キリスト教の終末論と千年王国
彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
(ヨハネの黙示録第20章4,6節)
序論 千年王国的終末論を問う
2001年1月1日に我々は新しい千年紀(millennium)を迎えた。その記憶はお互いにとってまだ、さほど古くはないだろう。その頃、世界中の人々がこの大きな時代の節目を意識した。この世の「終末」について考えた人も少なからずいたようである。
筆者は1980年頃に、当時流行していた「ノストラダムスの大予言」に関する本を読み漁ったことがある 。この世の破滅を予言していると言われた彼の詩は、曖昧な表現ばかりで、どうにでも解釈できるいい加減なものであった。しかし、やはり私も「1999年」には、その「予言」を思い出した。
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地下鉄サリン事件(1995年)で世界を震撼させたオウム真理教 が、「ハルマゲドン」と呼ばれる世界最終戦争が間もなく起こると喧伝していたことは、よく知られている。仏教系の新興宗教が、新約聖書「ヨハネの黙示録」第16章16節に書かれている「ハルマゲドン」という地名を殊更に重視するのは、奇妙である 。これは明らかにアメリカのキリスト教の影響である 。日本でも1983年に公開されたアニメ映画『幻魔大戦』の宣伝で「ハルマゲドン接近」というキャッチコピーが使用されていたので、聖書を読まない日本の若者にも何となく意味が通じたのだろう。
この世紀末に蔓延した終末気分には基本的に、破滅的、悲観的、厭世的な性格があった。これにはキリスト教の一部が保持する「千年王国的終末論」(millennialism)が大きく関係している。「千年王国的終末論」とは、この世の終末においてキリストが再臨して、千年にわたって地上を統治する、という終末論である。その根拠とされるのはヨハネの黙示録第20章1~6節のテキストである。はたして千年王国的終末論は、本来、聖書が伝えようとしている使信に合致したものだろうか。
1 わたしはまた、一人の天使が、底なしの淵の鍵と大きな鎖とを手にして、天から降って来るのを見た。
2 この天使は、悪魔でもサタンでもある、年を経たあの蛇、つまり竜を取り押さえ、千年の間縛っておき、
3 底なしの淵に投げ入れ、鍵をかけ、その上に封印を施して、千年が終わるまで、もうそれ以上、諸国の民を惑わさないようにした。その後で、竜はしばらくの間、解放されるはずである。
4 わたしはまた、多くの座を見た。その上には座っている者たちがおり、彼らには裁くことが許されていた。わたしはまた、イエスの証しと神の言葉のために、首をはねられた者たちの魂を見た。この者たちは、あの獣もその像も拝まず、額や手に獣の刻印を受けなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
5 その他の死者は、千年たつまで生き返らなかった。これが第一の復活である。
6 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。この者たちに対して、第二の死は何の力もない。彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
(ヨハネの黙示録20:1-6)
教義は、信者の信仰と生活を規定し、教会や国家、国際社会を動かす力を持っている。とりわけ終末論はキリスト教的世界観・歴史観の根幹であり、我々がこの世界に生起する現在の問題と将来の問題にどのように向き合っていくか、という倫理に深く関わっている。
例えば、レーガン政権以降、米国ではセンセーショナルな千年王国的終末論を説くファンダメンタリズム(原理主義)の教会や団体が信徒を増やして急成長し、その指導者たちは政治の中枢に深く関与するようになった 。そのため、彼らが説く千年王国的終末論が世論を動かし、アフガニスタンやクウェート、イラク、イラン、シリア等、中東におけるアメリカの軍事行動に大きく関係するようになったのである。アメリカの同盟国である日本は、この問題に無関係ではいられない。とりわけ日本の福音派は、誕生時から今日に至までアメリカのファンダメンタリズムと深い関係にある 。
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話は30年ほど前に遡るが、私は大学生の頃、日本の再臨運動の指導者として有名な森山諭師が牧会する教会に通い、森山師の教えを一所懸命に学んだ。森山師の立場は千年王国的終末論-千年期前再臨説-患難時代前携挙説であった 。現代のアメリカの福音派において多数の支持者を持つ教説である 。
http://www.eiko-church.com/old/annai/archives/000017.php
森山牧師は時々次のようなことを言われた。
キリストが空中再臨されたら 、ひとりは引き上げられ、ひとりは取り残されます。今晩キリストが空中再臨されたら、あなたはどちらになりますか。
まさに目が覚まされる、厳しい問いかけである。「空中再臨」の根拠とされるテキストは、テサロニケの信徒への手紙二第4章16~17節である。
16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、
17 それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
(第一テサロニケ4:16-17)
キリストの空中再臨の時に信者が空中に「引き上げられる」ことを「携挙」(Rapture)という。きよめ派(ホーリネス派)では、この「空中再臨」の教えにいわゆる「きよめ」の教えが結合されている。ーー携挙のためには「聖霊のバプテスマ」を受けて全くきよめられていることが必要だ、「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」 からだーーというのである。この再臨の教えに私が感じたのはプレッシャーと恐怖であって、慰めや喜び、平安、希望ではなかった。
一方で、当時、私は大学で安全保障論やエコロジー経済学を主に学んで、人類社会はどのようにして現代の危機を乗り越えればよいのか、という問題を考えていた。すると次第に、教会での学びと大学での学びが矛盾しているように思えてきて、私は深く悩んだ。滅びることが決まっているのなら、この世界の保全回復に努めても無駄ではないか。役所や企業に就職するよりも、神学校に行って伝道者になり、一人でも多くの人を天国に導くべきではないか……。そんな考えを持ったこともあった。
ところが、ある時、私は「空中再臨」を教えるとされるテサロニケ人への第一の手紙第4章に、次の御言葉が書かれていることに気づいた。
つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。(第一テサロニケ4:11口語訳)。
テサロニケ人への第二の手紙第3章では、パウロは、「働かないで、ただいたずらに動きまわっている」(11)人たちに対して、「静かに働いて自分で得たパンを食べるように」(12)と命じている。これが今の自分に対する神の導きであると思い、私は大学卒業後、一般社会で働くことを決めたのであった。神学的には創造論と人間論、キリスト教社会倫理を学ぶことによって、神の文化命令(創世記1:26、28)に応える労働こそ人間の本分であることを悟り、一般社会の仕事に8年間、積極的に取り組むことができた。
これは小さな一つの例に過ぎないが、真面目に聖書を学び、その教えに従って生きようとしている人ならば、キリストの再臨と世界の終末について、自分自身の生き方と関係して考えたことが、一度ならずあるだろう。本稿の課題は「千年王国論的終末論」を検証することであるが、これを考えるにあたっても最終的には、我々自身の生き方を問うところまでいきたい。そもそも聖書の終末論は、抽象的な概念ではなくて、これを読む者に自らの生きるべき道を考えさせて、それを指し示す実存的な思想なのである。
本稿では第一に、千年王国に関する諸々の教説について確認する。第二に、聖書全体の歴史観と終末論について考察して、千年王国の思想的な背景を探りたい。第三に、ヨハネの黙示録第20章第1節から第6節までのテキストの釈義を行う。最後に我々自身における千年王国の実存的な意味を考察したい。
聖書のテキストは断りの無い限り『聖書 新共同訳』を使用する。
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