した「ファリサイ派」も、イエスを神の子キリストとして認めない。
ところが、彼らがユダヤ教から排除した<罪人>たちは、イエスのもとに来て、救いを求め、それを得るのである。
イエスは<祭司長、民の長老たち>に向かって、こう言い放つ。
「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちの方が、あなたがたより先に神の国に入っているのです」(マタイ21:31)。
このような<罪人たち>こそ、
<霊において貧しい人たち>(5:3)
<嘆き悲しむ人たち>(5:4)
<柔和な人たち>(5:5)
<義に飢え渇いている人たち>(5:6)
<憐れみ深い人たち>(5:7)
<心の純粋な人たち>(5:8)
<平和を造る人たち>(5:9)
<義のために迫害されてきた人たち>(5:10)
である。
神の御子イエスの宣教、すなわち神の王国の到来は、人々の間に「大逆転」を引き起こすのである。
5.心の純粋な人たち
従来「心のきよい者」(マタイ5:8)と訳されてきた部分を、筆者は<心の純粋な人たち>に変えた。この「きよい καθαρὸς」(カサロス)という語には次のような意味がある。
①器などが汚れていない清潔な状態
②律法の清浄規程に従って、死者や異邦人、病人、血などに触れて穢れていない状態(参照:レビ記11〜15章)
③倫理的に心が汚されていない純粋な状態
①はこの語の原義であり、②は古代ユダヤ教の最も重要な価値観である。これを背景として、主イエスは③の意味で「きよい」者は幸いだ、と言われた。
当時、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で指導していたファリサイ派の人たちは、②の「穢れ」を避けることに執心していた。「ファリサイ」には「分離する」という意味がある。そのためユダヤ人でも、病人、障がい者、売春婦、取税人、行商人、羊飼い、牧畜人、皮革業者、ホームレス、女性、子どもなどは、ユダヤ教の礼拝に参加できなかった。それはエルサレムの神殿でも同様である。
ところがイエスは、会堂の礼拝で聖書の解説をする教師(ラビ)でありながら、この山上の説教の後、ガリラヤの町々で、病人に手を触れて癒し、異邦人と交流し、悪霊に憑かれた人を解放し、取税人を弟子とした(マタイ8〜9章)。
イエス・キリストが触れたものは皆、<きよい>ものに変えられる。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った」からである(マタイ8:17)。
マタイ5:8において「きよい」(καθαρὸς)とは、完全無欠な律法遵守という外面的な行いではなくて、イエス・キリストに触れられた者が持つ<心>の<純粋な>状態を指している。
<恵まれている、心の純粋な人たちは。彼らは神を見るから>(マタイ5:8)
6.憐れみ深い人たち
イエスは、このような清浄規定に反する<罪人>たちを迎えて、共に食事をした。それを見て、ファリサイ派の人たちはイエスを非難した(マタイ9:11)。
イエスはお答えになった。
「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マタイ9:12-13)
この<罪人>に対する<純粋な>愛こそ、神の御心である。
<恵まれている、憐れみ深い人たちは。彼らは憐れみを受けるから>(マタイ5:7)