2020年7月19日「自分らしく生きるために」マタイ11:28-30
■聖書 マタイによる福音書11章28-30節
<新共同訳>
28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。
29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。
30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
<金井試訳>
28 疲れ果てているのに、
ずっと(律法の)重荷を負わされている人は皆、
私のところに来なさい。
休ませてあげます。
29 私は優しく謙虚な心で生きていますから、
私のくびきを(一緒に)かついで、私から学びなさい。
そうすれば、あなたがたのたましいは休息を見出します。
30 なぜなら、私のくびきはピッタリと合っていて、
私の(教えは)荷が軽いからです。
■説教 「自分らしく生きるために」
イエス・キリストは私たちにとって、どのようなお方でしょうか。もちろんイエス・キリストは、天地万物を創造した永遠におられる神であり、贖いのわざを成し遂げた私たちの救い主です。これ以上ない偉大なお方です。私たちはイエス・キリストを尊び、礼拝しています。
けれども、イエスは天の最も高いところに君臨する王であるのみならず、霊的にはいつもこの世で私たちと共に歩んでくださる教師であると、聖書は教えています。それは具体的には、どういうことでしょうか。今日は、よく知られているマタイによる福音書11章28-30節の御言葉から、このことについて学びたく思います。ギリシア語の原文にできるだけ忠実な訳文を書きましたので、参考にしてください。
このテキストには、主イエスが語られた三つの命令が記されています。
第一は「私のところに来なさい」、
第二は「私のくびきを一緒にかつぎなさい」、
第三は「私から学びなさい」です。
この三つに分解して、お話しします。
1.私のところに来なさい
紀元1世紀にユダヤとガリラヤの各地にあるユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で指導者となっていたのは、ファリサイ派と呼ばれる人たちでした。「ファリサイ」という言葉は「分離した者」という意味だと思われます。穢れたものから自分たちを分離する、いわば清め派といったところでしょう。
その中でも旧約聖書の律法を専門的に学んだ人たちは律法学者と呼ばれ、会堂の礼拝だけでなく、会堂に付設された学校でも律法を教えていました。そのルーツは、バビロン捕囚から解放されてエルサレムに帰還したユダヤ人が主の神殿を再建した(紀元前515年)後に、宗教改革を断行した偉大な祭司エズラである(紀元前458年以降)と考えられています。
主イエスが地上で宣教をなさった紀元27年から30年頃には、律法学者やファリサイ派の人々は、民衆に膨大な数の戒律を課しました。口伝律法と言いますが、それは聖書に記された律法の何倍、何十倍にも増えていきました。そして彼らは、戒律を守らない人々=守れない人々を、「罪人」として社会から排除したのです。
これに対して主イエスは断固として反対して、彼らの律法主義を厳しく批判されました。
あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている。(マタイ15:6)
彼らは盲人の道案内をする盲人だ。盲人が盲人の道案内をすれば、二人とも穴に落ちてしまう。(同15:14)
たとえば、安息日にイエスの弟子たちが麦畑を通った時に、彼らはお腹が空いていたので、麦の穂を摘んで食べました。すると、ファリサイ派の人々は「あなたの弟子たちは安息日にしてはならないことをしている」と言って、イエスを批判しました(マタイ12:1-2)。麦を摘んだことは「収穫」、麦の実を殻から取り出したのは「脱穀」、実を手で揉んだのは「調理」で、安息日に禁じられた労働だ、というわけです。
律法学者やファリサイ派の人々は〈背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない〉のです。(マタイ23:4)。主イエスは、そのような律法の〈くびき〉(使徒15:10)から人々を解放されました。
貧しい人や罪人、病人、障がい者、女性、子どもなど、ユダヤ教会で軽んじられた人々は、イエスのもとに集まりました。幼な子のように無心に主を求める彼らに福音が啓示されたのは、父なる神の御心にかなったことでした(マタイ11:25-26)。
主イエスは今も招いておられます。
疲れ果てているのに、
ずっと律法の重荷を負わされている人は皆、
私のところに来なさい。
休ませてあげます。
私たちも様々なルールや慣行によって「しなければならないこと」が山積しており、できないことを責められている、あるいは自分で自分を責めているのではないでしょうか。
疲れ切った時は、無理せず休むしかありません。〈安息日の主〉(マタイ12:8)であるイエスは、私たちの霊も心も体も理解しておられ、必要な休息を与えてくださいます。主イエスは、みもとに来る人を、だれでも受け入れてくださいます。私たちも主イエスのみもとに近づきましょう。
2.わたしのくびきを一緒にかつぎなさい
続いて主イエスはこう言われました。
私は優しく謙虚な心で生きていますから、
私のくびきを一緒にかついで、私から学びなさい。
そうすれば、あなたがたのたましいは休息を見出します。
なぜなら、私のくびきはピッタリと合っていて、
私の教えは荷が軽いからです。
〈くびき〉は二頭の雄牛の首にかけて、車や鋤(すき)を引かせる道具です。イエスは青年時代にナザレで大工をしておられました。当時の大工は、木工に関わる仕事は何でもしました。「私が作るくびきは、あなたにピッタリと合っていて楽だよ。私の大工の腕は一流だから」とイエスは言っておられるのです。
〈くびき〉が体型に合っていないと、雄牛は首がくびきに擦れて痛み、疲れてどうしようもなくなります。私たちは、自分に合わない仕事や生活のスタイルを続けて、無理をしていないでしょうか? 心や体が痛みを訴えていないでしょうか? あるいは解決していない罪のために、あなたの霊が痛んで、叫び声をあげていないでしょうか?
私たちの霊と心と体を創造した主は、私たちの不具合を理解しておられ、必要な休息と治療を勧めてくださいます。疲れた時は静かに休んだら良いのです。痛んだら、サインが出ているのですから、ちゃんと治療をしましょう。
元気が回復したら、また歩き出しましょう。自分にピッタリと合った新しい〈くびき〉を付けて!
3.私から学びなさい
この世で生きていく以上、人は誰でも、負わなければならない〈荷物〉があります。私たちがキリスト者になったからといって、〈荷物〉が無くなるわけではありません。私たちは自分の家庭や職場、地域社会、親族、教会、交友関係、社会的立場、役割から離れることが、容易にはできません。けれど、〈私の荷は軽い〉と主イエスは言われます。キリスト者は旧約聖書の律法から自由にされました。キリストによって与えられた真理が、私たちを自由にしたのです。
真理はあなたがたを自由にする。(ヨハネ8:32)。
この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。(ガラテヤ5:1)
そして、もう私たちは独りで荷物を負うことがありません。〈くびき〉は二頭で負うものです。主イエスがあなたのパートナーとなり、あなたの荷物を共に負って歩んでくださるのです。主イエスはこう言っておられます。
私は優しく謙虚な心で生きていますから、
私のくびきを一緒にかついで、私から学びなさい。
主イエスは、私たちの人生の最高のコーチです。主はあなたのペースに合わせて一緒に歩きながら、良い手本を見せてくださいます。そして、いろいろな局面で一つ一つアドバイスを与えてくださいます。私たちが聴く耳を持っているなら、主イエスはいろいろな方法で私たちに語りかけてくださるのです。私たちキリスト者はキリストの弟子として、キリストを見習いながら、キリストに聴いて、成長していきます。
旧約聖書の律法は〈キリストの律法〉によって完成されます。
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、その自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤ5:13-14)
互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。(ガラテヤ6:2)
主イエスのごとく〈優しく謙虚な心で〉生きていく者となりたいですね。