KANAISM BLOG ー真っ直ぐに行こうー

聖書のメッセージやキリスト教の論説、社会評論などを書いています。

第3章 聖書の歴史観と終末論

キリスト教の終末論と千年王国

 

彼らは生き返って、キリストと共に千年の間統治した。
彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する。
ヨハネの黙示録第20章4,6節)

 

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  第3章 聖書の歴史観と終末論

 

 聖書の終末論を理解する鍵の一つは、「時」の概念である。聖書の時間感覚や歴史観についてここで考察したい。

 

  1.「初め」から「終わり」へ

 

 「終末」の前提には「始源」がある。「初め」が無ければ「終わり」は無い。

初めに、神は天と地を創造された。(創世記1:1)

 創造主なる神は歴史の支配者として、人間の罪によって堕落した被造物の贖いを完成し、現世の歴史を完結して、「新しい天と新しい地」を来たらせる(ヨハネの黙示録21:1)。

 

  創造堕落贖い再創造(新創造)

 

 このような基本構造を持つ聖書の歴史観は「救済史」と呼ばれる。聖書の最後にあるヨハネの黙示録の内容は、聖書の最初にある創世記の天地創造・人間創造・失楽園の説話に見事に対応している。

「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」(ヨハネの黙示録21:6)

「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」のである(ローマ11:36)。 


 我々人間はこの歴史の内側にいるので、内側からしか歴史を理解することができない。我々が歴史の「初め」と「終わり」を知りうるのは、時空の創造者であり支配者である神の啓示による。歴史の外側に何があるのか、宇宙の外側に何があるのか、これは四時空の世界しか知らない我々人間の理解力を超えた問題である。


 我々はただ神の言葉である聖書によって歴史の「初め」と「終わり」、さらに時空を超えた永遠の世界を知らされるのであるが、それは現世に存在する事物と言葉を用いた表現でしか有り得ない。その表現力は限定的である。それゆえ、聖書の終末論が象徴的な表現を多用する黙示文学によって構成されるのは、必然なのである。

  

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  2 螺旋的な歴史観

 

 我々現代人は世界史の全体図に示される「直線的」な歴史観を当たり前のように思っている。しかし、古代の東洋人はこれとは異なる「円環的」な時間感覚を持っていた。初め無く終わり無き「輪廻」が続く「無常」の世界である。聖書には「輪廻」の思想は無いが、「円環的」な時間感覚の叙述は旧約聖書「コヘレトの言葉」にも見られる。

なんという空しさ、すべては空しい。
日は昇り、日は沈み
あえぎ戻り、また昇る。
川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
見よ、これこそ新しい、と言ってみても
それもまた、永遠の昔からあり
この時代の前にもあった。

(コヘレトの言葉1:2、5~7、9~10)

 ただし、「コヘレトの言葉」には「円環的」な時間感覚だけではなく、神による「直線的」な歴史支配も見られる。

神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
(コヘレトの言葉3:11)

 聖書の歴史観は単純に「直線的」なのではなくて、「円環的」な動きも加わって「螺旋的」に進行するものと言えよう 。すなわち、過去に起こったことが「原型」となり、それに類似したことが現在起こり、将来にも起こる。それでも同じ位置にとどまることなく、歴史はゴールに向けて進行しているのである。

 例えば、ネヘミヤ記第9章には螺旋的な歴史観の典型的な例が見られる。

 

  苦難神への叫び救出祝福神への背反・悪行苦難

 

 イスラエルの歴史は、このようなパターンを繰り返しながら進行しているのである。
聖書の終末論は大別すれば、イスラエル民族を中心とした滅亡と回復・安息の預言と、新しい「神のイスラエル」(ガラテヤ6:16)であるキリスト教会を中心とした世界の滅亡と回復・安息の預言とに分けて見ることができる。

 両者は重ね合わせて預言されている場合もある。エルサレムの滅亡(紀元70年)とこの世の終末についてのイエスの預言(マタイ24:1~28)は、その代表的な例である。

 ヨハネの黙示録においては、「バビロン」(新バビロニア帝国)とローマ帝国と反キリストの王国の滅亡が、重ね合わせて預言されている(14:8, 17:5, 18:2,10,21)。

  

  3 民族宗教から世界宗教への普遍化

 

 神ヤーウェは、イスラエル民族・ユダヤ人の始祖となったアブラハムに、次のように語られた。

地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。

(創世記22:18)

 このヤーウェの約束には家族・氏族・部族・民族・国家の枠を超えたグローバルな普遍性が見られる 。これが紀元前2000年頃の預言であるとすれば、驚くべきことである。
 基本的に旧約聖書の預言は、イスラエル民族・ユダヤ人を中心とした神の歴史的計画について語っている。けれども、大きな流れで見ると、聖書の預言は年代が下るに従って、地上のすべての民族・国民へと対象の範囲を拡大している(イザヤ2:2~4) 。

 その壮大な世界の歴史において、イスラエル民族・ユダヤ人は最後まで、神が彼らに託された使命を果たすために用いられるのである(ローマ11章)。
 このような下地はあるものの、ユダヤ教の「ナザレ派」 と見なされていたキリスト教が、ユダヤ教民族宗教としての枠を取り払って世界宗教に普遍化していくのは、容易なことではなかった。
 イエスは「罪人」と呼ばれる人や徴税人、娼婦、病人、障害者、子供、女性、異邦人等に積極的に関わりを持たれたが、それらは偶発的・例外的な出来事ではなくて、イエスの宣教の本質を表すものであった(マタイ9:11~13)。すなわち、イエスはその宣教活動によって、ユダヤ教が保持する「隔ての壁」 を打ち破ってしまわれたのである。

 イエスサマリアの女に言われた言葉は革命的である。

あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。(中略)しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。

ヨハネ4:21、23)

 「新しいぶどう酒」を「古い革袋」に入れたら、革袋は破れてしまう(マタイ9:17)。イエスの宣教には古い革袋を破るラディカルな力があった。ユダヤの指導者たちは、ユダヤの支配体制が崩される危険性を察知したので、イエスと弟子たちを迫害したのである。使徒ヨハネはいつもイエスのそばにいて、イエスの言行を直接「見た」(ヨハネ1:14)。彼はイエスに、すべての人を愛して救いの手を伸べる神を見たのである(ヨハネ1:18)。
 「古い革袋」である「律法」と「新しいぶどう酒」である「福音」はどのような関係にあるのか。この神学的な問題に決定的な答を出したのは、使徒パウロであった 。初代教会ではエルサレム会議(紀元49年頃)が開かれるまでは、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ救われない」(使徒言行録15:1)という意見が有力だった。パウロは、そのユダヤ主義的・律法主義的なキリスト教に厳しく反対した 。
 使徒ヨハネは、紀元30年のペンテコステ以来、エルサレム教会の指導者として、主にユダヤキリスト者を中心とした教会の牧会をしていた。だが、ヨハネは後に、パウロが開拓し 、その弟子テモテが牧会した エフェソ教会の監督になったようである。エフェソは東洋と西洋を結ぶ大動脈の要所に位置する国際都市である。宗教のるつぼでもあった。使徒ヨハネが著した文書に普遍性が見られるのは、このような背景も関係している。 

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  4 「既に」到来し、「未だ」完成しない神の国

 

 キリスト到来の先触れの役割を担った洗礼者ヨハネは、ユダの荒野で預言活動を行っった。

悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ3:2)

 洗礼者ヨハネの宣教には、終末論的な危機意識が見られる。彼はユダヤ教の指導者たちに警告する。

蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。

 彼はメシアが間もなく出現して、「麦」と「殻」とを分けるように人々に裁きを下し、殻を焼き払われる、と預言した。その後、イエス・キリストを十字架にかけて殺したために、ユダヤ人はその血の責任を負って 、亡国流散の憂き目にあった。紀元70年にエルサレムの都と神殿はローマの軍隊によって破壊され、焼き尽くされたのである。メシアの来臨は救いであると同時に裁きでもある。それはキリストの再臨においても同じである。
 イエスの宣教の使信は要約すると、次のようになる。

時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。(マルコ1:15)。

 イエスの宣教の使信は洗礼者ヨハネのそれと連続性を持っている。ただし、イエスが宣教した「神の国」(天の国)はイエスの存在そのものによって証しされ、そこに実在するものであった。使徒ヨハネは洗礼者ヨハネの弟子であったが、師がイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言うので、彼はイエスに従い、イエスの弟子となったようである(ヨハネ1:35〜37)。「小羊」はヨハネの黙示録においてイエス・キリストを表すキーワードである(ヨハネの黙示録5:6、他)。
 イエスの宣教の使信は「御国の福音」(gospel of the kingdom)と言われる(マタイ24:14)。「御国」の原語「バシレイア」は「王としての支配」を意味する。イエスは言われた、

わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。(マタイ12:28)

実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17:21)

 これらは王なるメシアの来臨によって、「既に」神の国が地上にもたらされていることを示している。イエスは、神の国が成長し、拡大するものであることも、教えておられる。

天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。(マタイ13:31〜32)

御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。(マタイ24:14)

  そして、イエスは、神の国が「未だ」完成しておらず、やがてキリストが再臨される時に完全に実現するものであることも、教えておられる。

人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」。(マタイ25:31〜34) 

 21世紀を生きる我々にとって、神の国は「過去性」と「現在性」と「未来性」を併せ持つものと言える 。我々は、キリストの初臨において「既に」到来した神の国支配下に移されて、キリストによる救いの恵みに与っており、成長し拡大する神の国の力を体験している。しかし同時に、罪と死の力が増大するこの世にあって、我々は「未だ」苦闘しながら、キリストの再臨において神の国が完成する時を待ち望んでいるのである。

神の国の福音 (1965年)

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改訂版 小羊の王国 (いのちのことば社)

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  5 神の支配 vs. 悪魔の支配

 

 聖書は、「悪魔」とか「サタン」と呼ばれる人格的存在について教えている。聖書の初め、創世記第3章では、「蛇」が「女」に話しかけて、善悪の知識の木の実、すなわち禁断の木の実を食べるようにと誘惑している。聖書の最後、ヨハネの黙示録の第12章3節と第20章2節では、「悪魔」であり「サタン」である者が「古い蛇」と呼ばれている。「蛇」は悪魔の象徴的な表現なのである。
 アダムとエバが悪魔の誘惑に負けて、神の戒めを破ったために、人間はすべて原罪を持つようになり、悪魔に支配されるものとなった。悪魔は「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者」、「不従順な者たちの内に今も働く霊」である(エフェソ2:1)。罪があるために、人間はみな聖なる神から隔てられ、神の祝福を受けられなくなった。
 アダムとエバの破戒を知って、神は蛇に言われた、

お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く。(創世記3:15)

 これはキリストが悪魔に完全に勝利することを表すものと思われる。人類の歴史は神の王国と悪魔の王国のせめぎ合いの歴史でもある。ただし、悪魔は神が許される範囲でしか活動できない(ヨブ1:12)。両者は決して対等ではない。
 神の御子イエスは人々の罪を贖い、人々を悪魔の支配から解放するために、人間となって地上に来られた。イエスは宣教を始める前に、荒れ野で「悪魔」の誘惑を受けて、これに打ち勝たれた(マタイ4:1〜11)。イエスは「私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と祈るように、と弟子たちに教えておられた(マタイ6:13)。
 弟子たちが宣教活動を行って帰って来た時に、イエスはこう言われた、

わたしは、サタンが稲妻のように天から落ちるのを見ていた。蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた。(ルカ10:18〜19) 

 悪魔に対するキリストの勝利を決定的にしたのは、十字架の死であった。

神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。そして、もろもろの支配と権威の武装を解除し、キリストの勝利の列に従えて、公然とさらしものとなさいました。

(コロサイ2:14〜15)

 聖書には、人間の「罪」を神に対する負債と考える思想がある。キリストがご自身の命を「代価」として差し出してくださったので、我々の借金証書は無効とされたのである。それゆえ、悪魔は私たちの罪を責めることができなくなった。

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。(ローマ8:34)

 イエスが十字架に死なれたのは過越祭の時であった。かつてイスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを出る前に、「小羊」を屠って、その血を家の入り口の柱と鴨居に塗った。主はエジプト人を撃たれた時に、その血を見て、その家は過ぎ越された。過越祭はその出来事を記念するものである。洗礼者ヨハネはイエスを見て言った。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。(ヨハネ1:29)。

 ヨハネの黙示録では、イエス・キリストは「小羊」と呼ばれている。天では「小羊」に讃美の歌がささげられている。

あなたは、巻物を受け取り、
その封印を開くのにふさわしい方です。
あなたは、屠られて、
あらゆる種族と言葉の違う民、
あらゆる民族と国民の中から、
御自分の血で、神のために人々を贖われ、
彼らをわたしたちの神に仕える王、
また、祭司となさったからです。
彼らは地上を統治します。

ヨハネの黙示録5:9〜10)

 では、イエス・キリストが悪魔に打ち勝たれたのに、なぜ未だにこの世に罪悪が満ちているのだろうか。イエスはその答を教えておられる。マタイによる福音書第13章に書かれている「麦と毒麦」のたとえである。

天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。(マタイ13:24〜30)

 良い種を蒔く人はキリスト、畑は世界、良い種は御国の子ら、毒麦は悪い者の子ら、毒麦を蒔いた敵は悪魔である。刈り入れは世の終わり、刈り取る者は天使たちである。世の終わりには神の厳格な審判が行われる。しかし今は、主は、「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと」忍耐しておられるのである(第2ペトロ3:9)。 

勝利者キリスト―贖罪思想の主要な三類型の歴史的研究 (1982年)

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  6.ダニエル書の終末論

 

  (1) 世界帝国の興亡の預言

 

 旧約正典に含まれている黙示文学の代表格は「ダニエル書」である。ヨハネの黙示録にはダニエル書の影響が大きい。
 ダニエル書の終末論的な預言には、ダイナミックな螺旋構造が見られる。
 カルデア新バビロニア帝国)の王ネブカドネツァル(在位紀元前605年~前562年)が夢で巨大な人物の像を見た。ユダ族出身のダニエルはその夢を解き明かして、金の頭、銀の胸と腕、青銅の腹と腿、鉄のすねと足、これらが4つの世界帝国を意味していることを王に告げた(第2章)。その後、ダニエルは4頭の大きな獣の幻を見た。獅子、熊、豹、10本の角を持つ獣である(第7章)。これらは王が見た幻にそれぞれ対応していると考えられ、カルデア新バビロニア)、メド=ペルシア、ギリシアアレクサンドロス王と4分割されたギリシア人の諸国家)、ローマの四帝国を指すものと思われる 。

 

  (2) 反キリストの預言

 

 なお、「10本の角」はヨハネの黙示録にも出てくる(12:3、13:1)。ダニエル書の「四世界帝国論」は、この世の最終末期に出現する反キリストの世界帝国の預言にも連動していると考えられ、今日に至るまでキリスト教の終末論に大きな影響を与えている。
 ダニエルはさらに、二本の角が生えている雄羊、それを倒す雄山羊、4本の角、もう一つの小さな角の幻を見た(第8章)。これらはメド=ペルシア、アレクサンドロス王、4分割されたギリシア人の諸国家、セレウコス朝シリアの王アンティオコス・エピファネスを指すと思われる 。アンティオコス・エピファネスは紀元前167年にエルサレム神殿にゼウス神の祭壇を築いて、聖所を汚した。「荒廃をもたらすもの」(ダニエル9:27、11:31、12:11)はその預言であり、さらにその事件は終末における反キリストの予型である、と考えられる(マタイ24:15)。

 

  (3) 「人の子」の預言

 

 ダニエルが見た「人の子」の幻は王なるメシアの預言である。イエスは「人の子」の称号をご自身にお用いになった。そして、これはヨハネの黙示録第1章13節につながっている。

燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。(ヨハネの黙示録1:13)

ダニエル書 (ティンデル聖書注解)

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聖書VS.世界史 (講談社現代新書)

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