日本のプロテスタントを「福音派」「聖霊派」「リベラル派」「教会派」「社会派」といったカテゴリーで分類することについて、違和感を訴える方々がおられます。それも重要な意見だと思いますし、筆者も共感する部分があります。
ただし、時代の流れや社会情勢の変化を見極めて、生産的な議論を進めるためには、分析のための尺度が必要です。そして実際に、似通った思想的・実践的傾向を持つ人たちが集団を形成し、あるいは組織化へと進んでいくのは、自然なことです。
それでも、我々キリスト者=教会は、世界の歴史を貫いてあらゆる国民・あらゆる民族に広がる「単一なるキリストの体」、「聖なる公同の教会」に属しているはずです。それは、我々の神が一つであり、聖書が一つであり、根本的な信仰が一つであるからです(エペソ4:4-6)。
この30年余り日本の福音派は、「伝道と社会的責任」というテーマを特に意識して、活動をしてきたように思います。筆者も大学時代にジョン・ストットやカール・ヴィスロフ、ロナルド・サイダーなどから良い感化を受けました。筆者が大学時代に師事した森山諭牧師は、日韓の親善友好に多大な貢献をされました。森山師は、カルト問題や難民救済、高齢者福祉など、様々な社会活動において大きな働きを成されました。
カール・ヴィスロフ著『キリスト教倫理』
「伝道」と「社会的責任」という二つの大きなテーマが、時には分離して、対立するように見える時があります。しかし、日本のプロテスタント宣教の歴史において、教会は常に両方に関与してきたはずです。意識的であれ、無意識的であれ。福音派と呼ばれる我々の先輩たちは、ごく自然に、当然のこととして、困窮する人たちを救い出して、支え、導いていました。
福音派は社会的な活動を「すべきだ」とか「すべきではない」とか言った議論そのものが、そもそも、どれほどの意味があるでしょうか。筆者は、「牧師がその公的立場を利用して反体制的な政治運動を行う」ことには、強く反対します。それが、宣教と牧会と教会の一致に、有害であるからです。
しかし、福島や東京、沖縄だけが、社会的責任=社会運動の場ではありません。真実のキリスト者・教会ならばすべて、それぞれが置かれた地で、隣人を愛し、助け、地域の人々に仕えているはずです。
明治・大正・昭和時代の日本のキリスト者・教会や宣教師・宣教団、キリスト教系諸団体が行ってきた社会的な奉仕のわざも、忘れないでいたいものです。以下、そのうちのいくつかを例示します。
■筆者の出身教会である明石人丸教会は、ウェブスター=スミス宣教師が始めた孤児院「日ノ出女児園」のバイブルクラスから生まれました。ウェブスター=スミス先生はキリスト者学生会(KGK)の生みの親であり、「戦犯」として巣鴨拘置所に収監された人たちに伝道したことでも知られます。
■バークレー・バックストン宣教師は、石井十次が営んだ岡山の孤児院を強力に支援していましたし、山室軍平を救世軍に送り出したのもバックストンです。
ちなみに、バックストン師の祖父、トーマス・バクストンは、英国の国会議員として、ウィルバーフォースと共に奴隷解放に尽力したことで有名な人物です。
kotobank.jpスマイルズ著『自助論』にトーマス・バクストンの話が何度も出てきます。
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■日本伝道隊のバイオレット・マグラス宣教師や大屋マサ師は、身売りされた少女たちを救済する「ジャパン・レスキュー・ミッション」の活動をしておられました。
■賀川豊彦の社会事業は、今日に至るまで巨大な影響を残しています。
■近江八幡を中心としたウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の社会事業も驚異的なものです。
W.M.ヴォーリズライブラリ|ヴォーリズの歩みとその業績を年代に追って紹介し、各分野における活動をご紹介します。
■多くの宣教師や牧師が刑務所・拘置所の教誨師を長年務めてきました。
■ミッションスクールや病院、福祉施設、難民支援などで、陰に日向に良い社会的奉仕を続けてきたクリスチャンの団体・個人が、日本に大勢あります。
ハンガーゼロ | 1分間に17人飢餓で亡くなっている現実を知ろう。
従来の日本の福音派の社会活動が最近の活動と異なるのは、困窮する人々の救済に焦点が合わせられていて、社会体制の変革・反覆をめざしてはいなかったということです。筆者は、日本の歴史を根本的に否定する東京裁判史観=自虐史観とそれを基礎とした反体制運動には、賛成できません。
http://www.lec-jp.com/h-bunka/item/v260/38~43.pdf
近年、日本では、「戦争法案反対」と大書したポスターを、会堂前の掲示板に貼る教会が一部にあります。筆者の個人的な考えを申しますと、教会が団体として直接的に政治的運動を行うのは、宗教的な問題や人道的な問題に限定すべきだ、と思います。教会が教会として歩む上で本質的な問題に限られる、ということです。それ以外は、牧師も信徒も、個人的に私人として活動するのがよろしいでしょう。
なぜなら、それ以外の政治的問題については、教会員の中にも多様な立場・意見があって当然であり、信仰の本質に関わること以外で教会が偏った立場に立てば、それに賛同できない信徒を切り離すことになりかねないからです。
これは実際にここ数年、日本の教会が政治的に左傾化した過程において、起こったことです。「牧師と教会が反体制的な運動をするので、私は教会にいられなくなりました」という方々の声を、筆者は数件、お聴きしました。大変残念なことです。
そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、「わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである」。
そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか」。
すると、王は答えて言うであろう、「あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」。(マタイ25:34-40)