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ルターの十字架の神学/隠された神

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マルティン・ルター

 

 筆者はこの小論で、ハイデルベルク討論において明らかにされたマルティン・ルターの啓示論について考察したく思う。このテーマにおいてキーワードとなるのは、「隠された神」と「十字架の神学」である。


Ⅰ.隠された神と啓示された神 

 

1.「隠された神」と「現された神」

 

 神学用語として「隠された神」はラテン語ではデウス・アブスコンディトゥス(Deus absconditus)と言い、「現された神」は同じくデウス・レベラトゥス(Deus revelatus)と言う。これは、不義なる人間に対する神の怒りと憐れみとの間に生じる緊張関係に関わる真理である。

 

2.旧約聖書における「隠された神」
 
 イザヤの預言に次のごとき一文がある。

 

まことにあなたは御自分を隠される神
イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる。(イザヤ45:15) 

 

 文脈を見るならば、これはキュロス王の登場とバビロンからの解放の預言に続いて述べられたものである。ここに神の本質は表され、神による遠大な救いの計画が表されている。すなわち、神は、来るべき補囚の悲劇の先に大いなる救いを備えておられる。神は「地の果てのすべての人々」(45:22)にまで救いを与え、新しいイスラエルの民を形成されるのである。

 しかし、イザヤがユダ王国において置かれている状況は、滅亡へと向かう暗澹たる有様である。彼自身としては、「主は御顔をヤコブの家に隠しておられる」(8:17)と言う他ない。イザヤは、神による救いの希望を述べる一方で、人々の罪悪とそれに対する神の裁きを厳しく述べている。

むしろお前たちの悪が
神とお前たちとの間を隔て
お前たちの罪が神の御顔を隠させ
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。(イザヤ59:1~2)


 神は人々の不従順と罪悪に怒り、御顔を隠してしまわれる。それでもなお神はその怒りの陰に「愛の神」の姿を隠しておられるのであり、やがてその御姿(本質)を現される。

ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが
とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむと
あなたを贖う主は言われる。  (イザヤ54:8)

 

3.新約聖書における「現された神」

 

 神の本質が最も明確に現されたのは、御子イエスの十字架においてである。

 

福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1:17)

ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。(ローマ3:21-22)

神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(ローマ3:25-26)

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。(Ⅰコリント1:18)

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。(Ⅰコリント1:22-24)

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(Ⅰヨハネ4:9-10)

 

  イエス・キリストは完全に神であり、同時に完全に人間である。イエス・キリストの十字架の苦難と死は、理性の目には人間の弱さ、敗北にしか見えない。しかし、信仰の目には御子イエスの十字架こそ神の勝利であり、「義の神」、「愛の神」の完全な現れである。実に、神は十字架の苦難と死の背後に御自身を隠しておられるのである。

 

4.ルターにおける「隠された神」と「現された神」の体験

 

 ルターは「隠された神」の問題について、初期の著作から取り組んでいる。ルターは自らの研鑽と個人的な信仰体験を通じて「隠された神」について考察していったのである。
 ルターは1505年、21歳の時から救いを求めてアウグスティヌス派の修道院で厳しい修道生活に励んだ。ルターはオッカム派の神学を学び、「神の怒り」という問題にぶつかった。ルターは救いの確証を求めて苦行をしたが、彼の魂は苦しみ、もがきつづけるばかりであった。ルターは、自分は神を愛することができないばかりか、神に憎しみさえ感じている。自分は滅びに予定されているのだ、と思い、絶望の淵に落ち込んだ。彼にとって神は恐ろしい裁きの神であり、「隠された神」であった。

 悩みを訴えるルターに、彼の師シュタウピッツはキリストの十字架の傷を示し、「キリストを信じ、彼に寄りすがれ」と教えた。


 1512年10月にルターはヴィッテンベルク大学の神学博士となり、聖書学の教授となった。そして、『詩編講義』(1513-15年)、『ローマ書講義』(15-16年)、『ガラテヤ書講義』(16-17年)、『ヘブル書講義』(17-18年)と続けていく中で、ルターは「神の義」について新しい理解を得たのである。

 オッカム流に解釈すると、「神の義」は人間の罪に対して怒りと罰をもって報いる報復的な義であった。しかし、パウロが教えている「神の義」は、神御自身が備えてくださった「神との正しい関係」なのである。それは具体的には、キリストが十字架において成し遂げられた贖罪ゆえに罪人がそのままで赦されている事実を、ただ信仰によって(sola fide) 受け取ることを意味している。人間を義とするのは神の恵みである。ルターは聖書を研究し、教える中で、この真理を発見した。それによってルターは救いの確証を得たのである。

 イエス・キリストの十字架こそ、救い主なる神と罪人なる我らが出会う場である。「神は苦難と十字架の中にしか決して見いだされない」。これが「十字架の神学者」ルターの神学的確信であり、主張である。

 

Ⅱ.栄光の神学と十字架の神学

 

1.ハイデルベルク討論について

 

 マルティン・ルターは終生、聖書学の教授であって、神学の体系化を専門とする教義学者ではなかった。ルターは具体的な問題に対処すべく次々と文書を著し、説教や講義、弁論を行ったのである。それゆえ彼は「状況の神学者」と評される。では、ルターの著作には軸となる一貫した思想は無かったのか。それはある。ルターの一貫した神学原理、それは「十字架の神学」であり、「律法と福音」である。

 

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 1517年10月31日にルターは『贖宥の効力を明らかにするための討論』(95個条の提題)を提示した。これはラテン語で書かれていたが、すぐにドイツ語に訳されて広く頒布された。ルターの問題提起は激しい議論を巻き起こした。

 翌年1518年4月26日にハイデルベルクで開かれたアウグスティヌス修道会の総会で、ルターの神学的主張について討論が行われた。このハイデルベルク討論でルターはローマ・カトリック教会の「栄光の神学」と自らの「十字架の神学」を対照させて論じている。この時ルターが提出した小さな文書の中に、我々は「十字架の神学」の原型、エッセンスを見ることができる。

 ルターはこの文書の始めの部分で、こう述べている。

 

その結果、キリストの最高のえらびの器であって道具である聖パウロから、またさらにパウロの最も忠実な解釈者である聖アウグスティヌスから正しく引用されているか、まちがって引用されているかが、明らかになるであろう。 

 
 ルターはこの少し前にヴィッテンベルク大学で「ローマ書講義」(1515年春~1516年9月7日)、「ガラテヤ書講義」(1516年10月27日~1517年3月13日)、「ヘブライ書講義」(1517年4月21日~1518年3月26日)を行っている。その時期にルターは、パウロの説く「律法と福音」、「信仰義認」について理解を深め、神学的な確信を得たと思われる。

 以下、『ハイデルベルク討論』のルターのテキストと新約聖書パウロのテキストを適宜、引用して、「十字架の神学」について考察したい。

 

2.十字架の神学の啓示論

 
 ルターはハイデルベルク討論で次のように論じている。

命題19 神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない(ローマ1:20)

命題19の証明 このことは、このようなことをなしてき、また使徒によってローマ1章〔22節〕で「愚か者」と呼ばれている人々によって明らかである。更にまた、神の見えない本質は、力、神性、知恵、義、善……等である。これらすべてを認識することは、価値ある者にすることではなく、知恵ある者にすることでもない。


  使徒パウロは次のように説いている。

世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。(ローマ1:20~23)

 

 ローマ・カトリック教会の「栄光の神学」は、人間が理性によって被造物を通して神を直接的に認識できる、とする「自然神学」の立場に立っている。しかし、神から離反した人間の理性は「鈍く暗くなった」ため、神が存在することはわかっても、真の神がどのようなお方であるか、認識することができなくなっている。それゆえ人々は「自分では知恵があると」言いながら、実際は「愚かになり」偶像崇拝をしているのである。


 ルターは次のように論じている。

命題20 だが神の見える本質と神のうしろ(Posteriora Dei)(出エジプト33:23)とが、受難と十字架によって理解されると認める者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。

命題20の証明 神のうしろと神の見える本質とは、見えない本質の反対である。すなわち第一コリント1章[25節]に、「神の愚かさと神の弱さ」と言われているように、それは人性と弱さと愚かさである。なぜなら、人間がわざによって神認識を誤り用いるので、かえって神は受難によって認識されることを欲したまい、そしてまたかの見えないものの知恵を、見えるものの知恵によって否定しようと欲したもうたのであるが、それはみわざによって示されたままの神をあがめない人々をして、ちょうど第一コリントー章〔21節〕に、「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を教うこととされたのである」と言われているように、受難の中に隠されていたもうかたとしてあがめさせるためだからである。したがって神を栄光と尊厳において認識しても、十字架の謙そんと恥辱において認識しないならば、十分といえないし、また無益であろう。こうして「神は知者の知恵を滅ぼし……」〔第一コリント1・19〕、またイザヤは「まことに、あなたは隠された神である」〔イザヤ45・15〕と言っているのである。
 こうしてヨハネ14章〔8節〕には、ピリポが栄光の神学に従って、「私たちに父を示してください」と語ったときに、キリストは直ちに彼をおしとどめ、神を他に求めようとする早急な認識をご自身の中に引き入れたもうて、「ピリポよ、私を見た者は私の父をも見たのである」〔ヨハネ14・9〕と語られた。それゆえ十字架につけられたもうたキリストの中に、まことの神学と神認識が存する。また、ヨハネ10章に、「だれでも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」〔ヨハネ14・6〕、また「私は門である」〔ヨハネ10・9]ともしるされている。

命題21 栄光の神学者は悪を善と言い、善を悪と言う。十字架の神学者はそれをあるがままの姿で言う。

命題21の証明 このことは明瞭である。キリストを知らないかぎり、受難の中に隠れていたもう神を知らないからである。それゆえ、このような人は受難よりはわざをえらび、十字架よりは栄光をえらび、弱さよりは力をえらび、愚かさよりは知恵をえらび、普遍的な言い方をすれば、善よりは悪をえらぶのである。これらの者たちこそ、使徒が「キリストの十字架の敵」〔ピリピ3・18〕と呼んでいる者である。なぜなら、彼らは十字架や受難を憎んで、実にわざとわざの栄光とを愛する。そして十字架の善を悪とよび、わざの悪を善とよぶからである。しかし神は受難と十字架における以外は決して見いだされえないのであって、このことはすでに述べられている。それゆえ 十字架の友は、十字架は善であり、わざは悪であると言う。それは十字架によってわざが破壊され、わざによればむしろ建てられるところのアダムが十字架につけられるからである。まず受難と悪によってむなしくされ破壊されて、自分自身は無なるものであり、自分のわざは自分のものではなく神のものであるということを知るのでないならば、自分の善きわざによって高慢にならないようにすることは不可能である。


命題22 神の見えない本質をわざによって理解しうると認めるような知恵は、人間を完全に高慢にし、全く盲目にし、そして頑固にする。

命題22の証明 十字架を認めず憎むゆえに、必然的に反対のもの、すなわち知恵、栄光、力などを喜ぶからである。それゆえこれらのものを愛することにより、ますます盲目になり、がんこになる。

 

 使徒パウロは次のように説いている。

 十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。それは、こう書いてあるからです。
「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さを意味のないものにする。」
 知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
 兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。(Ⅰコリント1:18~31)

 

 ルターは、この討論のために提出した文書の始めにおいて、「私たちは……この神学的逆説を謙遜に提出する」と述べている。「十字架の神学」は実に逆説的な真理である。
 御子イエス・キリストの十字架における神の啓示は、すべての人にとって自然で、明瞭なものだろうか? 否、むしろ十字架は多くの人にとって「つまずき」でしかない。
 イエス・キリストは、ユダヤの権力者によって捕らえられ、弟子たちに見捨てられ、ユダヤの民衆に裏切られ、ローマの権力者によって不当に裁かれ、激しい暴行を加えられ、裸の恥をさらし、ののしられ、呪われたものとして、無惨に殺されたのである。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15:34という叫びにおいて、イエスの苦悩は極まっている。
 人々がそこに神の栄光を見ることはない。そこに見られるのは苦難と恥辱のみである。そこにおられるのは、御自身の栄光をイエスの受難の中に隠しておられる「十字架の神」である。神はあえてこのような、人々の目に「愚かなもの」と見える手段によって、ご自身を啓示されたのである。それは「神の知恵」にかなっている。人間の知恵によって救いを得る道があってはならないからである。   
 十字架に「隠された神」は人間の知的能力や宗教的道徳的な行いによっては認識することができず、信仰によってのみ認識することができる。人は神を直接見ることはできない(Ⅰテモテ6:16)。私たちはキリストの十字架において「神のうしろ」を見るのみである。

 

3.十字架の神学の人間論

 
 ルターはハイデルベルク討論で次のように論じている。

命題1 きわめて有益な生命の教えである神の律法は、人々を義に至らしめえないで、かえってそれを妨げる。

命題1の証明(抜粋) このことは、「神の義が律法とは別に現わされた」というローマ3章[21節]の使徒の言葉によって明らかである。このことは、聖アウグスティヌスが「霊と文字について」(De spiritu et littera)という書物の中で、「律法とは別にとは、すなわち、律法の協力なしに」と註解している。また、ローマ5章〔20節〕には、「律法がはいり込んできたのは、罪過の増し加わるためである」とあり、7章〔9節〕には、「戒めが来るに及んで、罪は生き返り」とある。また、8章〔2節〕には、律法を罪の法則または死の法則とよんでいるし、さらに第ニコリント3章[6節]には、「文字は《人を》殺し」とある。

命題2 自然的な戒めの助けによってしばしば(一般によく言われているように)くり返される人開のわざは、なおいっそう《私たちを義へ》至らしめることがない。

命題2の証明 聖なる、けがれない、真実の、義なる、などといった神の律法が人間の自然的能力をこえて、善へと啓発し、進ましめるために、助けとして神から人間に与えられているが、しかし反対のことをなし、その結果ますます悪がなされている以上、このような助けなくして、人間のなすがままに放任された能力によっては、どうすれば善に進ましめうることができるであろうか。他の助けを受けながら善をなさない者は、まして自分本来の能力だけではほとんど善をなさないものである。したがって使徒はローマ3章[10節以下〕に、すべての人間は皆堕落し、むなしくなり、また神を知ることもなく、また求めることもなく、ことごとく道をふみはずしていると言っている。

命題3 人間のわざは、常にりっぱにそしてよくみえるが、しかし確かにそれは死に至る罪(Peccata mortalia)である。


命題3の証明(抜粋) キリストがマタイ23章〔27節〕でパリサイ人について言っておられるように、人問のわざはりっぱに見えるけれども、内部はけがれたものでいっぱいである。なぜなら自分自身や他人には善良で美しく見えるけれども、しかし神は外観によってさばかないで、「心と思いとを調べ」〔詩7・9〕たもうかただからである。そして恩恵と信仰なくしては、純潔な心をもつことは不可能である。使徒行伝一五章〔九節」に、「信仰によって彼らの心をきよめ」とある。


命題7 もし神に対する敬虔な恐れによって、自分の義を死に至るものであるように恐れなければ、義人のわざも死に至るものである。


命題7の証明(抜粋) というのは、恐れなければならないのにかえって《自分の善き》わざに信頼することは、自分に栄光を帰することであって、すべてのわざにおいて神に恐れが払われなければならないのに、神から栄光を奪うことになるからである。このことは全く《人間》の邪悪である。すなわち、自分自身を喜び、自分のわざにおいて自分自身を享受し、そして自分を偶像としてあがめているのである。 

命題8 人間のわざは、人がそれを恐れをもつことなく、純然たる悪い《自己》信頼においてなすときには、なおいっそう死に至るものである。

命題8の証明(抜粋) 恐れの存在しないところには、なんらの謙そんも存在しない。なんら謙そんの存在しないところには、傲慢と神の怒りとさばきとが存在するからである。すなわち、「神は高ぶる者をしりぞけたもう」〔第一ペテロ5・5〕のである。

命題11 すべてのわざにおいて、のろいのさばきが恐れられるのでなければ、傲慢を避けられえないし、真実の希望が存在することも不可能である。

命題11の証明(抜粋) なぜなら、すべての被造物に絶望し、同時に神のほかに何ものも自分を助けえないということを知るのでなければ、神に望みを置くことは不可能だからである。

命題13 堕罪後の自由意志は、単なる名前だけのものであって、それが自分自身のなかにあることをなしている(facit quod in se est)かぎり、死に至る罪を犯しているのである。

命題13の証明(抜粋) なぜなら、人間は罪によって捕らえられており、奴隷にされているからである。それは彼が虚無であるというのではなく、悪をなすこと以外に自由を持っていないということである。ヨハネ8章〔34、36節〕に、「罪を犯すものは罪の奴隷である」、「もし人の子があなたがたを自由とするならば、あなたがたはほんとうに自由な者となるのである」としるされている。それゆえに聖アウグスティヌスは「霊と文宇について」〔3章〕という本の中で、「自由意志は恩恵なしには罪を犯す以外の力がない」、また、ユリアヌスに反駁する」という書物の第二巻に、「あなたたちは自由意志と呼んでいるが、実は、それは奴隷意志である」と言っている。

命題14 堕罪後の自由意志は、善においては消極的(subiectiva)能力であり、反対に悪においては常に積極的(activa)能力である。


命題23 そして「律法は神の怒りを招き」〔ローマ4・15」、キリストの中にいないものを苦しめ、のろい、告訴し、さばき、そして永遠の罰に定める。


命題16 人間がとにかく自分自身のなかにあることをなすことによって、恩恵に達しようと考えるならば、罪に罪を加え、その結果二重に罪あるものとなるのである。


命題16の証明(抜粋) なぜならすでに述べられたことから、人間は自分自身のうちにあることをなす時に罪を犯し、完全に自分自身《の栄光》を求めているということが明らかだからである。(中略)このようにエレミヤ2章〔13節〕に、「それは私の民が二つの罪を犯したからである。すなわち生ける水の源である私を捨てて、自分で水を入れておくことのできないこわれた水ためを堀った」としるしている。すなわち罪によって私からはるか遠くへだたり、しかも自ら善をなしていると勝手に仮定しているのである。

 それゆえ、あなたがそれならば、私たちは何をしたらよいだろうか。私たちがすることは罪にすぎないのなら、何もしないでいるほうがよくはないであろうか、と言うならば、私は笞える。そうではない。これらのことを聞いて、あなたはひれ伏して恩恵を祈り求め、あなたの希望を私たちの救いと生命と復活とがあるキリストに置け、と。それは罪の認識によって恩恵が求められ、獲得されるためにこれらのことが教えられ、また律法が罪を明らかにするからである。かくして「へりくだる者に恵みを賜う」[第一ペテロ5・5]また「自分を低くするものは高くされるであろう」〔マタイ23・12〕と言われている。律法は低くし、恩恵は高くする。律法は恐れと怒りとをつくり出し、恩恵は希望とあわれみとをつくり出す。「なぜなら、律法によっては罪の自覚が生じるのみである」[ローマ3・20]。しかし罪の認識によって謙そんが、謙そんによって恩恵が得られるのである。こうして義人たらしめるために、罪人たらしめつつ神の非本来的なわざ(opus alienum)は、ついに神の本来的なわざ[opus proprium]を導き出す。 

 

使徒パウロは次のように説いている。

 

 正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。
 皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。
 善を行う者はいない。ただの一人もいない。
 彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。
 口は、呪いと苦味で満ち、足は血を流すのに速く、その道には破壊と悲惨がある。
 彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない。
 さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
(ローマ3:9~20)

 

 「栄光の神学」は、救いに到達することができる人間の能力を認め、人間の行いを義とし、人間の尊厳を賛美し、人間の自己実現を是とするが、それは己を神とする自己神化に他ならない。「神のように善悪を知るものとなること」(創世記3:4)を願ったことこそ、人間の罪の根元である。敬虔と見られる宗教にも、このような根本的倒錯が潜んでいる。
 人が救われるためには、まず神と人間の連続性を認めるこの傲慢な考えが徹底的に打ち砕かれなければならない。そして、自らの罪深さを知り、へりくだって神を恐れることが必要である。神の律法は本来、人々を「善へと啓発し、進ましめるために、助けとして神から人間に与えられている」(律法の第一用法:市民的用法)。しかし、人々は「反対のことをなし、その結果ますます悪がなされている」。「人間は罪によって捕らえられており、奴隷にされているからである」。
 そこで、罪の認識によって恩恵が求められ、獲得されるために……律法が罪を明らかにする」。「律法は恐れと怒りとをつくり出し」、罪人を「低くし」「謙そんにする」。そして、罪人をキリストへと導くのである(律法の第二用法:断罪的用法、教育的用法)。

 

4.十字架の神学の救済論

 
 ルターはハイデルベルク討論で次のように論じている。

命題12 人間によって、これらのわざが死に至るものであることが恐れられるときこそ、その罪は真実に神のみ前にゆるされるものとなる。


命題17 このように言うのは絶望する原因を与えるためではなく、謙そんとなる原因を与えるためであり、キリストの恩恵を求めることを学ぶように刺激するためである。


命題17の証明 このことはすでに述べられたことから明瞭である。すなわち福音書に従えば[マルコ10・14]、幼児たちと謙そんな人々に天国があり、キリストもまた彼らを愛したもうのである。しかし自らが呪わるべき嫌すべき罪人であることを知らない者は謙そんではありえない。だが、罪は律法によるのでなければ認識されえない。私たちが罪人であることが宣べられているときには、絶望ではなくて、むしろ希望が説教されていることが明らかになるのである。なぜなら、このような罪の説教、あるいはむしろ罪の認識とそのような説教への信仰こそは、恩恵にいたる準備だからである。なぜなら罪意識が生じた時こそ、恩恵への熱望もまた現われるからである。病人は自分の病状の悪いことを知る時に治療を求める。こうして病人に対して彼の病状の危険なことを語る時、それは絶望の原因または死の原因を与えるためではなく、むしろ治療を求める心を呼び起こすためである。すなわち、私たちが自分自身のうちにあることを行なうとき、私たちは無であり、常に罪を犯しているということを語ることは、(愚か者でないかぎり)絶望させるのでなく、私たちの主イエス・キリストの恩恵を願い求める者にさせるのである。


命題18 キリストの恩恵を獲得するのにふさわしいものとなるために、人間は自分自身に徹底的に絶望しなければならないということは、確かなことである。


命題25 《善き》わざを大いになす者が義なのではなく、わざはなくとも、キリストを大いに信ずる者が義である。


命題25の証明 なぜなら神の義は、アリストテレスが教えたように、しばしばくり返されて行なわれる行為によって得られるものではなく、信仰によって注ぎ込まれる。ローマ1章[17節〕には、「信仰による義人は生きる」としるされており、また10章〔10節〕には、「人は心に信じて義とされる」としるされている。したがって、私はそれを「わざなしに」と解したい。義人はいかなるわざをもなさないということではなく、彼のわざは彼自らの義をつくるものではなく、むしろ、彼の義が彼のわざをつくるということである。なぜなら、私たちのわざなしに恩恵と信仰が注ぎ込まれ、それらがそそぎ込まれることによってわざが続くからである。こうしてローマ3章[20節]には、「律法を行なうことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」としるされており、またローマ3章〔28節〕には、「私たちはこう思う、人が義とされるのは、律法の行ないなしに、信仰によるのである」。すなわち、わざは義にいたるためには何の役にも立たないのであるとしるされている。したがってこのような信仰からなすわざは、自分のものではなく神のものであることを知っているので、自らのわざによって義とされ栄光をうけることを求めず、神を求めるのである。彼自身にとっては、キリストヘの信仰によって《与えられる》義で十分である。すなわち第一コリント一章[30節〕に、キリストは彼の知恵、義などであると言いてあるように、彼は実にキリストの働きであり、もしくはキリストの道具である。

 
 使徒パウロは次のように説いている。

ころが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。(ローマ3:21~26)


しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。(ローマ5:8)


しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、――あなたがたの救われたのは恵みによるのです――キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。こうして、神は、キリスト・イエスにおいてわたしたちにお示しになった慈しみにより、その限りなく豊かな恵みを、来るべき世に現そうとされたのです。事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。(エフェソ2:4~9)

 

 人の救いに関するイニシアティブは、完全に神の御手のうちにある。神は御子イエスの十字架においてご自身の義を啓示された。神の義は完全であり、人の罪を裁いて、死を宣告するものである。すべての人は罪ゆえに処罰されて当然の者である。しかるに、神は罪人たちを憐れんで、御子イエスを罪人たちの身代わりとして十字架に処刑された。イエス・キリストの十字架の苦難と恥辱は、罪に対する神の怒りと神の裁きの厳正なることを示している。そして同時に、イエス・キリストの十字架は、罪人たちに対する神の愛の真実なることと、その愛の大いなることを示しているのである。

 人は、救いの条件=贖いの代価の一部分でも自ら補うことはできない。人は自力では神を認識することも、自らを救うこともできない、完全に無力な罪人である。すべての人は、救われるためには、神に依りすがり、キリストが全うされた贖いの恩恵にあずかる他ない。

 律法は、人に自らの罪人なることと罪が結ぶ果実の悲惨なることを悟らせて、人の誇りを取り除き、魂を絶望の淵へ追いやって、イエス・キリストによる救いを求めさせる。パウロはその自己絶望を告白している。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。(ローマ7:24)


 この「わたし」の魂のうめきはパウロのみならず、普遍的に罪人が皆、経験すべきものである。この罪人の自覚と神への依りすがり=信仰へと導くことが、神のみ旨である。人はその真実な悔い改めにおいて、真の信仰と救いを神から恵みとして賜るのである。

 ルターは次のように論じている。

命題24 しかし、このような知恵もそれ自体では悪ではなく、また律法も避けるべきものではない。十字架の神学なしでは、人はむしろ最善のものを最悪のものと誤用するのである。

命題24の証明(抜粋) しかし、すでにのべたように、十字架と受難によってうちやぶられ無にされない者は、だれでもわざと知恵を自分に帰して神に帰さない。そしてこのようにして神の賜物を誤用し、汚すのである。

受難によってむなしくされた者は、もはや自ら働かないで、神が自分の中に働きたまい、すべてのことを導きたもうことに気づくのである。それゆえ彼が働くかそうでないかは彼にとっては同じことであり、自分が働いても決して誇ることはしないし、神が彼の中に働きたまわなくとも決して狼狽しない。十字架によって苦しみぬき、打ちやぶられ、その結果ますます無に帰せられるならば、それで十分であることを彼は知るのである。しかしこのことは、ギリストがヨハネ3章〔7節〕に、「あなたがたは新たに生まれかわらなければならない」と言っていられるところである。もし生まれかわろうとするならば、それゆえまず死に、次いで人の子とともに高く上げられるのである。死ぬということは換言すれば、それは死を現在のものとして感ずることである。


 使徒パウロは次のように説いている。

それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。(ローマ6:3~8)

 

 真の救いに至るために、人はその実存の深みにおいて十字架の苦悩を経験しなければならない。その時、人は十字架の苦悩の中に隠された神に出会う。そして、人は古き自己が十字架に死んで、新しき自己がキリストにあって生かされることを経験するのである。


 ルターは次のように論じている。

命題26 律法は「これをしなさい」というが、何事も行なわれない。恩恵は「これを信じなさい」と言うが、すべてのことがすでになされている。

命題26の証明(抜粋) 「律法はむしろ怒りをつくり出していき」、すべてのものをのろいの下に閉じ込めるものであるということは、すでに十分に述べられたことである。(中略)このようにキリストは信仰によって私たちのうちにいまし、確かに私たちと一つになりたもうからである。そしてキリストは義なるかたであり、また、神のすべての戒めを満たしたもうかたである。それゆえに信仰によって《キリストが》私たちのものにされるかぎり、私たちもキリストによってすべての戒めを満たすのである。


命題27 キリストのわざは働きかける(operans)わざであって、私たちのわざは働きかけられた(operatum)わざであるとみなしたことは正しい。それゆえまた、このように働きかけられたわざは、働きかけるわざの恩恵によって神に喜ばれるのであるとみなしても、正しいのである。


命題27の証明(抜粋) なぜなら、キリストが私たちの中に信仰によって住みたもうやいなや、彼は彼のみわざに対する、かの生ける信仰によって、私たちをわざへと動かしたもうからである。それゆえ彼自らなしたもうみわざというのは、私たちに与えられた紳の戒めを信仰によって満たすことであり、私たちが注意深くみると、私たちはキリストのわざにならおうとするようになる。それゆえ使徒は、「あなたがたは、神に愛されている子供として、神にならう者になりなさい」〔エペソ5・1〕と言っている。それゆえ、あわれみのわざは、私たちを救ったキリストのみわざによって燃えたたせられる。このことは聖グレゴリウスが「キリストのすべての行為は私たちの教えであり、実に刺激である」と言っているとおりである。彼のみわざが私たちの中にあるとすれば、それは信仰によって生きているのである。

命題28 神の愛はその愛するもの《対象》を見いだすのではなく、創造するのである。人間の愛はその愛するもの《対象》によって成立する。

命題28の証明(抜粋) なぜなら、人間の中に生きている神の愛は、罪人、悪人、愚か者、弱い者を愛し、こうして彼らを義人、善人、賢い者、強い者にし、かくてむしろ流れ出て行って、善いものを与えるからである。それゆえ罪人は愛されているがゆえに美しいのであって、美しいがゆえに愛されるのではない。人間の愛は罪人や悪人を避ける。こうしてキリストは、「私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである」〔マタイ9・13〕と語りたもうた。そしてこのようなものこそ十字架から生まれる十字架の愛である。この愛は、享受することのできる善に出会う場所ではなく、むしろ悪しきものや悲惨なものに善を与える場所におもむくのである。「受けるよりは与える方がさいわいである」〔使徒20:35〕と使徒は言っている。だから詩篇41篇〔1節]に、「悲惨なる者と貧しい者とをかえりみる人は幸いである」とある。 

 

使徒パウロは次のように説いている。

 

わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 わたしは、神の恵みを無にはしません。 (ガラテヤ2:19~21)


従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。(ローマ8:1~4)
  
互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。(ローマ13:8~10)

 
 キリストの十字架と内住の霊的経験は、キリスト者の生涯を通じて続き、深められていくものである。内にいましたもうキリストが私たちをキリストのみわざへと動かされるので、私たちは神の戒めを満たすことができるようになる(律法の第三用法)。その動力は実に「十字架から生まれる十字架の愛」である。罪人は神に愛されたその愛に動かされて、キリストが罪人を愛されたごとく、罪人を愛するようになるのである。
 十字架の神学は、この大いなる救いのダイナミズムを我々に明らかに示している。

 

5.現代における「栄光の神学」と「十字架の神学」

 

 「栄光の神学」は現代のプロテスタント教会にも根強くはびこっている。たとえば、アメリカのノーマン・ピール牧師やロバート・シュラー牧師の著作は日本でも人気があるが、彼らの基本的な思想は「成功哲学」である。彼らは未信者に対しても、神の力を利用してこの世における成功を勝ち取りなさい、と勧める。世界最大の信徒数を誇る韓国・ヨイド純福音教会のチョー・ヨンギ牧師にも彼らの影響が見られる。キリストの福音を自己実現の手段として伝えることは、神を人間に仕えるものとする倒錯である!

 では、私たち日本の教会はどうだろうか?現代の日本の教会で、牧師は「罪の説教」をしているだろうか? 人を持ち上げる耳障りの良いメッセージに流れていないだろうか? 心のいやしと霊的な新生を混同していないだろうか? 律法と福音を共に、かつ区別して語っているだろうか? 神の義と罪に対する神の怒りを抜きにして、神の愛だけを語っても、それは真の福音とはならない。罪の問題にメスを入れて手術をしなければ、霊的な病を癒して、罪人を「罪と死との法則から」(ローマ8:2)救うことはできないのである。

 今まさに我々は悔い改めて、「十字架の神学」に帰らなければならない!

 

【参考文献】
ルター著作集編集委員会『ルター著作集 第一集 第一巻』聖文舎、1981(2版)
角川周治郎「十字架の神学」『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年
橋本昭夫『十字架の神学』神戸ルーテル神学校(秋の特別講座講義録)
R.コルブ『On Being a Theologian of the Cross』神戸ルーテル神学校、2009年
金子晴勇、江口再起編『ルターを学ぶ人のために』世界思想社、2008年
C.F.ヴィスロフ『ルターとカルヴァンいのちのことば社、1976年
柴田敏彦「隠された神と現された神」『新キリスト教辞典』いのちのことば社、1991年
岸千年『改革者マルティン・ルター』聖文舎、1978年
藤田孫太郎編訳『ルター自伝』新教出版社、1959年

 

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