1 ファリサイ派とは
キリスト教の源流には、古代ユダヤ教の三つあるいは四つの流れがある、と筆者は考えています。その第一はファリサイ派です。
ファリサイ派の源流は、セレウコス朝シリアの悪名高き王、アンティオコス4世エピファネスのヘレニズ厶政策に反発したハシディーム(敬虔派)である、という説があります。
ファリサイ派には、律法を遵守する「文字の宗教」という特徴があります。ファリサイ派は、ユダヤ・ガリラヤの各地域と異邦の都市に生まれたシナゴーグ(集会、会堂)を拠点として活動しており、民衆に指導者として尊敬され、支持されました。
紀元1世紀前半には、エルサレムの神殿にあるサンヘドリン(議会と裁判所を兼ねた機関)においても、ファリサイ派が有力な勢力となりました。
さて、イエスは、少年時代にシナゴーグで、律法をはじめとする教育を受けました。イエスは12歳の頃には、「律法の子」すなわち成人となるための問答試験を受ける準備が、整っていました。
イエスは宣教活動においても、シナゴーグを基本的な拠点としており、会堂礼拝で「ラビ」(教師)として聖書の講釈をしています。イエスが弟子たちを派遣した時に、彼らに指導したライフスタイルは、ファリサイ派の巡回伝道者に準じたものです。
当時シナゴーグを指導していたのはファリサイ派であり、彼らはイエスを自分と同類と見ていました。ところが、彼らが排除していた「罪人」とイエスが食事を共にしたことが、重大な問題を引き起こしました。
「ファリサイ」とは、律法で「穢れ」とされるものから自らを「分離」するという意味です。イエスがこのタブーを破ったことにより、イエスと交流してきたファリサイ派の人々は、自分たちも穢れたように思いました。
ファリサイ派が指導し、管理していた民衆は、イエスを支持して大挙追っかけをする。イエスは会堂の外、ファリサイ派の管轄外で説教をして、民衆に独特の新しい律法解釈を教えている。イエスは、穢れていた病者・障がい者・悪霊憑依者などを癒やして、「あなたは聖められた」と宣言する。
こうしたイエスの行動は、ファリサイ派が築いてきた権威や秩序を根底から覆す、極めて危険なものと思われました。
さらにイエスは、己を神格化して、「天から」認められた絶対的な権威を主張しました。これらは、ファリサイ派にとって絶対に許容できないものでした。それゆえファリサイ派は、イエスの殺害を企てたのです。
3 ヘブライストとヘレニスト
イエスの十字架の死、復活、昇天の後も、ヘブライスト・ユダヤ人であるイエスの弟子たちは、シナゴーグでの礼拝に出席し、律法を遵守しました。
その頃、ファリサイ派を中心とするユダヤ人の攻撃によって、ステファノが殉教しました。彼はヘレニスト・ユダヤ人である、イエスの弟子たちのリーダーでした。それに続いて起こった大迫害によって、ヘレニスト・ユダヤ人の弟子たちは、エルサレムから追放されました。
ところが、ヘブライスト・ユダヤ人の弟子たちは、迫害されることなく、その後もエルサレムにとどまりました。彼らはユダヤ教の一派「ナザレ派」と見なされたのです。
この二つのグループの違いは何でしょうか。それは、律法に記された割礼、食物の禁忌、清め、安息日、祭日等、諸々の規定に対する態度です(使徒行伝15章参照)。
パウロが書いた「ガラテヤ人への手紙」によれば、ヘレニストの弟子たちの思想は、次のようなものです。
「イエス・キリストによって、律法の義の要求は完全に満たされて、我々の罪の負債は完全に贖われた。我々は解放されたのだ。だから、もう律法の奴隷になる必要は無い」。
4 ユダヤ人と異邦人
ヘレニスト・ユダヤ人には、長年にわたる大きな問題がありました。それは、彼らのシナゴーグの礼拝に参加する異邦人の扱いです。
その頃、異邦人にも、聖書の神を信じる人が増えていました。けれど、そのほとんどは、割礼を受けて「ユダヤ人」になることが、できなかったのです。食物の禁忌、清め、安息日、祭日等、諸々の規定を守って生活することが不可能な異邦人が、ほとんどでした。
彼らは「神を畏れる人」と呼ばれて、「改宗者」とは区別されていました。いわば、洗礼を受けていないがゆえに、聖餐にあずかれない「求道者」に似た立場でしょうか。
ところが、ヘレニストのイエスの弟子たちは、ユダヤ人であるのに、「我々はもう律法の規定に拘束されない」というではありませんか!
「それなら私も洗礼を受けて、イエスの弟子になるぞ。これで晴れて真の神の民に加わることができるぞ!」
これは異邦人にとって、まさに「福音」、Good News だったのです。だから、ヘレニスト・ユダヤ人の弟子たちは、命がけでこの「自由」を守ったのです。
5 ファリサイ人パウロ
パウロ(ヘブライ名はサウロ)は、ファリサイ派の代表的な律法学者ガマリエルの門下生であり、ファリサイ派の伝道者でした。ただし、パウロはタルソ出身のディアスポラ(離散民)ユダヤ人ですから、この問題をよく知っていました。
それだけに、「このヘレニストのイエスの弟子集団は危険だ。ユダヤ教、とりわけファリサイ派を根底から覆す危険思想だ」と察知して、パウロは猛烈な迫害者となったのです。
パウロはステファノの殉教を見届けました。彼の説教を聴きました。そして、彼の死後、ヘレニスト・ユダヤ人の弟子たちを捕縛して回ったのです。ところがその最中、パウロはダマスカス城外で、光に撃たれて、イエスの声を聴きました。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスだ」
この「回心」の後、パウロは180度方向を変えて、イエス・キリストの宣教者となり、ヘレニストと異邦人の「キリスト者」のリーダーとなりました。
では、この「回心」の前後で、パウロの神に対する従順な態度、その熱心な行動に変化があったのでしょうか? それは基本的に変わらず、よりヒートアップしただけです。
パウロにとってあの迫害は、生涯消えることの無い痛恨の極みでした。けれど、それは、イエスの真実を知らなかったが故のあやまちです。パウロは生粋のユダヤ人=神の選民であり、熱心なファリサイ人であることを、終生誇りにしていたのです(フィリピ3:5-6)。
パウロは、ガラテヤ人への手紙で、異邦人への割礼の強制に、猛烈に反対しています。ところが、彼は弟子テモテに割礼を受けさせました。この「矛盾」は、どういうことでしょうか。
それはただ一点、「キリストの福音を宣べ伝えて、人々が救われるためにプラスになるか、マイナスになるか」という基準でパウロは判断しているのです。彼の主に対する忠誠には、全くブレがありません。
6 ラビ・ユダヤ教
さて、紀元70年のエルサレム破滅後、神殿・祭儀・祭司(サドカイ派)を失ったユダヤ教徒が頼りにしたのは、シナゴーグであり、聖書と伝承(ミシュナー、タルムード)であり、ファリサイ派でした。
90年代にヤムニア会議でユダヤ教のラビたちがヘブル語聖書(キリスト教の旧約聖書)の正典を決定した、と言われます。プロテスタントは、その39巻を旧約聖書の正典としています。
ファリサイ派のラビの伝統は、今日まで2000年以上続いています。ユダヤ教は実質的に、ファリサイ派の伝統を受け継ぐ「ラビ・ユダヤ教」として今日まで存続しているのです。