1.許しと赦し
罪の問題を扱うときに、
「クリスチャンは他人を裁いちゃいけない。どんな罪でも許して受け入れる愛が大切だ」
といったことを説くクリスチャンを、時々お見かけします。果たしてそれは、本当に聖書が教えていることでしょうか? 聖書のテクストを数カ所、部分的に切り取って、継ぎ合わせただけではないでしょうか?
私見では、このような場合、「許す」と「赦す」の違いを理解することが重要です。神は私たちの罪を「赦し」てくださいましたが、罪を「許し」てはおられません。神は本質において聖であり義であられますから、罪や悪を許容することは有り得ないのです。
2.聖書が教える「罪」とは
聖書が説く「罪」とは、第一に、人間の内にある、神に反抗する悪しき思いであり、わがままな欲望です。
第二に、罪とは神の律法を犯すことです。律法は聖書に記されていますが、聖書を知らない人も、その心に神が道徳律を記しておられます。
第三に、罪とは、神の創造された世界を汚し破壊する行為です。とりわけ「神のかたち」に造られた人間の尊厳を冒すことは、重罪とされます。
第四に、罪とは神を冒涜することです。聖なる神に対する恐れを知らない人間は、汚れた悪しき行為によって、審判者・裁き主である神を侮り冒涜しているのです。
第五に、人類の最大の罪は、神の御子イエスをキリストと認めず、彼を殺したことであり、イエス・キリストを信じる者たちを迫害したことです。
3.罪の代償
罪は必ず同等の対価をもって償わなければなりません。「目には目を、歯には歯を、命には命を」必要とします。神は公正な審判者です。
罪の支払う報酬は死です。罪ある人間は霊的に、肉体的に、永遠に滅びます。それは刑罰や苦しみとも表現されます。
罪を始末しなければ、神は私たちを受け入れることが、おできになりません。神は聖であり、義であられるからです。
ところが人間は自分の力では、罪深き性質・罪の力を克服できず、罪の支配から逃れられません。
だからこそ、神の独り子イエスが、人間となって完全な義を実行し、十字架上に自らを傷なき完全な犠牲としてささげてくださったのです。
4.完全な贖い
キリストは我々が受けるべき神の怒りと刑罰、のろいを代わりに引き受けて殺され、よみの底まで落ちていかれました。
そして、キリストは御自身の流した血によって、我々の債務証書を無効にされました。私たちの罪=負債は、キリストが差し出された命を代償として、完全に償われたのです。
おかげで、イエスの御名=イエスの権威によって保護された者たちは、悪魔の支配から解放されます。
このキリストの十字架の死による、罪の「贖い」こそ、キリスト教の根幹です。
キリストが犠牲とされた命の代価、これほど尊いものはありません。この価値が分からない「豚に真珠」を与えてはいけません。福音を安売りしてはいけません。
キリストの十字架と復活の福音は、この世の何ものにも勝る、最も高価な至宝です。
私たちは、キリストの命を代価として買い取られたのです。この尊い救いを証しして、罪と死の問題に悩む人々にキリストを伝えましょう。