私たちは、自分の罪深さと犯したあやまちのために、「私は駄目な人間だ」と深く傷つき、失望する時があります。
「私ひとり、いようがいまいが、世の中なんにも変わらない」
「私が死んだところで、誰が悲しんでくれるだろうか」
そんなふうに思うことが、ありますか?
他人が自分をどう思っているか、
自分が自分をどう思っているか、
そんな相対的で変わりやすいことに、私たちは捕らわれがちです。
けれども、「神が私をどう思っているのか」が一番大事なことです。
謙遜と自己卑下は全然違うものです。
イエス・キリスト(「イエス」は名前、「キリスト」は「救い主」)は、このような話をしました(ルカによる福音書15:3-7)。
「100匹の羊を飼っている人がいるとして、
その人は、99匹の羊が無事に囲いの中にいるからといって、
迷子になった一匹の羊を見捨てるだろうか。
そんなことはない。
羊飼いは、その一匹が見つかるまで捜しまわり、見つけたら大喜びでその羊を抱えて帰ってくる。
そして、友人や近所の人にまで一緒に喜んでくれ、という。
そのように、ひとりの人が悔い改めて、神のもとに帰ってくるならば、天国では大きな喜びが湧き上がるのだよ」
あなたも、その一匹の羊のように、神が大切に思っている人です。
まことの神、主(しゅ)はこう言っています。
「私の目には、あなたは高価で尊い。
私はあなたを愛している」(イザヤ43:4)
私たちは皆、神のかたちに造られたすばらしい神の作品です。
そして、
「あなたは、私が自分を犠牲としてあがなった、大切な人だ」
と主イエスが言っているのです。
イエス・キリストは十字架の上で、天の父にこう言いました。
「父よ、彼らを赦してください。
自分が何をしているのか、わからないのです」(ルカ23:34)
尊い神のひとり子イエスは、あなたのためにも、身代わりとなって十字架で罪の罰を受けてくださったのです。
「その人のために、キリストは死んだのです」(ローマ14:15、第一コリント8:11)
「イエス様は私の救い主です。私の主です」
神は、私たちのこのような信仰の告白を喜んで、受け入れてくださいます。
イエス・キリストが私たちの罪を負ってくださり、私たちにキリストの義が着せられています。だから今や神は、私たちを義人として、神の子として扱ってくださいます。
「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているのです。
私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです」(ローマ5:5-6,8-9抜粋)
絶対的な神の愛が私たちの心と生活の王座を占めることによって、私たちは救われ、解放されるのです。