牧師だけに任されていること
今週の日曜日=主日に日本イエス・キリスト教団兵庫教区の「講壇交換」が行われ、私は西宮聖愛教会の礼拝で説教と祝祷をさせていただきました。同じ教団でも多少、礼拝の形式や内容が違っており、良い勉強になりました。
私どもの教団では今、牧師が不足しており、一人の牧師が複数の教会を担当する「兼牧」が増えています。実際問題として、信徒リーダーに任せられることは、できるだけお任せしていく必要があると思います。
では、牧師だけしかできない務めは何でしょうか。この問題について以下、考察してみます。
そもそも、最も古い歴史を持つ東方正教会と、それに次ぐローマ・カトリック教会では、礼拝の「司式」はすべて司祭が行うのが原則です。
東方正教会の礼拝は今でもほとんど司祭の独壇場ですが、現代のローマ・カトリック教会では、神の代理者である司祭と信徒の会衆が言葉を交わし合う形式になっています。
彼らの場合、司祭は霊的な「身分」ですから、信徒が代務者になり得ないはず。現代のRCCでは信徒の祭司性を強調しているので、変わっているかもしれませんが。
これに対してプロテスタント教会では、牧師は「職務」であって、身分ではありません。その職務において祭司であることは、牧師も司祭と同じですが、身分としては牧師も信徒の一人であり、信徒の代表者です。
礼拝の最後に、祭司が会衆を「祝福」して派遣するのは、アロン以来現代まで3000年以上続いている伝統です。
ちなみに、プロテスタントの特徴と言われる「万人祭司」(全信徒祭司性)とは「万人牧師」という意味ではありません。
プロテスタント教会最初の信条であるアウグスブルク信仰告白では、次のように定められています。
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第十四条 教会の職制について
教会の職制について、われらの諸教会はかく教える。何人も、正規に召されたものでないならば、教会内で公に教え、あるいは聖礼典を執行してはならない。
http://www.wjelc.or.jp/office/credo/augsburg/
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実際には、プロテスタント教会で礼拝の「司会」を信徒に任せるようになったのは、敬虔主義の時代以降ではないか、と思います。
現代の日本のプロテスタント教会は、NCCも福音派もほとんどが、敬虔主義の影響を受けています。
敬虔主義によって生まれたフリーチャーチでは「信徒運動」の結果だけが残って、それ以前の伝統は忘れがちです。
ルーテル派や改革派・長老派、聖公会以外は、だいたい似たような状況です。もちろん当方も。