ユダヤ教からキリスト教は生成・発展したのですが、両者の決定的な違いは「普遍性」にあります。
ユダヤ教は律法(トーラー)その他の戒律が厳し過ぎて、イスラエル民族・ユダヤ人以外の異邦人には改宗が困難でした。ユダヤ教の礼拝に集う異邦人=「神を畏れる人たち」は大勢いましたが、改宗者が少ない。民族宗教の枠から出ることができなかったのです。
ところが、イエスと弟子たちの集団=キリスト教は、道徳律法、すなわち律法の基本精神・倫理性を残しつつ、祭儀や食物、割礼、安息日などすべての慣習・行為をフリーにしました。
「ユダヤ人は、伝統的な慣習を守りたけりゃ、そうすればいい。でも、異邦人にそれを押し付けちゃいけないよ」ってことです。
それで、キリスト教は民族・国籍・言語・文化・社会体制等の違いを超えて、世界中に広まったのです。普遍性を持つ世界宗教です。
ですから政治についても、あんまり細かいことにこだわっていたら、キリスト教としておかしくなってしまいます。偶像崇拝と人権侵害には反対すべきですが、本質的に信仰に差し障りが無い問題については、キリスト者はフリー・多様であって良いはずです。
旧約聖書のダニエル書に拠ると、敬虔なユダヤ人ダニエルは、新バビロニア帝国の政府高官となって、ネブカデネザル王に忠実に仕えました。この王は偶像崇拝を人々に強要して、従わない者を処刑するような人物でした。
ダニエルは、ペルシャ帝国(アケメネス朝)の王にも忠実に仕えました。彼は、王以外への祈願を禁じる命令に反して、神を礼拝しました。そのため彼は獅子の穴に投げ込まれましたが、無事でした。
ダニエルは王へのあいさつとして、こう述べています。
「王さま。永遠に生きられますように」(6:21)。
これは「君が代」に似ている感じがします。
我々真の神を信じる者は、偶像崇拝をしません。しかし、それ以外のことでは寛容であり、この世の多様な政治機構・統治に対応できるはずでしょう。